事の次第、あるいは僕だけが知っていたこと
こうして僕たちの関係は変わっていく。
神様はいない。天使は信じない。悪魔は疑わしい。幽霊だけは見える。僕には友達がいた。確かにいたはずだった。だけど、もう見えなくなってしまった彼を思うと、強烈な不安が押し寄せてくる。あの〈友達〉は、僕の見える世界に存在したのだろうか、と。日常のドアをノックする。返事はない。開けてみる。そこには誰もいない。記憶を信じるか、いま見える世界を信じるのか、それが問題だ。僕は心の中で、謎めいた友人の名を呼ぶ――「四原」
「はじめての手作りチョコだったんだ。持っていく時、落として割れちゃって、それでも、私、渡したんだ。『好き』って伝えたら、きっと受け取ってもらえる、ってそんな気がして。甘いよね。私はチョコより甘いんだ」
六風がそう言った時、もう時期は早春だったが、春、という言葉に似合わない小雪がちらついていた。二月の末だっただろうか。僕はその時、六風をどこか避けていて、その理由を自覚できずにいた。
「なんで避けてるの?」
と呼び止められて、自分でもうまく言葉にできず、しどろもどろになってしまったのを覚えている。
「避けてなんかないよ」
と答えてはみたものの、信じてもらえる余地がひとつもないほどの、明らかな嘘だった。
「嘘だ」
「本当だよ」
「山岡くん、って嘘が下手だよね。で、なんで避けてたの?」
「だから、避けてない、って」
「ふーん、まぁ、いいけど」
山岡くんのことなんて、どうでもいいけど。六風はそう言ったわけじゃないのに、何故かそう告げられたような気持ちになってしまった。彼女の言葉が信用できなくなってしまっていたのだ。
「私、四原くんにチョコを渡したんだ」
僕が何か聞いたわけでもないのに、六風がそんな話をはじめた。甘い話は嫌いだ。やめてくれ。心の中ではそう思っていたが、実際にそれを口にすることはできなかった。僕は黙って、それを聞いていた。僕の気持ちに六風がすこしでも気付いていたなら、こんな話はしなかったはずだ。幼くても、六風は他者を気遣えるひとだったから。純粋に僕を、〈友達〉として、悩みを吐き出しただけなのだろう。そんな彼女が、憎らしかった。
続けるように、六風は先ほどの言葉を続けた。
「『要らない。僕はそういうのに興味ないから』って格好つけちゃって。本当に」
「そう……なんだ」
僕は無意識に、明らかに気のない返事をしていた。
「あっ、ごめん。こういう話をされても困るよね。でも他に言える子もいなくて」僕の表情を見て、六風はその話をやめた。僕が恋愛話に興味がない、と思ったのだろう。もっと別の感情が渦巻いていたことに、六風はまったく気付く様子もない。「そう言えば、五代さんの事件だけど……」
話を変えよう、と唐突な感じで、六風が言った。
「五代さんの事件って……」
「ほら、五代さんが殺した、って噂」
当時、僕たちの間でも、五代さんが残した遺書のことは話題になっていた。話題になっていた、と表現すると、大変不謹慎な感じでもあるが、幼さは不謹慎の包み紙なんて簡単に破いてしまう。
「そんなわけないよ」
「なんか自信満々だね」と六風が笑う。
「だって、ただの子どもが」僕も子どもだったくせに、『ただの子ども』と表現した。「四人も誰かを殺せると思う? それも力で不利な女の子が」
「でも世の中には絶対はない、って、前に水川先生が言ってたよ」
「じゃあ、たとえば」
「たとえば?」
「いまここで僕を殺してみて、って言ったら、六風は殺せる?」
「寝ているところを襲えば」
「それは、いまここで、じゃないから反則だよ」
「でも隙をついたら」
「一川くんだけなら油断もあって、なんてこともあるかもしれないけど、三上くんなんかはもう他にふたりも死んでて、気を付けていた中で殺されたんだよ。しかも道の真ん中で」
「まぁ……そうだけど……。じゃあ誰がやったの?」
「きっと変質者だよ」
