幕間・或る少女の回想

大好きだったお父さん、大嫌いな――。

 友達に学校が嫌いな子がいた。

 学校に行きたくなくて行きたくなくて、最後には不登校になっちゃった子だ。私は初めてそれを聞いて、すごく不思議だった。羨ましかった。私は反対だったからだ。私は学校にいるほうが良かった。別に学校が好きだったわけじゃないけれど、家が嫌で仕方なかったからだ。


 でもそんなのは、きっとめずらしいみたいだ。みんなも行かなくてもいいなら、学校に行きたくないみたい。


 その不登校になった子はみんなから嫌われていた。四年生の時に、同じクラスだった男の子に、「なんでだろう」って聞いたら、その男の子は笑って、「だって、そんなの当たり前だよ。誰かが良いことで特別扱いされると、人間ってのは、ずるい、と思う生き物なんだ。悪いことになると平気で特別扱いしてくるくせに、ね」と言った。


「不登校って良いことなの?」

「別に学校に行かないことは良いことでも悪いことでもない、と思うけど。ただ多数決で言えば、ずるい、って思うひとが多数派なだけ」


 彼は同い年なのに、どこか大人びていて、私はすこし憧れていた。あの時は、ほんのすこしだけ、だ。恋とかそんなのはちょっと分からない。そう言えば、彼も格好いいのに、あんまりみんなから好かれていなかった。不思議で、彼も特別な雰囲気があったからだと思う。


「不思議。私は家なんかより学校のほうがいいのに」

「家で何かあるの?」

「ううん。別に」


 彼に聞かれたけど、私は答えられなかった。誰にも話していない。もし誰かに話すとしたら、それは彼以外には考えられない。話したところで、私のいまの状況が良くなるわけでもないだろうけど。たぶん良くしたいなら、先生に話したほういいはずだ。でも、まだその勇気は出ない。


 私の家には、鬼が住んでいる。

 こういう言い方は、ひゆ、っていうらしい。本当に鬼がいるわけじゃないからだ。でも私は、どうせなら本当の鬼のほうが良かった。鬼なら、はじめから言葉が通じないんだから。


 もっとちいさかった頃、私には優しいお父さんがいた。穏やかだけど、しっかりとしていて、私が頑張ったら褒めてくれるし、悪いことをしたら叱ってくれる。ちゃんと言葉で、私でも分かるように、伝えてくれる。クラスの子の中には、怖いお父さんやお母さんがいる子もいたけど、私の家とは全然違う、ってほっとしてた。


 でもそれもお父さんがいる時までだった。

 お父さんが死んだのは、私が小学校三年生になったばかりの頃で、交通事故が原因だった。夜、会社から帰ってくる途中、お父さんの運転する車と相手の車が十字の交差点で衝突しちゃって。聞いた話だと、お父さんの首はおおきく曲がっちゃってたらしい。相手が本来は一時停止する車線で止まることもなく、猛スピードで突っ込んできたそうだ。お母さんが泣きながら、相手に対して怒っていたから。お酒も飲んでいた、って。


 あの日から、すべてが変わってしまった。私も、お母さんも。

 家にいると、お母さんがすごく冷たい言い方で、嫌なことばかり言うようになったから、私はあんまり家にいたくなくなった。大体、新しい仕事先の悪口だ。


 でも、それだけなら、ここまで家が嫌いにならなかったと思う。

 何よりも嫌だったのが、箱崎さんだ。


 箱崎さんは箱崎さんだけど、もしかしたら本当は箱崎さんじゃないのかもしれない、って考えてる。おかしなことを言っているかもしれない、って思われるので誰かに聞いたわけじゃないんだけど、どうしても、そう思えて仕方がない。


 箱崎さんは母のパート先のお店によく来る常連さんだ。母がそう言っていただけで、真実かどうかは分からない。普通のひとじゃない、って雰囲気があるから。普通のひと、ってなんなのか分からないし、何が普通じゃないのかも、私はうまく言葉にできないけれど、あぁこのひとは私たちとは住む世界の違うひとだって思った。前に一川くんが、「カタギのひとじゃない」って言葉を冗談みたいに使っていたけど、箱崎さんはまさにそんな感じだ。カタギじゃない。ヤクザかどうかは知らないけど、カタギじゃない。


 最初は優しかったのだ。

 はじめて家に来たのは、私が毎週、楽しみにしていたアニメを観ている時だった。魔法の使える女の子が、困っているひとを助けながら冒険をする物語で、クールな主人公の女の子があの頃の私の憧れだ。でもいまはあんまり好きじゃない。私が困っていても、助けてはくれなかったから。助けてくれたのは。


 私がアニメを観ていると、母が帰ってきて、私を呼び、

「挨拶して欲しいひとがいるの」

 と言った。めずらしく、その日の母の声には張りがあった。お父さんが死んでからは、ずっと聞いていなかった声だ。


 箱崎さんがいた。

 初対面の箱崎さんはアロハシャツを着ていて、銀縁のメガネを掛けていた。なんだかそれが似合っていなくて、嫌な感じだった。あと、こめかみの辺りにある傷もちょっと怖かった。でも口調は優し気で、「お母さんが困っている、って聞いたから、すこし力になれないかな、って思ってね」と笑った。ただお父さんの優しさとは、全然違う。


