帰ってきた姉とはじまりの弟
口裂け女に追われた少年の話。
ある少年が夕暮れの下校道を歩いていると、前方から赤いコートを身にまとった背の高い若い女性が歩いてくるのが見えた。その顔の半分ほどは大きな白いマスクで覆われていたが、恐らく大変な美人なのであろうことは少年の目にもわかった。少し緊張しながら少年がその女性の横を通ろうとすると、ふと女性が立ち止まり、そして少年の方を見て不意に「わたし、きれい?」と声をかけてきた。少年が困惑しながら「きれいだと思います」と答えると、その女性は口元を覆うマスクに手をかけた。そしてゆっくりと外されるそのマスクの下から現れたのは、耳元まで大きく裂けた女の口。女はその裂けた口で微笑みながら、「これでもきれい?」と尋ねる。――「口裂け女」朝里樹『日本現代怪異事典』(笠間書院)
結局、僕たちの物語を何から語りはじめるかを考えた時、本来はやはりこの話からはじめなければならない。なのでだいぶ順序は逆転してしまったような気はするが、僕はいま、最初に四原と関わるようになったきっかけを回想している。
小学五年生の秋、十月のことで、夜の空気にはまだ生ぬるさが残っていた。
僕たちのクラスには、一川くん、というクラスメートがいる。端正な顔立ちで、いわゆる当時の小学生のモテる条件だった『足の速さ』と『よく手を挙げる』も満たした人気者タイプの男子だ。これで性格が悪かったら鼻につく奴なのだが、性格も明るくて、男子からも好かれていた。
その日、いつも賑やかすぎるくらいの一川くんが、暗くよどんだ表情を浮かべていた。
ちょうど隣の席だった僕が、
「どうしたの?」
と聞くと、
「あぁ、うん。昨日、塾から帰ろうとしたら……、あぁいや、なんでもない」
と返ってきた。
「なんだよそれ。そんな言い方されたら、余計に気になるよ。言えないこと?」
「言えない、ってわけじゃないけど、たぶん言っても信じてもらえない気がするんだ」
「言ってみないと分からないよ。とりあえず言ってみてよ」
「なぁ山岡は、『口裂け女』って知ってる?」
「うん。あれだろ、マスク姿の女性が、『私、キレイ』って聞いてきて、『はい』って返したら、マスクを外して、口が裂けている、って奴だろ」
「それ。信じてる?」
「そんなには信じてないかな。まぁいたら面白いなぁ、とは思うけど」
これが僕の当時の正直な気持ちだった。その頃は多少面白がる程度には都市伝説や怪談に興味はあったけれど、あまり信じてはいなかった。それはやっぱり僕が四原と親交を深める前だったのが大きい。
「……実は見たんだ。『口裂け女』を」
「えっ」
「塾から帰ろうとしたら、マスク姿の女のひとに声を掛けられて」
いまだとマスク姿で出歩くひともめずらしくはないが、当時はそんなにも多くなくて、というよりほとんどいなくて、マスク姿はより目立つ存在だった。
「聞かれたの?」
「うん、『私、キレイ』って。……で、答えちゃったんだ。はい、って」
「それで……」
僕は思わず息を呑んだ。
「マスクを外して……本当に口が裂けてて、俺、怖くなって逃げ出して。その後の記憶はあんまりないんだけど、なんとか追い付かれず、家まで。足が速くて良かったよ」
足が速いくらいでどうにかなる相手かな、とは思ったが、一川くんが嘘を言っているようには見えなかった。
一川くんの通っている学習塾は、昔、学校の先生をしていた僕たちのクラスメートの母親が自宅の一部屋を使って開いているもので、通っている子たちも塾に通っているという感覚もなく、どこか遊びの延長線上みたいなところがあった。行ったら、お菓子やジュースを出してくれるから、ちょっと勉強してもいいかな、ってくらいの子たちが集まっていた。僕も誘われたことがあったけれど、断った。遊びの延長線上でも嫌なくらい、当時の僕には勉強に対するアレルギーがあったからだ。
「何かの見間違いとかじゃないの?」
一川くんの表情が思いの外、真剣だったので、僕も怖くなって、そう言ってしまった。
「いや、あんなの絶対見間違えるはずない!」
とすこし怒ったように、一川くんが答える。一川くんは意外と短気なところもあった。
「うーん」
「疑うんなら、きょう、そこ通って帰ってみろよ」と一川くんの口調が荒くなる。
「わ、分かったよ」
確かそんな会話になり、売り言葉に買い言葉で、僕はその日、いつもと違う道を通って、下校することになったのだ。
学習塾を兼ねていたクラスメートの佐野くんの家は、一川くんの家の近くにあり、僕の家からそれほど遠くはないものの、普段から通る道ではなかったし、遠回りにはなる。遠回りを理由にして断ることもできたのかもしれないし、別に一川くんに監視されながら帰るわけでもなかったので、行った振りをするだけでも良かったような気はするが、それはちっぽけなプライドが許さなかったのだ。
普段通らない道を夜歩くのは、すこしだけ不安と寂しさがある。それはおとなになったいまも変わらないけれど、子どもの頃はその比ではなかった。
一川くんと佐野くんの家はちいさな川沿いにあり、そこへ行くには、橋を通る必要がある。
その橋ですれ違うように向かい側から歩いてきた女性を見て、僕は思わず息をのんだ。
ワンピース姿のその綺麗な女性が、マスクをしていたからだ。
気のせいかもしれないが、僕はその女性に白くぼやけた感じを受けた。
その女性と目が合った。
もしかしたら声を掛けられるかもしれない、と肩に力が入ったが、話しかけられることはなかった。結局その時、僕が見たのはそれだけだ。『私、キレイ?』なんて声は掛けられなかったし、別にそのひとから何かされたわけでもない。マスクを付けている女性なんて、そんなに多くはなくても、いないわけじゃない。
だから気にするほうがおかしい。
そうやって言い聞かせても、僕の中の別の僕は、とんでもないものを見てしまったような気持ちになっていた。何がとんでもなかったのか、なんてまったく説明もできなかったが、ただとんでもないものを見てしまった、という気持ちだけがあったのだ。
歩み去っていく彼女の背中を、視界から消えるまで、僕は眺めていた。
駆けるようにして家に帰ってからも、その女性の姿が頭から離れなかった。
僕が顔に怯えが浮かんでいたからだろうか、
夜、家に帰ってきた父が、
「どうした。何かあったのか?」
と僕に聞いた。
僕はちいさなプライドもあって、言うかどうか迷ったのだが、結局言うことにした。一川くんと話した内容と帰り道に白いワンピースを着ていた女性の話を。
笑われるかも、と思ったが、そんなことはなく、父があごに手を当てて、
「口裂け女か、懐かしいな。父さんの子どもの頃から、口裂け女の話はあったぞ。まぁ話の内容なんてものは多少、変わっているかもしれないが」
と言った。
「父さんは……その……見たことあるの?」
「えっ、口裂け女を、か?」
「うん」
「あったかもしれないな。『私、キレイ?』って聞かれて……」冗談を言っている表情には見えなかったが、ただ父は真顔で冗談を言う性格でもあったので、あれは冗談だったのかもしれない。「まぁ、でも特に危害を加えてこなかったんなら、別に気にする必要はないんじゃないか。口裂け女であっても、なくても」
結局、父との会話はそこで終わってしまった。
翌日、学校に行き、休み時間に、一川くんが僕のところに、昨日のことを聞きにきた。
深刻な表情の先に、どこか楽しげな色があった。まるで恐怖を共有できていること暗い喜びを見出したような。その表情に、嫌だなぁ、と思ったから、僕の心に貼り付いて残っている。
「どうだった?」
「いたよ。ワンピースの、マスクを付けた女のひとが」
「えっ」僕の説明に、一川くんが心底、驚いたような表情を浮かべる。演じている雰囲気はどこにもなかった。「ワンピース?」
「えっ、違うの?」
「あっ……いや、俺の想像してた……あぁその想像してた奴と全然違うから。なぁ、それ、どんな奴だった? 詳しく教えてくれ」
「えぇっと」
僕は昨日見た女性の姿を思い浮かべながら、できるだけ詳細に語ることにした。すると一川くんの顔がどんどん青白くなっていて、ついには怒り出した。やっぱり一川くんは短気だ。
「なんだよ、それ!」
「いや、言え、っていうから」
『なんだよ、それ!』と言いたいのは、こっちのほうだった。理不尽だと思ったし、びっくりもした。
「仕返しをするのにしても、やり方があるだろ!」
と一川くんは自分の席に戻ってしまい、結局その日は一度もしゃべらなかった。
仕返し……? いったいなんのことだろう……?
