滑り台

はいの あすか

第1話

 あなたは、少し前から一人で歩いてどこにでも行けるようになった、一歳の赤ん坊だ。父親と母親と、あなたにとってはテーマパークほども広いお家で暮らしている。ただし、家中を自由に散策できるのは、父親か母親が近くにいて目を離さずにいられる時に限られる。でなければ、あなたはたちまち物に押し潰されたり、コンロの火で肌を火傷したり、危険な事態に陥ってしまうからだ。


 あなたは今日、母親に連れられてショッピングモールへ来ている。母親は友だちとお喋りをしに外出する時、よくこのショッピングモールの一階にあるカフェを利用する。母親が紅茶を飲みながら友だちとの話に花を咲かせる間、あなたはカフェに併設されたキッズスペースで遊ぶことになる。このキッズスペースは子ども20人程が同時に遊べるほど充実した遊具が備えられており、いちばん心躍るのは短い滑り台から飛び込むボールプールだ。カラフルな軽いボールの海に、身体がずぶずぶと埋まっていく感覚は家や公園では味わえない。今日もボールプールに早く飛び込みたくて、あなたはもうウズウズしている。


 キッズスペースで遊べるのは、母親がカフェでの注文を終えてからだ。母親とその友だちが店員に注文を伝え、あなたに行ってらっしゃいと促すと、しなりを湛えていた弓から矢が放たれるように、あなたは勢いよくキッズスペースに向かった。ところが、ボールプールは他の子どもたちが順番待ちをしていて、しばらく使えなさそうだ。仕方なく、近くにある積み木で遊ぶ。視界に母親の姿をおさめながら、心置きなく、積み木の家を組み立てていく。完成したらそれを崩す。今度はお城を建てる。出来上がったらまた崩す。夢中で繰り返す。


 ボールプールはまだ空きそうにない。あなたは棚に並べられた絵本を手に取った。まだ文字は読めないが、何度も父親に読み聞かせてもらったことのある絵本があった。内容はすべて思い出すことができる。クリスマスにサンタさんを待つ主人公の男の子と、少し間抜けなサンタさんの話で、サンタさんが間違えて他のお家にプレゼントを運んでいってしまう場面では、そこを読むたびに、サンタさんにつられてあなたまで慌ててどきどきしてしまう。でも、ここがこの絵本でいちばん好きなところだ。父親の読み聞かせの声とともにその気持ちも思い出しながら、あなたは絵本に集中している。最後のページで男の子がにっこりしてプレゼントを受け取るのを見届けると、ホッとして絵本を閉じた。


 ふと目線を上げれば、走り回る他の子どもや飲み物を運ぶ店員たちの姿を通り越して、カフェにいる母親があなたを見返す優しい微笑みを送る。大丈夫、離れていてもあなたのことを気にかけている、と示すように。

 あなたは大きな安心に胸を満たされて、ようやく順番が空いたボールプールへと向かった。


 滑り台の裏側に周り階段を駆け上る。頂上に立つと、蛍光色のボールで埋め尽くされたプールがよく見えた。数秒後にあの中に飛び込んでいく自分を予感して、あなたはすでに小さく興奮している。そして一歩踏み出すと、体勢をつくるのより先に滑降が始まり、尻餅をつくように急いで腰を折り曲げる。重力に任せて大きく身体を揺さぶられながら、バンザイをした格好のままボールプールに飛び込んだ!身体はほとんど水平になっていたから、あなたの頭の半分まで埋まってしまった。視界は上半分がキッズスペースの天井、下半分が赤、緑、黄色のボールで満たされた。滑り台のスピードの快さと、ボールに包まれた感触のくすぐったさで、あなたは可笑しくて可笑しくて堪らない。すぐに起き上がり、その軽いボールを跳ね上げる。空から降ってくるそれを、全身で浴びた。

 周りなど気にせず、高く短い喜びの声をあげると、あなたは飛び上がるように二周目の滑り台へ向かう。その後も何度も何度も、その愉快で爽快なサイクルを味わった。


 何度目かのボールプールへの入水を終えて、心地よい満足感にひたっている時、あなたはふと気付く。あなたと順番になって滑り台で遊んでいた子どもたちがいなくなっている。夢中になっている間に帰ってしまったのだろうか。もしかして、気を遣って譲ってくれたのだろうか。ボールプールを出てみると、キッズスペースにもその子たちはいない。というより、キッズスペースには誰にもおらず、あなた一人だけが遊んでいた。あなたが遊ぶのをやめると室内に物音は無かった。キッズスペースどころではない、ショッピングモール内に行き交っていたはずの買い物客や店員すらも、一人も見当たらない。建物内はがらんどうになっている。あなたは唐突な不安に押されて、母親の姿を探す。さっきまで母親が座っていたカフェのテーブルには、やはり誰もいない。あなたはパニックに陥り、どうしようもなく顔を歪めて泣き出した。しかしそれを聴いて駆け寄ってくるひとはいない。あなたの泣き声が、巨大な空洞と化したショッピングモールに響き渡るだけだ。あなたは無邪気な楽しさから救いのない不安に突き落とされて、絶望的に辺りを見回しながら、ただただ泣き続けるしか無かったのだった。

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滑り台 はいの あすか @asuka_h

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