第5話 運動もできるもん

桜子さんから借りた鍵を持って地下室に行く。


鍵を開け、分厚い防音扉を引くと中には、10メートル四方ほどの板張りの部屋があった。


普段は現役アイドルたちが、元トップアイドルの桜子さんから指導を受けるときに使うらしい。が、もちろん、いまの時間帯は誰もいない。


「さて、ここにあるマットを引いてもう一度やってみようかな…」


部屋の隅には道具置き場へつながる扉がある。中には大小様々なボールや、何に使うのか跳び箱なんかもあるが…。


「お、あったあった」


1番奧に、筒状に丸められたマットが数枚おいてあった。1人で持つには重いが、何とか道具置き場から引きずり出して、メインフロアの真ん中に広げることに成功する。


「ふー重かった。さて、また挑戦するか」


先程は確かに逆立ちに失敗したのは確か。だが、先程の試行に全く望みがない感じでもなかったのだ。


「どうやら、さっきのふらふらした逆立ちの最中にも、脳神経製の計算機シナプスカリキュレーターが、身体のバランスを計算して、なんとかバランスを保とうとしていたみたいなんだよね」


崩れそうなバランスを保つために、脳味噌がフルフルに働いているのを感じた。残念ながら、力及ばなかったが、何度かやればいけそうな気がする。


普通、逆立ちの練習にはまず、壁を使った訓練をしてバランスを覚えるところから始める。そして徐々に壁から離れて自立できるように練習を重ねてから、ようやく普通に逆立ちをする…らしい…調べた限りでは。


そのため、いきなり、壁も使わずに、普通の逆立ちをしようとするのが、練習としてはかなり無茶苦茶なのだ。


だが、普通の訓練でできるようになっても仕方ないのだ。要するに、今俺が背中を痛くしているのは、上手くなるためではなく、脳神経製の計算機シナプスカリキュレーターの限界を見極めるための実験なのだから。


「よし、もういっちょ!」


しゃがみながら手を地面に突き、その勢いで下半身を上げる。勢いが付きすぎると向こうに倒れるし、勢いが足りないと足が上がらない。


「あ…」


さっき背中を打ったことへのビビリからか、地面を蹴った瞬間、明らかに勢いが足りないのがわかったので諦めて、地面に足を戻す。


そして、その蹴る勢いが足りなかったという情報を脳神経製の計算機シナプスカリキュレーターが取り入れて、シミュレーションしているのもわかった。


「今度はいけそうだ…」


何度か使って、脳神経製の計算機シナプスカリキュレーターの使い方がわかってきた。


身体を動かすのは、脳だ。だからもっと身体の動きを脳神経製の計算機シナプスカリキュレーター委ねてしまえばいいのだ。


身体の主導権を脳神経製の計算機シナプスカリキュレーターに譲るくらいの気持ちで、逆立ちをしてみる…と。今度はちょうどよい勢いで地面を蹴ることができた。


すう、と足が天井に向かって伸び、腕は若干身体の重さに震えているものの、完全な倒立ができた。


「うおおおっ!できたぞっ!…って、うおお!?」


喜びも束の間。すぐに身体を支える腕の方に限界が来て、崩れ落ちる。


「あー。腕の筋肉が運動神経についていけなかったかなぁ…」


でも収穫はあった。


降って湧いたギフテッドである脳神経製の計算機シナプスカリキュレーター。上手く使いこなせれば、運動神経を抜群に高めることもできるようだ。


筋力はさすがに脳や神経とは直接関係がないのでどうにもできないだろうが…。


「今日はこれくらいにして寝ることにするかー」


※※※※※※


翌日、朝起きて、桜子さんの朝ごはんを頂いてから体育の授業で使えそうな動画を片っ端から見た。


早く走る方法、長く走る方法、遠くまでボールを投げる方法、飛んでくるボールに反応できる方法。


鉄棒で、いまだ成功率の低い逆上がりから、全くできる気もしなき後方支持回転、前方支持回転。マット運動として側転に、バク転。


お昼くらいまで、十分に動画を見たところで、また地下にあるスタジオに向かう。中には…誰もいないな。よし。


「昨日に続きマット運動からやってみよう」


外の公園だと誰かに見られて赤っ恥を掻きかねないがスタジオならば、そういう心配はない。昨日と同じように道具置き場からマットを取り出してきて床に広げる。


「よし…脳神経製の計算機シナプスカリキュレーターに、身体の動きだけを委ねて…えいやっ」


側転。


屈み、手をつくところから、足が上がり、反対側につくと今度は身体を起き上がらせる。ここまでがまるで流れる、お手本のような動きができた。


続けてやってみても、全く問題ない。


しかし、5回転ほどしたところであっさりと息切れして、尻もちをついてしまう。


「ハァッ、ハァッ…動きは…できているのに…体力が…おっつかないな…」


何だかチグハグなきもするが、決して悪くない結果だ。それに体力の方だって、もしかしたら、効率よく上げる方法があるかもしれない。


しばらくして息が整ってきたので、立ち上がり次の技に挑んでみることにする。


「次はバク転に挑戦だ!」


バク転。つまりは、後ろに反り、手をついて、足を蹴り上げて反対側に着地、そのまま身体を起こす動作だ。


普通の中学の授業ではやらせない。というか高校でもやらせない、高難易度の技である。


バク宙も見たが、さすがに俺の筋力ではジャンプ力が足りないだろうと断念した。だが、バク転なら筋力関係なく、反射神経さえあれば一回くらいできるはずだ。


「よし!行くぞ!てやっ!!」


よっ…視界がぐるりと回って…手をつき、身体のバネをつかって跳ねた足が反対側に着く。


あとは姿勢を戻せば…よし!できた!ばっちり一発成功だ!


