変わってしまった世界で、変わらなかったもの。
春の雨は長く降り続いても、どこか爽やかな印象があるものだが、その日の雨は滂沱の涙が雲から伝っているのではないかと思うほど、悲しげだった。
僕は幼馴染として、六風のお通夜と葬式の両方に参加した。僕と六風は親同士も仲が良かったから、母も六風の遺体を見ながら、涙ぐんでいた。「娘がいたら、あなたみたいな子が欲しかった」と確か母が昔、六風にそんなことを言っていた。お通夜で、僕はふと思い出した。
本当は、僕はあまり行きたくなかった。動かなくなった六風の姿なんて見たくなかったからだ。だけど行かないと変な気がして、「嫌だ」とわがままを言うこともできなかった。死んだショックで行けない、という想いをもっと前面に出していれば良かった気もする。そうすれば無理強いはされなかったはずだ。
死化粧が施されて綺麗な顔のまま横たわる六風の顔は綺麗で、いま起きたとしても、不自然に感じないくらいだった。だけど起きてくれることはない。だって僕たちが生きているのはゾンビ映画の世界ではないのだから。ただ僕たちの生きている世界はゾンビ映画ではなかったが、それと同じくらい、いやもっと奇妙で、複雑な世界だった。残念なのは、それが夢のあるものならいいのだが、不条理で、容赦なく残酷なものだったことだ。
「殺人犯が見つかったら、この手で殺してやる」
その言葉を聞いた時、言葉の響きの強さにどきりとした。
葬式の際中、斎場の休憩室にいた時、なんとなくみんなと一緒にいるのが嫌で、僕が部屋を出ると、ちょうど喫煙コーナーに六風のお父さんの姿があった。
「ありがとうな。ここまで来てくれた」
六風のお父さんは工場で働いている筋肉質なひとで、見た目はすこし怖いが、僕にも優しくしてくれるひとだった。外見に反して口調もいつも穏やかだ。
「ううん。大丈夫です」
「ちょっと前の話だけど、『最近また山岡くんと話せるようになって嬉しい』って、あいつ言ってたぞ」
六風のお父さんに他意はなかったと思うが、ちょっと前、という言い方がやけに耳に残った。
「そう、なんですね」
「おいおい」と六風のお父さんがちいさく笑う。ただその笑みは弱々しい。「他人行儀だな。別にタメ口でもいいからな」
「うん」
それから六風のお父さんは、学校での僕についての話を聞いてきて、すこしの間、雑談したあと、会話はなくなった。沈黙の中で、ぽつりと呟いたのが、さっきの言葉だ。
『殺人犯が見つかったら、この手で殺してやる』
警察に捕まるくらいでは生温い、という強い意志が感じられる口調だった。
お通夜と葬式は、一分一秒があまりにも長く感じられ、終わったあとは、ベッドに倒れこむように、すぐ寝てしまった。
三日後、僕は四原に声を掛けた。放課後、学校から帰ろうとしている四原に、「すこしだけ話したいことがあるんだ」と伝えて。僕の覚悟は決まっていた。たとえこれで、僕が友達を失うとしても。
向かったのは、音楽室だ。最初は、四原の家で、というのも考えたのだが、話の内容を考えて、四原の家で、四原とふたりになることにはためらいがあった。
この音楽室にはかつて、幽霊がいた。だけどもうそこにはおらず、彼女の鳴らしていた『月光』はもう聞こえない。静寂に包まれた音楽室は寂しい。
「どうしたんだよ」
と本当に疑問には思っていないような口振りで、四原が聞く。四原のほうだって、僕が声を掛けてくる予感はあったはずだ。勘でしかないが、自信はあった。
「色々と聞きたいことがあって」
「なんでも聞いていいよ。いままでだって、気にせず聞いてきただろ」
僕たちの関係は、もうすでに過去のものとは違っている。残念な話だが、元の形に戻ることはない。
「何から聞こうか、ずっと悩んでたんだけど、もうはっきり聞くね。こういうの、単刀直入、って言うんだっけ。まぁ、うん……。全部で五人か……。五人の児童を殺したのは、四原、お前だろ」
「なんで、そう思うんだ?」
違う、と第一声、彼は否定しなかった。
「『何か隠していることはないか』ってあの時、聞いただろ。僕はあの時点で、お前に伝えてなかったことがあるんだ。噂で聞いたんだけど、さ。四年生の時、いじめに遭ってなかったか。あの三人から。どのくらいの、いじめだったのか、そこまでは詳しくしらないけど」
