四章 働きたくないからです!
その
無数の竹が伸びやかに生えそろい、緑の竹の葉がサラサラと風に揺れている。
それはまさに水墨画の世界。
俗世をはなれた仙人たちが幽冥に遊ぶ桃源郷。
そのなかに建てられた
『ぬらりひょん流婚約破棄道道場』
竹が生え、
ひとりは着流し姿も粋な端然たる老紳士。手慣れたなかにも気品高さを秘めた所作で優雅に茶を点てている。
婚約破人、
いまは、名もなき婚約破棄道の師範である。
そして、その師範の前に両手をついて座っている四人の男。ブシード王国王太子、
「お師さま!」
と、
その表情の必死さ、態度の真剣さは、まさに
「どうか、自分に婚約破棄の極意をお授けください!」
そう頼み込むその姿。それはまさに『師のもと』で、なにかを学びとろうと必死になっている人間の姿だった。
「我が婚約破棄道場に入門したいと?」
「はい!」
「なぜ、婚約破棄をしたいのです?」
「働きたくないからです!」
そう語る眼差しの強さ。
真剣そのものの表情。
声が聞こえなければそれを見た誰もが、
「さすが王太子さまだ。あんな真剣な表情で訴えかけられているからにはきっと、国の大事を相談なさっているにちがいない」
と、思い込み、尊敬の念を抱くようなものだった。
「そも、自分はこの国の王太子です! 将来は王となり、国の頂点に立つ身なのです! 仕事など家臣たちに押しつけ、
だから!
と、
まさに、魂の奥底からの叫びだった。
「婚約破棄して
「なるほど。それが、あなたにとっての真実の道。そういうわけですね?」
「そうです!」
「婚約破棄とは過酷なる修練の道。それを乗り越える覚悟はおありですかな?」
「もちろんです! 働かなくていい人生を手に入れるためなら、どのような苦労もいといません!」
「我々もです!」
「我々もです!」
「我々もです!」
その叫びに――。
くわっ!
と、
立ちあがった。枯れ木のように細く痩せ細った小柄な体から、圧倒的なオーラが威圧感となって噴き出した。
あまりの圧力に
「汝らの覚悟、受けとった! その覚悟があるならば、このぬらりひょん流婚約破棄道第二四六代家元、汝らに婚約破棄のなんたるかを叩き込んでくれよう!」
「お師さま!」
感極まった、四人の男の声が唱和する。
「心に刻め! 婚約破棄道とはそも、仏教と起源を同じくする
それと同時に、すべてを捨てて己の欲望のためにひた走る婚約破棄道もまた、生まれたのだ。言わば、婚約破棄道とは仏教の裏の顔、仏教と共に
「はい!」
「よろしい。では、肝に銘じよ。婚約破棄に三つの秘訣あり!」
「第一の秘訣とは⁉」
「姿勢である!」
「第二の秘訣とは⁉」
「姿勢である!」
「第三の秘訣とは⁉」
「姿勢である!」
姿勢である!
同じ言葉を三度にわたって繰り返し、
「見るものを魅了する堂々たる立ち姿! なにがあろうと決して揺らぐことのない自信に満ちた態度! それあってこそ放つ言葉に説得力が生まれ、聞くものすべてに『この人の言うことは正しいのだ』と思わせることができるのだ。聞くものを心酔させ、味方につける。それこそが婚約破棄を成功させるための第一歩と知れ!」
「はい!」
「ならば、さっそく訓練をはじめる! 良き姿勢は良き体幹から! 体幹を鍛えるために走り込み三時間、背筋三万回、腹筋四万回、スクワット五万回! まずは小手調べとして、それからだ!」
「はい!」
――かくして。
「どうした⁉
つらいか、
苦しいか、
もういやか、
逃げ出したいか⁉」
「はい! つらいです!」
「はい! 苦しいです!」
「はい! もういやです!」
「はい! 逃げ出したいです!」
「ならばどうする⁉ ここでやめるか? 逃げ出すか? 婚約破棄を断念し、鬼嫁の尻に敷かれたまま、国民のために身を粉にして働く模範的な名君としての人生を送るか⁉」
「いやです! 自分は働きたくないです、絶対に働きたくないです! 仕事はすべて家臣に押しつけ、とことんまで甘やかしてくれる嫁をもらい、
「我々もです!」
「我々もです!」
「我々もです!」
「ならば、やり抜け! 婚約破棄は一日にしてならず! 試練なくして栄光なし! この苦難を乗り越えた先にこそ、婚約破棄の栄光はまっているのだ!」
「はい、お師さま!」
「お師さま!」
「お師さま!」
「お師さま!」
「よろしい! では、今日より走り込み一〇時間、背筋六万回、腹筋八万回、スクワット一〇万回に増やす! 真実の道に至るため、歯を食いしばってやり遂げよ!」
「はい、お師さま!」
障子戸が広々と開け放たれ、
小柄ながら圧倒的な風格を漂わせる端然たる老紳士と、その前に並ぶ四人の男子。
そこにいるのはもはや、かつての
落ちついた風格。
まっすぐな眼差し。
自信に満ちた態度。
まさに、そう呼ばれるにふさわしい凜! とした、たたずまい。
もはや、三歳児ですら恥じらうような醜態を見せていた姿はどこにもない。そこにいたのは、過酷な試練を乗り越えたものだけがもつことのできる、静かな自信と風格を湛えた若者たちだった。
「見事である」
浮かぶ微笑の優しさはまさに慈愛。厳しくも愛情に満ちた、
「
「すべて、お師さまのおかげです」
「おかげです」
「おかげです」
「おかげです」
そう語り、手をついて頭をさげる仕種にももはや、かつての柔弱者の姿はない。見事なまでに鍛えあげられた武人の姿である。
「お師さまの教えは決して、忘れません。お師さまの弟子として恥ずかしくないように振る舞い、婚約破棄を成功させ、すべての仕事と面倒事を家臣に押しつけ、とことんまで甘やかしてくれる妻を
「みせます」
「みせます」
「みせます」
「うむ」
師たる
「それでこそ、我が弟子。我が自慢の弟子たちだ。おぬしたちはもう充分に我が道、ぬらりひょん流婚約破棄道を身につけた。もう教えることはなにもない。免許皆伝だ。さあ、行け。いまこそ婚約破棄を成功させ、おぬしたちの真実の道を手に入れるのだ」
「はい!」
四人の声が見事に唱和した。
いまここに、史上かつてない婚約破棄道の達人が生まれたのだ。
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