後でその理由も分かることになるのだが、この時の僕は首を傾げることしかできなかった。
ただいきなりそんな態度を取られれば、どうしても嫌な気持ちにはなる。心の中のもやもやを晴らせないまま、放課後になり、さっさと帰ろうと思った時、背後から声を掛けられた。
「どうしたの、今日、ずっとイライラしてる感じだったけど」
六風だった。最近は一緒にいる機会も減ってしまっていたので、声を掛けられて、驚いてしまった記憶がある。僕を心配そうに見ていた。
「そ、そんなことないけど」
自分の感情を見透かされてしまったようで、恥ずかしくなってしまったのを覚えている。
「一川くんと何かあった?」
「なんで、それを」
「普通に話しているの、見えてたから。なんかちょっと喧嘩……ってまでは言わないけど、ピリピリしてる感じだったよ」
「あぁ、いや」
「ねぇ何があったの。話してみれば、仲直りに良い方法が思い付くかもしれないよ」
口振りとは裏腹に、その目は好奇心に満ちていた。楽しんでるな。こっちの気持ちも知らないで。
「六風は、『口裂け女』って信じてる?」
と六風に一川と『口裂け女』の件を話してみることにした。『知ってる?』ではなく、『信じてる?』と話をはじめたのは、『口裂け女』が当時のこの世代の子どもたちで知らないひとはいない、と思えるくらい、有名な都市伝説のひとつだったわけだが、それまであまり怪談や都市伝説の話を、六風としたことはなかったので、六風がそういうことに全然知らない子どもでも、おかしくはなかったのだ。
「えっ、山岡くん、見たの?」
予想外に六風が目を輝かせているのを見た時は、驚いてしまった。
「あっ、いや、見た、っていうか。見たかどうかで喧嘩になった、っていうか」
「どういうこと?」
一川くんが『口裂け女』を見掛けたという話と僕がワンピース姿のマスクを付けた女性を見た話のふたつを六風に語って聞かせる。僕は久し振りに六風と話したことと、年齢的にもすこしずつ異性を意識しはじめていた、なんてのもあるだろう。やけに早口になってしまったのを覚えている。
「それってたぶん……、一川くんが、からかおうとしたんじゃないかな。山岡くんのことを」
話を聞き終えた六風がすこし言いにくそうに、そう言った。
「うーん。まぁそうなのかもしれないけど……でもなんで話の途中で怒ったんだろう。あと、なんであんなに怖がってたんだろう」
「山岡くんの話が本当っぽくて怖かっただけじゃないの」
「そうなのかなぁ」そうかもしれないし、それが可能性としては一番高そうではあるのだが、どうも腑に落ちなかった。「なんかそれだけじゃない気が」
僕が顎に手を当てて首を傾げていると、わっ、と六風が驚いた声を上げた。
僕たちの間に入り込むように、ひとりの少年が立っていたからだ。
「『口裂け女』はいるよ。たぶん。でもその正体は、地球外の生命体なんだけどね」
それが四原だった。
その頃、あまりしゃべったことのなかった四原の、初めて見る嬉しそうな表情だった。
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