四章 働きたくないからです!

 そのいおりは、静謐せいひつなる空気に満たされた竹林のなかにあった。

 無数の竹が伸びやかに生えそろい、緑の竹の葉がサラサラと風に揺れている。うぐいすがその色鮮やかな羽毛を見せ、鹿威ししおどしの音が鳴っている。

 それはまさに水墨画の世界。

 俗世をはなれた仙人たちが幽冥に遊ぶ桃源郷。

 そのなかに建てられたいおりには、こう書かれた看板が立てられていた。

 『ぬらりひょん流婚約破棄道道場』

 いおりのなかの一室。障子戸を広々と開け放ち、広々とした庭園を見せている。

 竹が生え、鹿威ししおどしが音を立てる庭とひとつながりになったようなその一室。畳敷きのその部屋のなかに五人の人物がいた。

 ひとりは着流し姿も粋な端然たる老紳士。手慣れたなかにも気品高さを秘めた所作で優雅に茶を点てている。

 婚約破人、那螺なーらOJ。

 いまは、名もなき婚約破棄道の師範である。

 そして、その師範の前に両手をついて座っている四人の男。ブシード王国王太子、伊達ダテ・ブシードとその三人の取り巻きである。

 「お師さま!」

 と、伊達ダテ那螺なーらOJのことを呼んだ。

 その表情の必死さ、態度の真剣さは、まさに凜花リンファが王太子たる身に期待した、しかし、凜花リンファの前では決して見せることのない姿だった。

 「どうか、自分に婚約破棄の極意をお授けください!」

 そう頼み込むその姿。それはまさに『師のもと』で、なにかを学びとろうと必死になっている人間の姿だった。

 「我が婚約破棄道場に入門したいと?」

 「はい!」

 「なぜ、婚約破棄をしたいのです?」

 「働きたくないからです!」

 那螺なーらOJの問いに対して、伊達ダテは堂々とそう答えた。

 そう語る眼差しの強さ。

 真剣そのものの表情。

 声が聞こえなければそれを見た誰もが、

 「さすが王太子さまだ。あんな真剣な表情で訴えかけられているからにはきっと、国の大事を相談なさっているにちがいない」

 と、思い込み、尊敬の念を抱くようなものだった。

 「そも、自分はこの国の王太子です! 将来は王となり、国の頂点に立つ身なのです! 仕事など家臣たちに押しつけ、放蕩ほうとう三昧ざんまいの暮らしをしていればいい身分なのです! それなのに、あの鬼嫁のせいですべては台無し。このままでは、あの鬼嫁の尻に敷かれたまま、国民のために働きつづける一生を送らなくてはなりません!」

 だから!

 と、伊達ダテは叫んだ。

 まさに、魂の奥底からの叫びだった。

 「婚約破棄して凜花リンファを追放し、素直で、従順で、とことんまで甘やかしてくれる婚約者を新たに得て、働かずにすむ人生を手に入れたいのです!」

 「なるほど。それが、あなたにとっての真実の道。そういうわけですね?」

 「そうです!」

 「婚約破棄とは過酷なる修練の道。それを乗り越える覚悟はおありですかな?」

 「もちろんです! 働かなくていい人生を手に入れるためなら、どのような苦労もいといません!」

 「我々もです!」

 「我々もです!」

 「我々もです!」

 伊達ダテの言葉に、三人の取り巻きたちも一斉に叫んだ。

 その叫びに――。

 くわっ!

 と、那螺なーらOJの目が見開かれた。

 立ちあがった。枯れ木のように細く痩せ細った小柄な体から、圧倒的なオーラが威圧感となって噴き出した。

 あまりの圧力に伊達ダテたちは突風に吹かれたかのよう。髪は乱れ、服は音を立ててはためいている。思わず、腕で顔を覆っていた。

 「汝らの覚悟、受けとった! その覚悟があるならば、このぬらりひょん流婚約破棄道第二四六代家元、汝らに婚約破棄のなんたるかを叩き込んでくれよう!」

 「お師さま!」

 感極まった、四人の男の声が唱和する。

 「心に刻め! 婚約破棄道とはそも、仏教と起源を同じくする大願たいがん成就じょうじゅへの道。その昔、仏教の開祖は『真実の道を見つけた!』と叫び、妻子を捨てて、己の目的を叶えるために出家した。

 それと同時に、すべてを捨てて己の欲望のためにひた走る婚約破棄道もまた、生まれたのだ。言わば、婚約破棄道とは仏教の裏の顔、仏教と共に連綿れんめんと人の世で伝えられつづけた過酷なる修練の道なのだ! そのことを忘れるでないぞ!」

 「はい!」

 「よろしい。では、肝に銘じよ。婚約破棄に三つの秘訣あり!」

 「第一の秘訣とは⁉」

 「姿勢である!」

 「第二の秘訣とは⁉」

 「姿勢である!」

 「第三の秘訣とは⁉」

 「姿勢である!」

 姿勢である!