「うわー!すごーい!」


成功にご満悦していたら、1人と思っていた部屋に女の子の声が響いた。声の方を振り向くと、そこには、ほぼ俺と同じ歳くらいと思われる可愛らしい少女が立っていた。


見たことのない顔だ。


でも…くりくりとした大きく丸い瞳に、素直な驚きが浮かんでいて、全く知らない人間だと言うのに思わず警戒心を解いてしまいそうになる。


「えーと?キミは?」

「あー、私はですねぇ〜」


今度はいかにも困った、というような色が浮かんできた。どうやら、喜怒哀楽がずいぶんとハッキリとした女の子らしい。


「この子は、うちの事務所で面倒を見ることになった新しい女優の卵だ…まだデビューすらしていないがな」


その声に、少女が黒いポニーテールを揺らして後ろを振り返る。少女の視線の先、ちょうど出入り口の扉近くにかなり背の高い、30代半ばほどの男性が立っていた。


「悠里さん…おはようございます」

「おう、おはよう。で、この子だけど、中野愛花って言ってな。蒼紀の1つ下14歳の中学2年生だな。これまでうちで預かった中では最年少になる」


悠里さんがポンと肩を叩くと、中野さんは弾かれたように大きく頭を下げてきた。


「あの、そのっ!中野愛花ですっ!よろしくお願いしますっ!」

「ああ…えーと、河合蒼紀です。よろしく」

「え?河合?」


俺の苗字が、悠里さんと同じなことに気が付いたのだろう。疑問を浮かべる中野さんの疑問に、悠里さんが応えた。


「ああ、蒼紀は俺の甥っ子だ。都合があって、俺が保護者ってことになってる」


いろんな事情は省いて結論だけを、女優の卵に伝えた。さすがに理由が理由なだけで、誰彼構わず話すわけにもいかないからだろう。


「社長の甥っ子さんですか…」

「まぁ、たぶんこいつは芸能界入る気ないだろうけどな。ただ勉強はやたらできるから、レッスンの合間にでも見てもらえ」

「わかりました!河合さん、よろしくお願いしますっ!」


元気に、大きな声で、ペコリと頭を下げる中野さんに圧倒された俺は「あ、あぁ」とようやく返した。


悠里さんは、戸惑う俺を見てニヤリと笑った。そして、何かを企んでいるような笑みを浮かべたまま俺に近づくと、耳元に口を寄せてくる。


(蒼紀、お前、こういう素直で真っ直ぐなタイプ、周りにいないから新鮮だろ?せっかくだから、仲良くなっちまえよ)

(な!?ちょ!)

(あのな、蒼紀、幼馴染だけが女じゃないぞ?)

(!?)

(世には、良い女が山ほどいるってことだ…広い視野を持てよ)


悠里さんは、俺がきらりにフラレた同然なことをすでに知っているのか。


「それはともかく、蒼紀、お前、運動苦手じゃなかったか?」

「苦手ですよ…だから一回でへばってます」

「運動苦手なやつはバク転なんかできないと思うけどな…」


悠里さんが最もなことを言ってきた。


ううむ。悠里さんは、ものすごく頭の回転の速い人なんだよな。だから子どもの俺がいくら誤魔化そうと言葉を重ねても絶対に通じない。


そう考えた俺は思い切って事情を話すことにした。もちろん脳神経製の計算機シナプスカリキュレーターのことは話さないが。


「動画を見て覚えただぁ!?」

「はい。苦手科目の体育を克服するために、動画を見てやり方を学びました。あとは実戦だと思い…始めたところです」


へーと感心してから、悠里さんは腕組みをした。そして数秒ほどで何かを思いついたのだろう、スマートフォンを操作して画面を見せてきた。


「じゃあ、蒼紀。これは覚えられるか?」


画面に写っているのは動画。女性2人が恐らく演技で、殴りあったり、それを受け流したりしていた。


「これは、何かの組手ですか?いや、殺陣?」

「殺陣、だな。この子に覚えてもらうつもりだ」


そう言って、中野さんの肩をまた、ポン、と軽く叩いた。


「実は最近、女性オンリーで、かつアクションをメインにするコンセプトの劇団を立ち上げてな。彼女はアクション女優を目指してるから、まずはそこに所属してもらって様子を見るつもりなのさ」

「へー。それでその動画を俺に見せてどうするつもりですか?」

「実は彼女の相方が決まっていなくて、ちゃんとした練習が始められないんだ」

「…俺にこれを覚えて、仮の相方となれ、と」


うんうん、と悠里さんは頷いた。どうやら、本当に俺相手に中野さんの、殺陣の練習をさせるつもりらしい。


「こう見えても、彼女は空手経験者だ。甘く見ると怪我をするぞ?さぁ、どうする?」

「大丈夫です。覚えました」

「そうだろ、覚えるの大変…っていま『覚えた』と言ったのか?」

「はい」


源氏物語の原本読みに比べれば朝飯前だ。脳神経製の計算機シナプスカリキュレーターでの、身体の使い方もわかったしな。


「なるほど。その表情を見るに、自信もあるみたいだな。よーし、じゃあ、少し広いところに移動してみようか?」


悠里さんはうきうきの声でそう言った。

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