第11話 異変
バタンと閉められた河合家の玄関扉にきらりは頭の中が真っ白になった。
真っ白になっても、きらりは反射的にゆっくりと帰路についていた。
いつも蒼紀の家にいろいろな用事でお邪魔しては、それを済ませて1人で帰るのが習慣になったいたからだろう。
きらりは、そんな時、その日の蒼紀との会話などを思い浮かべながら帰るのだが、わずか1軒分の帰路はいつも最高に幸せな時間だった。
蒼紀に勉強を教えてもらった帰り。
蒼紀に悩みごとを聞いてもらった帰り。
蒼紀に…。
中学に上がり、その間隔が徐々に開いていき、ついにはきらりが拒絶されるに至った。しかも…どこの馬の骨とも知らない女のせいで!
幸せな帰路が、汚された。
「イヤァァァァァァァァァァァァッッッ!!!」
きらりは、受け入れられない事実を拒絶するかのように恐ろしいほどの絶叫を上げた。
もし、このとき、きらりを監視していた人物がいたら大きな爆発を幻視しただろう。幻の爆発はすぐに大きな力の奔流になる。
「あああああああああああッッッッッッ!」
さらに叫びつづける、きらりの頭から、怒りが、嫉妬が、何か見えない、しかし力のある波となって津波のように流れ出ていく。
その波に当てられた近所の犬が、ギャンギャン吠えだした。
まるで洪水のように流れ出る波は四方に広がり、それに当てられた犬は吠え、猫は威嚇し、カラスや鳩たちは空に慌てて逃げていく。
数百メートル先の犬が吠えたあたりで、ようやくきらりから波が流れ出るのが止まる。
まるで全ての怒りを吐き出しきったかのか、きらりの顔は、先程のような怒り狂ったものではなくなっていた。
むしろ、その真逆。快感の波に溺れているような、恍惚としたものになっていたのだ。
「何これ…すごく、気持ちいい…」
荒れ狂う感情が今は凪のように収まり、その中できらりは自覚した。今、自分はこの瞬間、何かとてつもなく大きな力を手に入れたことを。
「ふふふふふ。使い方がよくわからないから街に出て試してみよっと」
※※※※※※※※※
「蒼紀くん、愛花ちゃんを送ってってくれる?」
「あーはい」
七海を迎えに行き、出前で七海の希望の寿司を食べてから、愛花と殺陣やらテスト勉強やらをしていたのだが、いつのまにか結構いい時間になっていた。
愛花が中学2年生であることを考えれば、桜子さんの言う通り、そろそろ家に帰さないと親御さんも心配するだろう。
「じゃあ、愛花、家まで送るよ、おうちは板橋の方だったっけ?」
「あ、環八のバス停までで大丈夫です!向こうのバス停にはお母さんが迎えに来てくれるので」
「そう?わかった」
環八…環状八号線は、練馬区を大きく東西に横断している環状道路だ。平和台駅前を通っていて、西に向かえば、途中から南に折れ、杉並区の荻窪や、世田谷区の田園調布を超えてぐるりと周り羽田空港に着く。
東に向かえば板橋を通り北区の赤羽になる。
環状八号線は都内自動車交通の大動脈であり、北からの関越自動車道と東海地方に抜ける東名高速道路をつなぐ幹線道路でもある。
また東京23区の外縁は、横串に刺すような電車がめっぽう少ない影響で、環八にはバスが常に行き交っている。
愛花の住む板橋区志村も、環八沿いの町であり、東西の移動には専らバスを使う。
ということで、そのバスが通っているバス停まで、徒歩5分ほどの距離を見送ることになる。練馬区は治安が良いとは言え、住宅街になると人通りも少なく、暗い。
家を出て、歩き始めると、愛花はニヤケ顔をしながら、俺にスマートフォンの画面を見せてきた。
「悠里さんからのメッセージSNS?」
「はい!センパイ、ぜひぜひ、中身を読んでみてくださいよっ!」
「なになに、相方のオーディションが終わってデビューが決まった…?」
「センパイ、私デビューが決まりました!」
「おお!そうみたいだね!おめでとう!」
「はい!そうなんです。来週明けの月曜日から、その相方の女の子と訓練に入って…来月デビューになります」
なるほど。めでたくはある。
しかしこの愛花との楽しい時間があと1週間しかない、という事実にさみしさを覚えたのも確かだ。
「ふふ!センパイさみしいですか?」
「そうだな…たしかにさみしいかもな」
「っっ!?あっ、あの、えーと、そっ、それで、センパイ、私、勉強のほかにも1つだけ教えてほしいことがあるんです」
「なにかな?俺に教えられることならいいけど」
そういうと…横に並んで歩いていた愛花が身を翻して、俺の前に立った。珍しくいたずらっ子みたいな顔をして…。
「私に…恋を…教えてください」
「は?」
恋を?俺が?
