母と娘とトイレの花子さん
花子さんは地球外生命体。
全国で語られる怪異。学校の三階の女子トイレ、その三番目のドアを三回ノックし、「花子さん、遊びましょう」と言うと「は~い」という少女の声がする。これは花子さんという名前の幽霊のもので、「何して遊ぶ?」という問いかけをしてくるが、これに対しておままごとと答えると包丁で突き刺され、首絞めごっこと答えると首を絞められる、などという――「トイレの花子さん」朝里樹『日本現代怪異事典』(笠間書院)
僕はいまとなっては小学生ではないから、いまの小学生がどうかは分からないが、八十年代後半に生まれた僕らが子どもだった当時の小学生で、トイレの花子さん、と聞いてまったくぴんと来ない小学生はクラスにひとりかふたりくらいだった、と思う。実際に調査したわけでもないので、もしかしたら知らない子はもっといたのかもしれないが、それでも少数派だったことは間違いないはずだ。それくらいポピュラーな存在だった。
「トイレの花子さんは、宇宙から襲来してきた地球外の生命体なんだよ。もっと僕たちはそのことについて、しっかりと考えなきゃいけない。きみもそう思うだろ」
四原が何をきっかけにそんな話をはじめたのか、はっきりとは覚えていないのだが、たぶんクラスの女子の誰かが話しているのを僕が聞いて、それを僕が四原に伝えたのがはじまりだったような気がする。僕たちがその手の会話をはじめる時、そういう流れが多かったからだ。僕たちだけが知っている、お決まりのパターンだ。
あれは冬も近付いてきた、秋の終わりの頃だ。
「四原くんって変わってるよね。あと女子からちょっと嫌われてる」
とは僕の幼馴染でもあった六風の言葉だ。
六風はその後、もったいないよね、と続けていた。
顔も運動神経も良くて、勉強もできて、と人気者になる条件の多くを満たしていたのに、いきなり変なことを言い出すから、周囲はどう接していいのか悩んでしまう。それが当時、クラスメートの多くが四原に対して共有していた感覚だったように思う。「あいつ、実は苦手なんだよな。お前は嫌じゃないの」とクラスメートに言われたこともある。その共有された輪の外にいた数少ない生徒が、僕や六風だった。不思議な子で、変な魅力があったことは間違いない。たとえば別のクラスには、五代さん、という熱烈な信奉者までいたくらいだ。
僕の第一印象はすこし大人だな、というものだった。身長も小学四年生の男子にしては背が高めで、雰囲気にも、どこか年上の先輩を思わせるものがあったからだ。最初に顔を見た時、なんでかは分からないのだが、六年生と勘違いしてしまったくらいに。四年生と六年生。大人になってみれば、二歳差などたいしたものではなく、同世代みたいなものだが、子どもの頃は大きく違って見えた。ただ逆に自分よりもずっと幼く見えたりする時もあるから不思議だ。
その四原が特別な情熱を注いでいたのが、怪談や都市伝説で、いつも彼は、それらの不可思議な出来事は、「地球外の生命体が関わっている」と言って、それらの噂を聞けば、調査していた。彼のその調査に関わることになってしまったのが、僕や六風なのだ。その話をする時の四原が一番楽しそうだ。
「ちなみに山岡、きみはトイレの花子さんについて、どのくらい知っている」
山岡は、僕のことだ。
「えっ、みんなが知っているようなことしか知らないよ。三階の女子トイレの三番目の個室を三回ノックしたら、花子さんに引きずり込まれるみたいなやつだろ。引きずり込まれて、行方不明になったり、殺されたり」
放課後、ちょうど空いていた教室で僕たちは話していた。いつもはこういう話し合いになると、六風が加わる場合も多いが、その時は僕たちふたりだけだった。
この頃はまだのんびりした学校で、僕たちがこうやって別の教室に入って、だらだらしゃべっていても、「おーい、あんまり遅くまでいるなよ」と一声掛けられるだけで、本気で怒るような先生はいなかった。何も言わずに、黙認してくれる先生も多かった。時代もおおらかだったし、地域もおおらかだったのだ。緊迫感のない世界だった。
「うん。基本的にはそうだよ。だけど色んな地域に花子さんの話はあって、すこしずつ話は違う。三番目の個室だとか言われてるけど、個室の順番は必ずしもそうとは限らない。外見はおかっぱの女の子とか、赤い着物の女の子とか。色んな奴がいてね」
奴、という表現が独特で、僕は思わず、くすり、としてしまった。
「花子さんは色んな種類がいる、ってこと?」
僕の馬鹿げた質問にも、四原は大真面目な表情を浮かべていた。
「いや、もちろん花子さんはひとりしかいないよ。伝言ゲームみたいになって話が変わっていく、なんて言うひともいるけど、僕はそうじゃない、と思う」
「嘘をついてるひとがいる、とか?」
「いや嘘でもなく、本当だ、と思う」
「なんかおかしい感じがするけど」この時、僕は矛盾している、と言いたかったのだが、ぱっとその言葉を頭に浮かべるには、僕はまだ幼すぎた。
「僕はテレポートを使ったんじゃないか、と考えてる」
「テレポート?」
「そう。女子トイレの個室が、花子さんにとっての一種のテレポート地点になってるんじゃないか、って。すべての学校のトイレにテレポートができるんだ。そう、だから花子さんは地球外の生命体なんだ」
「嘘くさい、なぁ。なんだか」
そもそも嘘のような都市伝説は信じるくせに、と言われたらそれまでなのだが、変な話にさらに変な話を加えると、そもそもの変な話自体は真実に思えてくるから不思議だ。
「じゃあ、実際にあって聞いてみようじゃないか」
と、鬼ごっこでもしようぜ、なんてくらいの感覚で言われた。だけど別に驚きはしない。彼がすぐに行動に移す人間だ、って知ってるからだ。僕はすこしだけ嫌そうな顔をしてみるけど、断ったことは一度もない。誘ってもらえて、結局は嬉しいのだ。
「六風に言わなくていいの。置いていかれた、ってあとで拗ねちゃうよ。いまから女子トイレに行くわけだから、女子に付いてきてもらったほうが心強いし」
男子だけで女子トイレに入るのは、という後ろめたさがあった。
「別に言わなきゃばれない。というか、女子を連れて行くほうが、どうかと思うけど。絶対に内緒にしたほうがいいだろう」
「まぁ、そうだけど。……なぁ、やっぱり、やめない?」
「なんで」
「だって、ばれたら。六風が言い触らしたら、僕たち変態扱いされるよ」
六風は性格的にそんなことはしない、と思うが。
「言い触らしたりはしないだろ、きっと。六風には、『ごめん、ごめん、タイミングが悪かった』って言うだけさ。宇宙の奴らは、人間の都合で待っていてはくれないからよ」
本当に強引な性格だ。特にこういう時は。
こういう性格が周りを困らせるんだろうな、といつも思っていたし、六風なんかは、『四原くんは、女心を何ひとつ理解していない』とよく文句を言っていた。人間の心の機微に疎いのだ。そして喜怒哀楽も薄い。僕は四原が、本気で怒ったり、泣いたり、笑ったり、しているところを見たことがない気がする。もちろん多少の感情の変化を見た記憶はあるけれど、そこに本気を感じたことがなかった。いや、何度かはそれに近しいものを見たことはあるのだが、いまとなっては、それさえも実際はどうだったか分からない。
「三階の女子トイレか……改めて来ると、緊張してくるな」
と僕は先にトイレに入る四原の背に続きながら、言った。不安になりながら。不安、はトイレの花子さんのことに対してより、女子トイレに勝手に入ることに、だった。誰かが入っていたわけでもないし、変なことをするわけじゃないんだから、と当時何度も自分に言い聞かせていた覚えがある。もう昔の話だから、時効ということで許して欲しい。
「よし、ここだな」
と三番目のドアの前に立った四原が、三回ノックして、「花子さん、遊びましょう」と言った。向こうから、言葉が返ってくる様子はない。
「出てこないのか……」
「やっぱり」
と最初から分かっていた、とでもいうかのように、四原が言う。
「やっぱり、って、なんだよ。うちの学校にはいない、って知ってたの?」
「いや、いないなんて言ってないだろ。それに目撃談だってあるわけだろ。噂があるくらいなんだし。だから条件が違うんだよ。そもそもこんな逢魔が時にもならないくらいの時間の、誰でも使うトイレが花子さんのトイレに変わるほうが不自然だ」
逢魔が時の意味を僕はこの時、知らなかったのだが、いちいち四原に聞き返さなかった。たぶん聞けば答えてはくれるだろうけれど、面倒くさそうな顔をされると分かっていたからだ。そういう態度を取られると、こっちも聞く気をなくしてしまう。
ただ確かにこんな時間に花子さんなんて怪異が出現する、というのは、すこし不似合いな気がした。不自然、という表現が正しいのかは分からないけれど。
「じゃあ、足りない条件、って」
「それは……」
とトイレを出て、四原が言い掛けたところで、
「あれ、きみたち、まだ残ってたの」
僕たちの背後から声がした。振り返ると、そこには花村先生がいた。花村先生は僕たちのクラスではなく、その隣のクラスの担任だったので、僕たちとの直接の関わりは薄い。でも何度か話したことはもちろんあって、若い先生というわけではなかったが、優しく、生徒たちと距離感の近い女性の先生だった。
「先生も、まだ残ってたんですね」
と四原が言う。
「先生は先生だから、先生らしく残ってなきゃいけないの、たとえ嫌でもね」と花村先生が笑う。「で、きみたちは何をしていたの……、いや当ててあげようか。四原くんがいる、ってことは、ずばり、トイレの花子さんでしょ」
「分かりますよね、そりゃ」
と返しながら、僕は花村先生の言い方に思わず笑ってしまった。
「だってきみは有名人だからね。怪談や都市伝説のことになると、目の色が変わる、って」と花村先生が四原を見ながら言った。「でも今回は中にいるところを見なかったから目はつむっておくけど、次からは女子トイレに入らないように……。先生もこんなことで怒りたくはないから」
先生は釘を刺す言葉を、最後に添える。
「ごめんなさい。……でも、四原は分かるけど、僕も、ですか」
「四原は分かるけど、って心外だな」
四原がすこしむっとした表情を浮かべて僕を見る。自覚なかったのかよ、と思わず、つっこみたい気持ちになった。
「仲良いのね。きみたちふたりとも意外と有名よ。あなたたちの担任の先生が、よくきみたちの話をしているから。……で、トイレの花子さんには会えた?」
「会えませんでした」と四原が言う。
「そっか、残念ね」
「たぶん条件が違う、と思うんです」
「鋭い」
「先生、知ってるんですか?」
思わず驚いた声が出る。
「だって、私も花子さんに会ったことがあるから」
本気か冗談か、判断の付かないような口調で、花村先生が言った。
「本当ですか?」
「だって最初にうちの学校で花子さんの噂が出たきっかけ、って私がそこのトイレで、花子さんを見てからだから。もうだいぶ前の話」
「それって見間違えとかじゃなくて」
「えぇ、もちろん。みんながイメージする通りの、おかっぱの、かわいい、女の子だった」かわいい、という言葉を先生は強調した。「四原くんの言う足りない条件、それは」
「深夜三時ですよね」
「当たり。深夜三時に、三番目のドアの個室を、三回ノックすると、花子さんに会える」
でも、それって……、とふと僕は疑問を伝える。
「先生、この学校に深夜三時まで残ってた、ってことですか?」
「うん。最近はそんなことする先生も減ったけど、むかしはうちの学校、本当に緩い規則の中でやっていたから、残業した先生が家に帰らず、そのまま学校に泊まる、ってこともめずらしくなかったの。まぁいまでも緩い学校だとは思うけど、あの頃に比べれば、だいぶマシになった」
「それで、トイレに……?」
「えぇ」
「なんで、三階のトイレを使ったんですか……まさか本当に花子さん目的で」
「まぁ本当に会えるなんて思ってたわけじゃなかったけど、たまたま時間を見たら、深夜三時前で、三つながりだし、もしかしたら、って思ってね。好奇心、っていうのは、おとなになってもあるんだよ。で、ノックして、花子さん遊びましょ、って言ったら、『は~い』って声が聞こえてきたから、腰を抜かしそうだった。おそるおそる開けると、そこには女の子がいた。うちの制服を着た」
「それで」
と僕は思わず息をのんだ。
「『何して遊ぶ』って言われて」
「言われて……?」
「怖くなって、逃げちゃった」
と花村先生が朗らかに笑う。
「なんだ」
と先生の緊張感のない表情につられて、僕は拍子抜けしてしまった。だけど四原の表情は真剣なままだった。そして、
「先生、それ本当ですか。本当に何もされなかったんですか?」
と言った。
「うん。何もされていないし、何もできなかった」
なぜか、何もできなかった、と言った時だけ、どこか先生の口調は寂しげだった。
「そうですか……」
「トイレの花子さんに会いたい?」
「会いたいです」
と即座に言ったのは、四原だ。
「駄目。私は先生だから、あなたたちの気持ちをどれだけ理解できたとしても、それを許すことはできない。深夜三時に学校に忍び込むなんて。そりゃあ、鍵を閉め忘れられてしまう場所もあるだろうけど、ね」
先生の言葉は意味ありげで、どこか誘いかけるようだった。だけど当時の僕は、一瞬だけ違和感を覚えながらも、言葉を言葉通りに受け取っていて、それ以上深く考えようとはしなかった。ただ四原のほうは違っていた。
それが分かるのは、一週間後のことだ。
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