「詳しく知らないなら、変な想像はしないほうがいいよ。確かにちょっとからかわれたり、とかしたけど、そんなもんだよ」
絶対に違う、と思ったが、そこを追求しても、彼が真実を答えてくれるとは限らない。
「最初はすごく絡んでたのに、途中からお前とあの三人は全然関わらなくなった、って聞いたけど。とりあえずそういう噂があるくらいに、お前たち四人に関わりはあった」
「まぁ、そう思いたいなら、思えばいいよ」
「……続けるよ。それまで関わりがあったのに、五年生になっても全然話さない、ってのもおかしい気がする。一川と三上は同じクラスだったのに。しかも、一川の家族の事情まで詳しかった。あれは調べたんじゃなくて、元々関わりがあったから知ってたんじゃないか。それか復讐でもするために、細かく調べてたとか」
「変な映画の観すぎだよ」と四原が笑う。
「そんなに観てないよ、そもそも映画自体。……で、そうやって、毎月ひとりずつ、二十四日に復讐相手を殺していった。一日ずつだったのは、呪いっぽく見せて、三人を怯えさせようとしたんじゃないかな。あの三人は、僕もそんなに知ってるわけじゃないけど、仲はすごく良かったみたいだから。次は自分かも、って考えてしまうかもしれないね」
「初歩的なこと、聞いてもいい?」
「うん」
「きみは本当に、小学生が、きみの話の通りなら、五人か。僕が五人を殺したみたいに言ってるけど、本当に子どもが、計画的に、子どもを五人も殺せる、と思ってるのか?」
そう言えば以前、六風ともこんな話をしたなぁ、と思い出す。あの時は、僕のほうが、『無理だ』と言っていたのに、今度は立場が反対になっている。
「普通は無理だと思う」
「だろ」
「仮にできたとしても、ひとりが限界じゃないかな、って気がする」
「ほら」
「でも、お前ならできるよ。だってお前は普通の子どもじゃないんだから」
「じゃあ何者なんだよ。まさか、宇宙からの生命体とかでも言いたいの」
「そうだね。そうかもしれないし、違うかもしれない。でもそれに近いようなものだ、って僕は考えてるんだ。お前が僕たちよりも大人びていることを、僕はもっと真剣に考えるべきだったのかもしれない。色んな都市伝説を追ってきたように」
最後の言葉は震えていた。僕たちが都市伝説を追ったあの日々はほんのすこし前の出来事なのに、遠い過去のようにさえ思ってしまったからだ。もう永遠に戻ってくることはない、あの日々の、あの感情を、僕は偽りだと思いたくないからだろう。
「僕が大人びているとしたら、それはたまたま賢い子どもだった。それだけだよ」と本気でそう思っていない口調で、四原が言った。彼も気付いているのだろう。僕がその事実を知ってしまっていることに。
「違う。僕はもう知ってしまっているんだ」僕は彼を追いつめようとしているはずなのに、どこか自分の言葉を彼に誘導されているような気がした。「八波論、という名前を。お前にそっくりだったし、それだけじゃない。ローマ字にして言葉を並び替えれば、四原、になる」
「きみがアナグラムを知っているわけがないから、誰かに教えてもらったんだろう。別に聞かないよ。聞かなくたって、見当はつく。しかし……広田先生も変に記憶がいいんだから。たとえ僕に起こった出来事にインパクトがあったとしても、顔なんて忘れるだろ、普通。小学校の同級生なんて。そう言えば、小学校の時のテストの成績も良かった、っけ」
それはもう認めているようなものだ。僕はこの状況を望んでいたはずなのに、心のどこかで否定し続けて欲しい気持ちもあった。矛盾した感情だ。
「八波さん……」
「別に無理しなくてもいいよ。好きに呼べばいい。別にその言葉に愛着なんかひとつもないからね」
すこしだけ声音が変わった。これが本来の、僕たちの前で演じていた仮面を剥ぎ取った四原の声なのだろうか。
外見は何ひとつ変わってはいないが、確かに何かが変わった四原がそこにいる。僕はとんでもないしくじりを犯してしまったのではないだろうか、と彼と対峙しながら息を呑んだ。
「四原……」
「僕は、小学校の卒業式から中学校の入学式までの間に、車に轢かれて死んだ少年、八波論だったことがある。交通事故……まぁ轢き逃げだよ。僕を轢いた車のドライバーは酔っぱらいだったらしい。そこで僕の肉体はなくなり、精神も魂も、どこかへと消え去ってしまうはずだった。だけど僕は同じ姿のまま、よみがえっていた」