いろんな過程をすっ飛ばした告白に俺の頭の中は、まず戸惑いに占拠された。
「デビューしたら、当たり前なんですけど当分は恋人を作るなんて時間ありません」
「ま、まぁ、それはそうだろうね」
悠里さんの事務所は、給料がかなりいいのだが、その分、仕事もかなり厳しい。
スキャンダルを出すようなタレントがほとんどいないことでも有名だが、それは別にプライベートの管理が厳しいとかではなく…。
「恋人を作る暇があるようなやつは、悠里さんの事務所ではついていけないからね」
「はい!売れるためにはとにかく必死に、仕事を第一に頑張らないとやっていけません!」
昭和後期か?と疑いたくなるようなモーレツサラリーマンみたいな価値感だが、それでも悠里さんの事務所に入りたい人は無数にいる。
何故なら、悠里さんのプロデュースは神がかりと言われる天才の所業であり、努力を怠らない真面目なタレントは、すべて売れるようにしてしまうのだ。
そのため厳しいとわかっていても、悠里さんの事務所の門を叩くタレントの卵は後を絶たない。
もちろん、事務所への入所自体がひどく狭い門であり、そこでお眼鏡にかなった愛花は、相当な可能性を秘めているのだろう。
「だから今週いっぱいだけでいいんです…センパイ私の恋人になって思い出をくれませんか?」
「…つまりは、期間限定ってこと?」
「そうなりますね」
「なんで俺?たまたま、そこに年齢が釣り合う男がいたからってこと?」
「…そんな適当な気持ちで、こんなことを言うと思いますか?」
真剣な少し怒ったような表情を俺をじっ、と見てくる愛花。
「じゃあ…それって……」
「わかりません。私は…その…まだ初恋もしたことないですから…でも」
真剣に、告白するように愛花は俺に気持ちをぶつけてきた。
「まだたった3日間ですけど、センパイといるのすっごく楽しかったんですよ…センパイは…どうですか?」
俺は、きらりの件で1つだけ後悔していることがある。それはこちらの気持ちを伝える前に、全てが終わってしまったことだ。
砕けてもいい。1度くらいは当たることがあっても良かったと、思ってはいる。
少なくとも相手に恋人がすでにいるとか、自分が既婚者だとか、そう言った根本的な問題さえなければ感情を隠すことにメリットがあるとは思えない。
ましてや終わりが見えている愛花との時間に、悔いを残さない方がいいだろう。
「そうだね。俺も愛花と殺陣やったり、勉強したりするの、今日も楽しみにしてた」
「嬉しいです」
この3日間何度も観たあのキレイで真っ直ぐな笑顔を向けてくる愛花。
ま、こんなに可愛い子なら期間限定の恋人ごっこでもいいかもしれない。
「わかった。今週いっぱいだけだけど、愛花に付合うことにするよ」
「はいっ!センパイよろしくお願いしますね」
※※※※※※※※
その頃、きらりは池袋の繁華街にいた。
池袋駅の西口から出て、すぐ北側に足を向け、とある区画に入ると、ほかとは雰囲気の違う空気の街並みになる。
ガールズバー、キャバクラ、風俗などが軒を連ね、怪しいキャッチたちがズラリと並ぶ。どこか新宿の歌舞伎町にも似た空気感。
もちろん、夕方を過ぎた夜半の時間帯に、きらりのような女子中学生がいて良いような場所ではない。
案の定、この区画に入ってすぐ、ガラの悪そうな男たちがきらりの前に立ちふさがった。
「おいおいおい、お嬢さん。ここはお子様がいていい場所じゃないんだぞ?」
「そうそう。気をつけないと、俺たちみたいな男に取り囲まれちまうぜ?」
いつの間にか、きらりの後ろにも男が立って退路を立っていた。
ニヤニヤとだらしない顔をした男たちの頭の中はこのときピンク一色。この飛んで火に入ってきた上玉をどう楽しもうかしか、なかった。
しかし、次の瞬間。
もう一度、きらりのことを見ようとした男たちの意識は、前触れも無く刈り取られた。
まるで切り倒されたかのように倒れる男たち。きらりはそれがまるで当たり前であるかのように、男たちを踏みつけて歩き出す。
「さっき電車で使ったときは弱かったから顔赤くするだけだったけど…今回はちょっと力を入れすぎたみたいね」
そして何ごともなかったかのように、きらりは立ち去っていった。
しかし、何人もの男たちが倒れた現場は池袋の中でも特に栄えている場所。きらりが立ち去ってわずか数分で、池袋西口付近は大騒ぎになっていた。
−−−−−毒ガスがばら撒かれた?
−−−−−大量殺人鬼が現れた?
その場にたまたま出くわした人々は根拠もない噂を流し、SNSに現場写真をあげる。わずかにいた良識がある人たちは、誰か救急車を呼べとか叫びながら、男たちの応急処置に奔走していた。
まもなく、けたたましいサイレンとともに救急車が数台、駆けつけてくる。
救急車から下りた救急隊員たちが、倒れている男たちの様子を見て、呼吸の確認やら脈の確認やらをしていると…。
いつの間にか現れた、大柄でぴっちりとした背広を着た1人の男が、倒れた男に近寄ってきた。
「ちょっ…ちょっとキミ!いま救急活動中で…しかもタバコは…!」
男の咥えタバコから漂う紫煙の匂いに顔をしかめた救急隊員だが…。動きを止めようとその男の肩に手をかけたとき、岩のような筋肉の質感にギョッとする。
「ワリィな。俺はこういうものなんだ」
「!」
大柄な背広男が、何か手帳のようなものを見せると救急隊員は急に黙ってしまった。そして、救急隊員は立ち上がって、その場を大柄な背広男に譲る。
大柄な背広男は、倒れた男の側に座ると、瞳孔やら脈やら救急隊員がチェックしたものと同じ項目を確認し始めた。
そして、その男の確認が終わると、ほかの倒れた男たちも同じように確認し始める。5人目あたりまで見たとき、大柄な背広男は、ポケットからスマートフォンを取り出して電話を起動した。
『不動、どうだった?』
かけた電話の向こうから、冷静ではあるが、どこか疲れ切ったようにも思える若い女の声が聞こえてきた。
不動、と呼ばれた大柄な背広男は内心でだけお疲れ様と言って、口では別の話を始める。
「室長…被害者の瞳孔、脈、呼吸を見るにほぼ確実に、
『さっきお前が有楽町線で偶然見つけたヴィクティム2人と同じやつの仕業か?』
「偶然というか、室長が
はぁ〜と電話口の向こうから『室長』の長い溜息が漏れ聞こえてきた。
『あー、タイラントっぽくないということか』
「はい。だから恐らく力を得たばかりのストレイが状況わからず試し打ちって感じですかね」
『ずいぶんとやんちゃなストレイだな』
「ええ。お陰でこっちは残業確定です。あーヴィクティムは、みんな警察庁の息のかかった病院にぶち込んでおきますから…そうですね、センチネルから記憶操作が得意なヤツを1人よこしてください…よりによって今は
『いれば話が早いんだがな。だがお陰様で私も残業確定だ。面倒だが、こっちは監視カメラからストレイが誰だかを確定しておこう』
「よろしくお願いします」
大柄な背広男は、ピ、と電話を切ると、はぁ、とため息ををついてから、咥えていた煙草をポケットの携帯灰皿に潰し入れた。
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