 それから鍵っ子だった私は、その鍵をあんまり使うことはなくなった。


 帰ったら、箱崎さんがいるようになっていたからだ。いつもいたけれど、本当に何の仕事をしていたんだろう。


 箱崎さんは優しい時と不機嫌な時が両極端なひとで、優しい時はケーキやおもちゃを買ってきてくれたりしてくれた。だけど不機嫌な時はもう本当に駄目なひとだ。


 はじめて暴力を振るわれた時、私はいま自分が何をされたのか分からなくて、頭が真っ白になった。こういうのは、豹変、って言うらしい。誰かが言ってた。最初はなんで怒ってるのかすごい疑問で、私が何か悪いことをしたんじゃないか、って思ってた。後で知ったんだけど、箱崎さんはギャンブルにはまっていて、その勝ち負けで機嫌が決まってたみたい。子どもよりも子どもみたいなひとだ。損をした時に、私の顔を見ると、ムカついて、つねったり、小突いたり、蹴ったり、するんだって。


 これが私の家に住み着く鬼だ。

 家に帰れば、大体、箱崎さんがいる。そんな家にいたくなんてない。それなら私は学校のほうがいい。


 私は誰にも気付かれていないつもりだったけど、一度、花村先生が心配そうに、「もしかして何か嫌なこととかあったりする?」と聞かれたことがあって、びっくりしてしまった。花村先生は担任の先生じゃないし、そんなに話したりするわけじゃない。花村先生はいじめを心配しているみたいだった。ちょっと言おうかな、って気持ちもあったけど、言わなかった。純粋に言いたくなかったのもあるし、あと私はすこしだけ花村先生が苦手だったから。


 みんなは結構、優しい、って言ってる。でも私はあんまり花村先生が信用できない。なんかちょっと怖い。目の奥が笑っていないような気がする。水川先生が、「娘さんを亡くしてから変わったけど、元々はすごく厳しいひとだった」って言っているのを聞いて、やっぱり、って思った。ただ優しいだけのひとじゃない、と思う。もしも相談するなら、まだ水川先生のほうがマシだ。でも言わないけど。


 彼に相談しようと決めた日、蝉がうるさいくらいに鳴いていた。


「お前なんか死ねばいいのに、な。駄目な親父が生んだ出来損ないがいると、これから優秀な俺があいつと生む子どもに悪影響になる」

 前日の夜だ。遅くまで仕事をしているお母さんはいなくて、いつも通り、私と箱崎さんのふたりだった。箱崎さんはお酒のにおいをぷんぷんさせていた。


 どうしても許せなかった。

 お父さんのことを悪く言われたことが。


 私は彼に相談することにした。私、虐待、されてるの。虐待、そんな言葉を自分で使う日が来るなんて思ってもいなかった。私の声は震えていたはずだ。


 彼に言ったって、別に何かしてくれる、って期待していたわけじゃない。


 でも彼が、

「良い方法があるよ」

 と笑いながら、私にちいさな小瓶を渡してくれた。


「これ、何?」

「魔法の小瓶だよ。これがきみを救ってくれる」

「嘘だ」

「本当だよ。試してみたらいいよ」

「なんか怖い」

「怖いことなんてないさ。食べ物でも飲み物でもなんでいいから、ちょっと垂らすだけだから」


 その日の夜、箱崎さんがお酒を飲みながら、おつまみを食べていた。さきいかだ。箱崎さんがトイレに行っている時に、私はそのさきいかと飲みかけのビールに、小瓶の中に入っていた液体を垂らした。


 野球を観ながら、箱崎さんがビールを飲み、さきいかをかじった。

 味が変だ、とか言って怒り出すんじゃないか、と思って、どきどきしていたけど、箱崎さんは何も言わなかった。数分もしないうちに、苦しみ出して、倒れて、動かなくなってしまったからだ。箱崎さんの声が聞こえなくなった時、ちょうどジャイアンツの選手がホームランを打ったのか、テレビの向こうがうるさかった。


 お母さんが帰ってきた。

 箱崎さんの姿を見て、悲鳴をあげた。どういうこと、と聞かれて、私は小瓶のことを話してしまった。誰から貰ったの、と言われて、私は彼のことは話したくなくて、拾った、と答えた。


「そんなわけな……、そ、そんな場合じゃないか。絶対にその小瓶のことは誰にも話したら駄目よ。それだけ約束して。あとは、絶対に私が守るから。あなたのことを」

 そう言って、お母さんが私を抱きしめた。嬉しかった。お母さんは箱崎さんより、私のことを第一に考えていてくれたから。


 お母さんがどこかに電話していた。警察ではなさそうだ。

 怖そうなおじさんがやってきて、お母さんと何かを話して、箱崎さんを解体して、黒いゴミ袋のようなものに入れて、運びはじめた。私は別の部屋にいるように言われて、こっそり覗いていただけだ。ふたりが外に出ると、私はリビングの窓のカーテンをすこし開けて、外の様子を眺めていた。トランクに詰めるお母さんたちを見ながら、私は祈った。


 神様じゃない。神様になんか、私は祈らない。

 私はそこにいない彼に祈ったのだ。


 お母さんが捕まることはなくて、箱崎さんのいない毎日がはじまった。私はすこしだけ、家に帰るのが嫌じゃなくなった。


 あの日から、彼こそが私の何よりも信じるものになった。

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