「よみがえる……」
「あぁ、うん。同じ姿のままだけど、そこから成長することはない。変わらない姿のまま、変わっていく世界を眺めつづけていたんだ。だから僕はこんな姿をしているけれど、年齢は広田先生と同じなんだ。僕は寝なくても、食べなくても、生きていける。周りに合わせるために、そういう行動を取ることもあるし、美味しいものを美味しいと感じることはできるけれど、絶対に必要ではないんだ。客船に忍び込んで世界を回ったり、遠い他国で少年兵になったり、僕は死なないし、超常的な力を使うこともできたから、どこだって重宝された。そんな僕にとって、学校の児童として生きることなんて造作もないことだ」
「何を言っているか分からない」
「別に分からなくたっていいさ。こっちが勝手にしゃべっていることを理解する必要はない。だから僕にとってひとを殺すことは簡単だし、倫理観なんて欠片もない。きみはそうではないだろうけど。確かに一川、二階堂、三上は、僕が殺した。子どもは子どもを簡単に殺せるはずがない。そうかもしれないね。だけど大人が子どもを殺すのは簡単なんだ。倫理観をなくすだけでいい」
「殺したのは、五人だ」
「うん。そうかもしれないね。四谷くんを殺したのは僕じゃない。だってアリバイがある。あの時、僕はきみと一緒だった。まぁ本気で殺そうと思えば、きみがいる状態でも、僕には殺すことが可能だったんだけどね。だけどそれをしてないから、僕にはアリバイがある。これは信じてもらうしかないんだけど、ね」と彼が笑う。
「四谷くんだけは、違うんだろ。僕は四谷くんまで殺した、と思ってない。だって四谷くんを殺したのは、五代だからだ」
「あれ、ただの子どもも、ひとを殺せるんだね」と四原がからかうように言う。
「ひとりくらいなら、殺せるよ。それに二つも年下の低学年の男の子なら、男子も女子も関係なく。それに四谷くんは身長順で言えば、前から数えたほうが早いくらい、低かったんだから」
「まぁ否定する必要もないから認めてあげるよ。四谷くんは五代さんが殺した」
「それは、なんで……」
「いやぁ、そんなつもりはなかったんだけどね」本気かそうでないのか分からないような口振りで、四原が言う。「彼女は僕を崇拝していたんだ。ちょっとね。彼女を助けてあげたことがあって、それ以来、ずっと僕のことを。そんなことを望んでの行動だったわけじゃなかったんだけど、ね」
「助けた?」
まだそんな時間にはなっていないはずなのに、窓越しの空は暗く染まっていた。まるで世界から、この音楽室だけが切り離されたかのように。四原がピアノに近付き、鍵盤蓋を上げて、無造作に鍵盤を叩く。汚い音が鳴り響く。
「うん。五代さんは母親の新しい恋人から、日常的に暴力を振るわれていた。どうしようもない男だよ。ヤクザのフロント企業で経営者をしている男で、ギャンブル好きの典型的なダメ男」
僕は四原と話している間、細かい部分の言葉の意味は理解できていなかったが、話の腰を折ることのできない圧があって、僕は聞くことができなかった。だから、『崇拝』も『フロント企業』も何を意味するのか、よく分かっていなかった。
「なんで、そんなことまで知ってるんだよ」
「僕はなんでも知ってるからね。例えばきみの隠している秘密だって」
「そんな話はいいよ」僕はその言葉にどきりとして、無理やり話を戻そうとした。「それで五代さんを助けた、っていうのは」
「毒を渡したんだ。彼女に、ね。簡単にその男を殺す方法を教えた」
「殺した……」
「これなら別に、ただの女の子だって、屈強な大人も殺せる。そしてその死体は行方不明になったらしい。どうせ彼女のお母さんが、誰かに死体の遺棄をお願いしたんだろう。彼女のお母さんが働いていたのはそのフロント企業で、裏稼業の人間とも多少通じていたみたいだからさ。それからだよ。五代さんは僕を救世主のように崇めはじめて」
「でも、なんで四谷くんを殺す、って話になるんだよ」
「いやぁ、そんなつもりは無かったんだけど、ね。『もしかしたら次の次は、僕あたりが死ぬかもしれない』って五代さんに伝えたんだ。二階堂くんが死んでちょっと経った後だったかな。そしたら彼女、なんか悩むような素振りをしていたから、あの時から、四谷くんを殺すことを考えてたんじゃないかな」
「意味が分からない」
「人間の行動なんて、大抵、理解できないものだよ。僕だって、はっきりと五代さんから真意を聞いたわけじゃないからね。まぁでも想像するのは簡単だ。呪いのようなものだと五代さんが考えていたとしたら、呪いには法則性があることも多い。四谷くんを殺すことで、僕を助けようとしたんじゃないかな。彼女なりに。まったく笑っちゃうよ」
笑っちゃうよ、と言いながら、四原は真顔だ。
僕は『不幸の手紙』らしきものを下駄箱に入れていた五代さんの姿を思い出す。あの時は、六風の下駄箱に入れている、と思った。だけどあれは四原に渡そう、と考えていたのではないだろうか。決意表明を。
「四谷くんを殺して、お前を助ける……」
「そんなことをしても、別に僕が死ぬことなんてないのに、ね」
「じゃあ言えばよかったじゃないか。死なないのなら。僕にだって、そうだ。あんなに不安そうな態度をしなくても……」
「言ったら、きみたちは信じてた?」
「えっ」
「あぁ確かにきみたちなら信じてたかもしれないね。でも、僕はみんなの右往左往する姿が見たかったのかもしれない。だって僕はすごく性格が悪いからね。特に死んでからの僕は」
こんな奴だったのか、と怒りがわいた。思いっきり顔面を殴ってやりたい気分になった。だけど彼が僕の心を見透かしたように、きみにそんなことをする資格はないよ、と言いたげな表情を浮かべた。
「じゃあ、それで四谷くんが……」怒りを抑えながら、僕は言った。簡単にひとが殺されていく。「でも、その五代はなんで死んだんだよ」
「五代さんは、自殺だよ。ただ僕は、『僕が疑われるかもしれないね。だって僕が生き残ってしまったから。誰かさんが変なことをしちゃったから』って伝えただけだよ。毒を渡してね。別に責めるつもりはなかったんだ。ただ思ったことを言っただけで」
どう考えても、その言葉は責めているようにしか感じられない。いわゆる自殺教唆だが、やっていることは殺人と何も変わらないし、僕はそれを殺人だと、あの当時から考えていた。
「それは殺人だよ。人殺しだ」
「何、怒ってるんだよ。もうすでに三人……どころか、いままでに何人殺した、と思ってるんだよ。たったひとつ増えたくらいで」
『わたしは、後かいなんてしてない。ぜったにそんなこと私はみとめない』と書かれたあの手紙の内容が、頭によみがえる。あれは『自分の行いに後悔はないが、四原が犯人になることは認めない』という意味だったのだろう。確かに五代さんが行ったことは許されることではないが、僕からすれば、四原の行為のほうが許せない。他人の想いを踏みにじって平然としている四原が。僕と五代さんは似ていたのかもしれない。
「怒ってない……ただ、嫌な気持ちになったんだ」
「それは怒ってるよ。さっさと認めないと」
「もういいよ、その話は。次に行こう、次の話に。五代さんが死んだ、その理由は分かった。四谷くんの死の原因も分かった。だけど分からないのが、なんで最初の三人を殺したんだ。それはやっぱり、四年生の時、嫌がらせをされたから?」
「かもね」
本気かどうか分からないような口振りで、四原が言った。たぶん本気ではない気がした。でも他の彼らを殺す理由なんて思い付かない。
「なんで……。確かに嫌がらせはされたかもしれないけど、それは殺すほどのことなのか」
「殺すほどのこと、って?」
「えっ」
「僕は様々な環境で、この姿のまま、生きてきた。さっきも言っただろ。少年兵として戦場を目の当たりにしたこともある。たいした理由じゃなくても、ひとを殺してたよ」
「そんな遠い世界の話をされても……」
「身近にもそんな話はいくらでも転がってるよ。きみが知らないだけで、ね。僕は、ね。ときおりこんなふうに思うんだ」
「なんだよ」
「理解できないものを理解しよう、ってのは傲慢なんだよ。人間のね。これ以上、きみの傲慢に付き合う気はないんだけど、どうする。まだ何か聞きたいことは?」
「あるよ」
他のことはどうでもいい。だって僕が何よりも言いたかったのは、これなんだから。
「なんだよ、怖い顔をして」
「なんで、六風を殺したんだ。だって殺す理由なんてひとつもない。理解しようとするほうがおかしい、って言われても」
四原が、僕の言葉にちいさく、意味ありげに笑った。
「理由なんて、きみのほうがよく分かってるだろ」
「僕は何も知らない。だから聞いてるんだ。僕はこれまでの話を全部、水川先生に話した。事前に遺書だって作ってきた。きょう、きみに話した内容を全部書き記した。隠し場所は僕と家族しか知らない。僕が死んだら、この話はみんなの知るところになる」
「あぁ、なるほど。そういうことか。きみはとても卑怯だね」
卑怯、という言葉が何を意味するのか、僕にはもちろん分かっている。
「卑怯だよ、僕は」
窓越しでは強い風が、桜の木を揺らしていた。
「うん、じゃあどうしようか。そうだね、しつこかったから、にでもしようか。六風は僕にとても好意に持っていて、僕はそれにうんざりしていた。だから殺した。僕にはもっと好きなひとがいたのに。好きなひとは誰にしよう。きみにしようかな、水川先生にしようかな、それとも五代さんのことを忘れられなかった、にしようかな。別に誰でもいいから、そっちの想像で付け加えておいてよ。子どもだから恋愛関係の縺れは違和感があるけど、大人だったら殺人の動機としては、ありふれすぎているくらい、ありふれている。どうかな、これで」
僕は何も返さなかった。
すこしの沈黙の後、彼がひとつ息を吐く。
「四原……」
「まぁ何だろう。きみの心配するようなことは何も起こらないよ。たぶんね。すくなくともいまのうちは。じゃあ、僕は帰るよ」
「帰る? どこに?」
「さぁ、どこだろう。まぁ、きみもそうやって嘘をつきながら、今後も生きていけばいい。じゃあね」
四原が僕に背を向ける。その寂しげな背中は前にもどこかで見たような気がする。あぁそうだ、音楽室での幽霊の一件が終わった直後、ふたりで帰っていたあの時だ。僕はあの時にはもう、僕たちの別れをおぼろげながら想像していた。まさかこんな別れが待っているなんて、その時は想像さえもできなかったわけだが。
なんで、そんなに寂しそうなんだよ。
罪の意識が、僕を責め立ててくる。短くて、嘘にまみれていたのかもしれないが、それでも彼は、僕たちと一緒にいた時間を楽しんでいたのではないだろうか。彼の気持ちなんて分からないし、僕の勘違いなのかもしれないけれど。
それなのに、僕は……。
彼が消える。誰もいなくなった静かな音楽室で、ちいさく雨音が聞こえてくる。雨の粒が窓に当たっては、弾けていく様子を、僕はぼんやりと眺めていた。
『きみの心配するようなことは何も起こらないよ』
と四原は言った。その言葉の意味はすぐに分かるようになった。
翌日以降、四原は姿を消してしまったからだ。行方不明になったとか、そんな話ではない。最初からそんな人物は存在していなかったかのように。誰も四原を知らない。出席番号は詰められているし、端っこにあった四原の机もなくなっている。彼だけじゃない。一川くんも、二階堂くんも、三上くんも、四谷くんも、五代さんも、この世界から消失していた。まるでSF小説の世界にでもいるかのように、僕以外、誰も彼らのことを知らない。それで矛盾は生じなかったか、というと、ひとつも生じなかった。みんなの記憶は改ざんでもされたのか、記憶の中のそのひとが担っていた役割は、他のひとに代替されている。僕だけがそのことを知っていて、怯えていた。
だからこの短い間に死んだ多くの人間は、死、と扱われずに終わってしまったわけだ。敢えて言うなら、校長先生の黒い噂と自殺はそのままで、渡辺さんは転校してしまった。これは四原の中で、自分とは無関係だと除外するものの中から弾いたのだろうか。確かに直接な繋がりはないだろうが、あの死の連鎖がなかったなら、校長先生の死はなかった、と考えると、すこし可哀想な気もする。
だから現実で殺された人間は、たったひとりだけだ。
たぶん四原の力を持ってすれば、六風を消すこともできたはずだ。だけど四原はそれをしなかった。その理由は、誰よりも僕が分かっている。
六風を殺したのは、僕だからだ。
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