 同じ言葉を三度にわたって繰り返し、那螺なーらOJは告げた。

 「見るものを魅了する堂々たる立ち姿! なにがあろうと決して揺らぐことのない自信に満ちた態度! それあってこそ放つ言葉に説得力が生まれ、聞くものすべてに『この人の言うことは正しいのだ』と思わせることができるのだ。聞くものを心酔させ、味方につける。それこそが婚約破棄を成功させるための第一歩と知れ!」

 「はい!」

 「ならば、さっそく訓練をはじめる! 良き姿勢は良き体幹から! 体幹を鍛えるために走り込み三時間、背筋三万回、腹筋四万回、スクワット五万回! まずは小手調べとして、それからだ!」

 「はい!」


 ――かくして。

 静謐せいひつなる竹林にて男たちの汗と涙の音がこだますることと相成った。

 「どうした⁉

 つらいか、

 苦しいか、

 もういやか、

 逃げ出したいか⁉」

 「はい! つらいです!」

 「はい! 苦しいです!」

 「はい! もういやです!」

 「はい! 逃げ出したいです!」

 「ならばどうする⁉ ここでやめるか? 逃げ出すか? 婚約破棄を断念し、鬼嫁の尻に敷かれたまま、国民のために身を粉にして働く模範的な名君としての人生を送るか⁉」

 「いやです! 自分は働きたくないです、絶対に働きたくないです! 仕事はすべて家臣に押しつけ、とことんまで甘やかしてくれる嫁をもらい、放蕩ほうとう三昧ざんまいの暮らしをしたいです!」

 「我々もです!」

 「我々もです!」

 「我々もです!」

 「ならば、やり抜け! 婚約破棄は一日にしてならず! 試練なくして栄光なし! この苦難を乗り越えた先にこそ、婚約破棄の栄光はまっているのだ!」

 「はい、お師さま!」

 「お師さま!」

 「お師さま!」

 「お師さま!」

 「よろしい! では、今日より走り込み一〇時間、背筋六万回、腹筋八万回、スクワット一〇万回に増やす! 真実の道に至るため、歯を食いしばってやり遂げよ!」

 「はい、お師さま!」


 静謐せいひつなる竹林に囲まれた小さないおり

 障子戸が広々と開け放たれ、うぐいすが舞い、鹿威ししおどしが音を立てる庭園とひとつになったかのようなその空間に、五人の人物がいる。穏やかで、そして、それ以上に気品ある姿で茶の湯をたしなんでいる。

 小柄ながら圧倒的な風格を漂わせる端然たる老紳士と、その前に並ぶ四人の男子。

 伊達ダテ・ブシードと三人の取り巻きたちである。しかし――。

 そこにいるのはもはや、かつての伊達ダテたちではない。

 落ちついた風格。

 まっすぐな眼差し。

 自信に満ちた態度。

 木鶏もっけいのごとし。

 まさに、そう呼ばれるにふさわしい凜! とした、たたずまい。

 もはや、三歳児ですら恥じらうような醜態を見せていた姿はどこにもない。そこにいたのは、過酷な試練を乗り越えたものだけがもつことのできる、静かな自信と風格を湛えた若者たちだった。

 「見事である」

 那螺なーらOJがそう言った。四人の『弟子』を見る目は穏やかな満足感を漂わせ、なによりも誇らしげであった。

 浮かぶ微笑の優しさはまさに慈愛。厳しくも愛情に満ちた、厳父げんぷにして慈父じふたるものの姿がそこにあった。

 「伊達ダテよ。そして、三人の友よ。おぬしたちは、このわしの過酷な訓練に最後まで耐え抜き見事、婚約破棄道のなんたるかを身につけた。わしの自慢の弟子たちだ」

 「すべて、お師さまのおかげです」

 「おかげです」

 「おかげです」

 「おかげです」

 そう語り、手をついて頭をさげる仕種にももはや、かつての柔弱者の姿はない。見事なまでに鍛えあげられた武人の姿である。

 「お師さまの教えは決して、忘れません。お師さまの弟子として恥ずかしくないように振る舞い、婚約破棄を成功させ、すべての仕事と面倒事を家臣に押しつけ、とことんまで甘やかしてくれる妻をめとり、国庫使い放題で酒と賭博にうつつを抜かし、『後継者作り』の名目で女とたわむれつづける、そんな放蕩ほうとう三昧ざんまいの暮らしを手に入れてみせます」

 「みせます」

 「みせます」

 「みせます」

 「うむ」

 伊達ダテとその取り巻き三人の言葉に――。

 師たる那螺なーらOJは満足そうにうなずいて見せた。

 「それでこそ、我が弟子。我が自慢の弟子たちだ。おぬしたちはもう充分に我が道、ぬらりひょん流婚約破棄道を身につけた。もう教えることはなにもない。免許皆伝だ。さあ、行け。いまこそ婚約破棄を成功させ、おぬしたちの真実の道を手に入れるのだ」

 「はい!」

 四人の声が見事に唱和した。

 いまここに、史上かつてない婚約破棄道の達人が生まれたのだ。

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