「なんでその変質者はみんなの名前が分かってるの? なんで、一、二、三、って順番に死んでいくの?」
「それは……」
「本当はこんなこと言っちゃいけないと思うんだけど、『五代さんがみんなを殺してた』って話を聞いて、すごく安心したんだ。だってこれで終わり、って思ったから。だって次は私かもしれないんだから」その言葉はすこし震えていた。次は、六、の番だ。だけど四原よりも六風が気丈に見えたのは、強がり、というよりは、六の入る子が学年に何人かいて、そして四谷の死によって、僕たちの学年の子が死ぬ法則が崩れたからだろう。自分だけではない、というひそかな安堵。「そんなことないよ、って言ってくれないんだね……」
そこから会話はなくなり、六風の家の前で、僕たちは別れた。
帰ると、父がすでに家にいた。「風邪を引いてな。早退してきたんだ」とマスク姿の父が笑う。母に付けろ、と言われて、嫌々付けたのだろう。
「最近は嫌な事件ばかりだな」
新聞の記事に目を落として、父が言う。高校二年生の男子が自殺した、という記事だ。東京で起こった出来事だそうだ。こんな田舎の町でも悲惨な出来事は起こるし、東京みたいな都会でも起こる。きっと海の向こうでも起こっているのだろう。何故だか僕はその時、ふっと別にひとりくらい死んだところで、世界にとっては別にどうでもいいことなんだろな、と思った。誰かが急に消えた、って。
「うん。嫌な事件ばかりだ。嬉しいことなんてなんもないよ」と僕は呟いた。
「嫌なことがあれば、良いこともそのうちあるさ」
「適当に言ってる」
「あぁ俺はいつも適当に生きてきたからな」と父が笑う。
「ずるいなぁ」
「ずるいんだよ、大人は。そう言えば、最近あの子の話をしなくなったな」
「あの子?」
僕は分かってて、そう聞いた。
「えぇっと、あぁ四原くんだよ。喧嘩でもしたのか」
「喧嘩なんてしてないよ」
そう、喧嘩なんて僕たちの間に、一度もなかった。明確に亀裂が入っていたならば、僕たちはもしかしたら、修正しようとお互いが心掛けることもあったかもしれない。だけどお互いが何気なく距離を取ろうとしている状況で、修正も何もあったもんじゃない。
僕はあまり四原の話を続けられたくなくて、逃げるように、部屋に行く。
一月二十四日が終わってから、いや厳密にはもうちょっと後、四原が六風からチョコレートを渡されている姿を見てから、僕は四原と話さなくなった。嫌いになったわけではない。ただ話しかけるのが怖くなったのだ。何が怖かったのか、自分でもよく分かっていなかったのだが、いま改めて考え直すと、僕はたぶん置いてけぼりにされるのが怖かったのだ。四原と六風に置いてけぼりにされていく自分が。
数日後、僕は四原の家を訪れた。やっぱり四原の家族はいない。その違和感にはもうとっくに慣れてしまっているし、もうどうでも良くなっている。そうだ。僕も、もうどうでも良くなってしまっていた。
四原の周囲を纏うどんよりとした空気は、もう感じられない。
「久し振り」
と僕が言うと、四原が笑う。
「学校でいつも会ってるだろ」
「会っていても、全然しゃべってないから」
「そうだね。山岡は僕のことを避けてる感じがする」
「……気のせいだよ」
と言いながら、僕は内心びくびくしていた。四原の反応が怖くて。
「本当かな」
「本当だよ」
「じゃあ一応、信じてあげるよ。それできょうは?」
と四原に聞かれた。色々と四原に訊ねたいことはあったはずだった。だけど実際に四原を前にして、一番優先順位の高い質問が分からなくなってしまう。いままではもっと気軽になんでも聞ける相手だったはずなのに。僕は彼と接することが怖くなってしまっている。まるで彼が、僕のもっとも嫌な部分を映し出す鏡になっているかのように。
「あぁ、うーん。ずっと言おうか迷ってたんだけど、ちょっと聞きづらくて」
僕は迷った末に、言う。
「何?」
「五代、いるだろ」
「いた、だよ。だってもういないんだから」
その言い方は冷たかった。
