そして音楽が鳴りやんだ後の僕たち。
『月光』が、僕の見えている世界から消えた。
それまで空を舞っていた雪が止んでいたことに気付いたのは、ピアノの音が止まったあとのことだった。音楽室の中で、音を鳴り響かせるものはひとつもなくなり、塚村さんの姿は見えなくなり、声も聞こえなくなった。そう、世界から消失してしまったのだ。彼女がいままでそこにいたことこそが嘘だったかのように。無音の世界に、僕だけが取り残された気分になった。
時計の針が動いていなかったら、時間さえも止まっている、と感じていたはずだ。
窓越しの景色をべったりと染めていた緋色は、すでに闇にのみ込まれていた。
帰ろう、と思った。いや僕は実際に口に出して、つぶやいていた。心のうちにあった不安を吐き出すように。
「なんだ、まだ残ってたのか?」
校舎から出ようとする僕の背に、声を掛けてきたのは、水川先生だった。
「音楽室に行ってました。えっと……、塚村さんと会いました」
いきなり僕からそんなことを言われて、水川先生は困ったような表情を浮かべていた。水川先生がオカルトの類を信じないことなんて知っている。それでもどうしても言わずにはいられなかったのだ。
「そうか……」と僕の言葉に対して、水川先生はめずらしく否定しなかった。たぶんそれは水川先生が信じてくれたわけでなく、僕の真剣な表情に対する気遣いだろう。「どんな話をしたんだ?」
「先生から聞いた話と、ほとんど同じです。高村さんのことも教えてくれました」
「高村のことを……」先生が驚いた表情を浮かべる。「そうか。懐かしい名前を聞いたな。いまは、どうしてるのかな」
塚村さんの言葉が本当ならば、高村さんはもう……、と僕はそんな気持ちを浮かべていた。だけどもちろん口には出せなかった。
「山岡、『地獄への道は善意で舗装されている』っていう言葉、知ってるか?」
「ううん。知りません」
「まぁそりゃそうだよな。ヨーロッパのことわざで、詳しい説明は省くし、この言葉の捉え方はいくつかあるんだけど、そのひとの『良い』と思ったことが、『良い』と思った行いが、必ず相手の幸せに繋がるとは限らない、ってことを端的に表した言葉で、俺の好きな言葉なんだ」
「そうなんだ……」
「おそらくあの時、クラス内に蔓延していた空気は、『善意』だったんだ。もちろん善意だからと言って許されるわけではないし、もう言い訳にしかならないが、俺自身も、違和感を覚えながら、どこか許容していたことを否定することができない。最低だとは思うがな。三好がいじめられている時、顔をしかめながらも、心のどこかで、『だけど三好の奴、塚村をいじめてたからな。仕方ない』と強くとがめられない自分がいたんだ」
「最低ですね」と僕は言った。本当に最低だと思って言ったのではなく、水川先生がそう言われることを望んでいるような気がしたからだ。
「知ってるよ」と水川先生が自嘲気味に笑う。「もし俺があの時、善意で舗装された地獄をはっきりと意識して、あの空気を外に追い出せていたなら。いまでも後悔の火が消えることはないよ」
それ以上、水川先生はこの件について話そうとはしなかった。
校舎を出ると、僕は驚いてしまった。正門前に、四原がいたからだ。僕のことを待っていたのだろうか。こんな寒空の下で。
「もう帰った、と思ってたよ」四原に言う。
「音楽室の幽霊と会ってたのか?」と返ってきた。
「なんで、知って……」
「やっぱり」と四原がため息をつく。「なんかそんな気がして。ひとりだけずるいぞ」
「仕方ないだろ。たまたま、だったんだよ。僕だってびっくりしたんだから」
「たまに思うんだ」すこしだけ寂し気な表情を浮かべて、四原が言った。「きみも学校の都市伝説の類と同じような、宇宙からの使者のひとりのような気がして」
「勝手に化け物扱いするなよ。僕はお前のほうが、ってたぶんみんなもそう言うよ」
本心からだ。僕なんかよりも、四原のほうが、特別で不思議な雰囲気を持っている。僕だけではなく、周囲に聞けば、誰もがそう答えるはずだ。
「みんな勘違いしてるんだよ、僕は常識の内にいて、山岡、きみのほうが常識の外にいるような気がして。ただそれをきみ自身も気付いていないだけで」
この頃、僕は知らなかったのだ。僕は確かに誰にも言えない、いや言ったところで、誰からも信用できない特殊な力を持っていた。大して役にも立たない能力だ。誰も救えない能力なんて僕は要らなかった。
一般的な人間よりも、怪異や霊的な存在と深く交流できる能力なんて。
あったところで、僕はどうすることもできずにいてばかりだった。四原はいつから気付いていたのだろうか。僕が自覚する、ずっと前から気付いていたのは間違いない。いや、もう最初に会った時から分かっていて、だからこそ僕のそばにいたのかもしれない。
ただ、だとしても、僕よりも四原のほうが常識の外にいたのは疑いようもない、と未来を知ったいま改めて思うが、何故かそれでも四原は本心を口にしているように見えた。
「なぁ、四原はなんで、怪異にそんなにこだわるの?」
「興味があるからだよ」
「嘘だ」
「本当だよ」
「あぁいや、嘘、ってのはなんか違うかもしれないけど、でもそれだけじゃないだろ」
「……可哀想だから、かな」
そう言った時の四原の表情は、どこか寂しげだった。
「可哀想?」
「そこにいるはずなのに、誰にも気付いてもらえず、噂だけが広がっていく。もちろん噂が広がるわけだから、誰か見たひとはいるわけだけど、そこからは、誰かが興味を持たなければ、誰からも見てもらえない。なんか悲しいじゃないか。だから僕は、興味を持ち続けるようにしてるんだ。あと他人事に思えないから、かな」
言い終えて、僕たちは無言になった。
四原が沈黙した理由は、四原自身にしか分からないことだけれど、僕が沈黙した理由は四原が告げた言葉を、ゆっくりと咀嚼していたからだ。咀嚼しながら、いつか僕の前から、四原が消えてしまうような気がした。実際にその漠然とした予想は当たってしまうのだが、できれば当たらないで欲しかった。卒業や転校といった理由があってのものだったなら、全然良かったのだが、まさかあんな理由で、なんて。
四原の自宅前で、僕たちは別れた。
四原が僕に背を向ける。その背中は僕よりもどこか大人びて見えて、すこし寂しげだった。ふいに一瞬、四原が消えてしまうような感覚を抱いて、僕は思わずうろたえてしまった。
家路へと向かう暗くなった道が、まっすぐ続いていた。四原と別れたあとから、落ち着いていたはずの雪が、はらり、はらり、と静かに舞いはじめた。僕はその道を見ながら、先生の言っていた、『地獄への道は善意で舗装されている』という言葉を思い出していた。僕の進む道も、もしかしたら地獄へと続いているのだろうか、と考えて、怖くなったのを覚えている。
この時、もう僕はすでに気付いていたのかもしれない。
彼との別れの予兆に。家に帰ると、いつもよりも早く父が帰ってきていて、
「おかえり。……どうしたんだ?」
と言われた。どうしたんだ、といきなり言われても、僕は父が何のことを言っているのか分からず、
「どうした、って、どういうこと?」
と聞き返した。
ほら、と父が自分の目じりのあたりを指で触った、その行動につられるようにして、僕は自分の目じりを触る。濡れている。僕はそこでようやく、自分が泣いていることに気付いた。
「分からない。なんか、悲しいことが起こりそうな気がして」
「そう言えば、お前のそういう予感、よく当たるもんな。実は父さんもなんだ」
「父さんも」
「あぁ、良い予感も嫌な予感も。……これから何かあったとしても、後悔だけはしない選択を選んでいかなきゃいけないな」
と、他人を励ますのが苦手な父が、下手くそな笑みをつくった。
「ありがとう」
「まぁ、とりあえずきょうはゆっくりと寝るんだ。しっかりと寝れば、大体どんな不安もなくなるもんさ」
それから数日経った、クリスマスイブの夜、ひとりの少年が死んだ。僕たちのクラスの児童で、名前は三上くんだ。特別仲の良い子だったわけではないが、自分のクラスの児童が亡くなった、というのは、やっぱりショックは大きい。これで僕たちのクラスからは二人目だ。もう冬休みははじまっていて、三上くんは友達の家に遊びに行った帰り、通り魔に刺された、という。通り魔はいまだに捕まっていないらしい。
これは六風から聞いた話で、本人に直接聞いたわけではないのだが、三上くんが殺される前、遊びに行っていた友達の家、というのが、四原の家だったそうだ。
クリスマスの日、僕の家にプレゼントを持ってきた六風が言ったのだ。
「不思議だよね。三上くん、四原くんと仲の良いイメージもないのに」
「そう、だね」
「もしかして、来月……あぁいいや、ごめんいまの聞かなかったことに」
来月は名前に『四』のある四原が死ぬのではないか、ときっと六風はそんな心配をしていたのだろう。すぐに分かった。だって僕も同じことを考えていたからだ。だけどその考えが頭に浮かんでは、何度もその考えを振り払っていた。偶然だ。偶然に決まっている、と。
そして不思議と言えば、六風の行動も不思議だった。六風は別にいままでクリスマスに僕にプレゼントをくれたことなんて、一度もない。それがいきなり、どういう風の吹き回しか、プレゼントを持ってきてくれたのだ。その時は、僕のことが好きなのかな、とかうぬぼれた感情もあったのだけど、いまになって思えば、『来月、四原が死ぬんじゃないか』という心配を伝えるための口実にしたかったのかもしれない。だけど言う前になって、ためらってしまった。そのほうがしっくりとくる。
その年のクリスマスは、雨が降っていた。
雨降るクリスマスに顔を合わせなかった四原は、何を考えていたのだろうか。
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