「実は、五代が死ぬ前に、五代から手紙を貰ったんだ」
「手紙?」
「『わたしは、後かいなんてしてない。ぜったにそんなこと私はみとめない』って書かれてて、さ」
「死ぬことを後悔していない、って意味じゃないの」なんだそんなことか、みたいな表情で、四原がひとつ息を吐く。
「なんか納得がいかない」
「なんで」
「なんでかは自分でもよく分からないんだけど、でも……うーん」実際に口に出すことには、ためらいがあった。「四原、僕に何か隠してない」
「隠してないけど」
四原の眉間にしわが寄る。
「実は大山に聞いたんだけど」大山は僕たちのクラスメートだ。特別仲が良くて学校の外でまで一緒に遊ぶ、という関係ではないけれど、学校で近くにいればよくしゃべる子だ。そして彼は四年生の時、四原や五代さんと同じクラスだった。数日前、彼と話している時に、偶然知ってしまったのだ。「僕、ずっと一方的に、五代が四原のことを好きだと思ってたんだけど、大山の話だと、『ふたりとも結構仲の良い感じだったぞ』って」
「そっか」
これは四原には言わなかったが、彼が言っていたのは、それだけではない。『前に一度、なんか変な瓶みたいなやつ? それを四原が五代に渡してるところ見ちゃってさ。その時のふたりがなんかすげぇ怖くてさ』とも言っていた。
だから僕は疑惑を深めている。四原に対して。だけど別にこれは黙っているつもりだ。一応、いまでも四原は、僕の友達だ、と僕は思っていたからだ。それでも、いやだからこそ、実際のところはどうなのか知りたかった。
「別にそんなに仲悪くなかったとは思う。そもそも僕は一度だって、五代さんと仲が悪かったなんて言ったことないよ。でも、だからって、僕が五代さんの死について詳しい理由を知っているとは限らないじゃないか」
「……まぁそれはそうだけど」
「仲が良かっただけなら、渡辺さんだって詳しく知っているはずだろ」その渡辺さんは学校にも来ていない状況だ。「別に四年の時のクラスで、五代さんと話す子は他にも普通にいたよ。僕だけが特別なんてことはなくて。なのに山岡の中で、僕だけが〈特別〉になっている。それが腑に落ちない」
〈特別〉という言葉を、四原は強調する。焦っているわけではないのだろうが、四原の口調はいつもよりどこか早口で、そして投げやりな感じがする。
「それは……」実際はもちろん、大山の見た瓶を渡している、という光景が尾を引いているのだが、口に出すことはできないので、「なんとなく四原が五代のことを避けてるイメージがあったから、なんかそれが意外で」と返す。
「まぁなんだろう。クラスが離れてからも、よく絡んできて、たまにしつこい時もあったから。だから、だよ。別に同じクラスの時は普通だった。なんでそんなに疑ってくるんだ?」
「いや、なんていうか。心配してるんだよ。四原のことを」
この気持ちも嘘ではない、ただいままでとは違って、そこに疑いが混じるようになっただけで。
「そっか、じゃあ、ごめん。言い過ぎた」
「こっちこそ。でも、じゃあ、何も隠してないんだね」
「あぁ、何も隠してないよ」
四原が僕の目をじっと見つめる。
何故だか、その堂々とした様子を見て、絶対に嘘だ、と直感した。
その時の僕には、暗い想像があった。根拠はない。ただの僕の想像だ。だけどこの想像は外れておらず、ほぼ真実なんじゃないか、とある程度、自信はあった。僕の中で答え合わせをしたい、という気持ちもあったのは確かで、だからこうやって四原には投げ掛けたわけだが、彼からの回答はなかった。それは寂しくもあったが、結果がどうであったとしても、僕がこの想像を誰かに、四原にさえも伝えるつもりはなかった。倫理観がない、と後ろ指をさされたとしても、
彼が、友達だったからだ。
本当に言うつもりはなかったのだ。
あんなことさえなければ……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます