三章 史上最凶の婚約破棄

 ある日、当の純麗スミレ・リンディアニウムが、美優ミユウに話しかけた。

 美優ミユウはその日も膨大な職務に追われ、山となった書類を相手に格闘している最中だった。眠る間もない膨大な職務に頬はやつれ、肌は荒れはて、目は落ちくぼんでいる。

 かつては、シリヲペンペル公国でも随一と言われたその美貌もいまでは見る影もない。

 そんな美優ミユウを見る純麗スミレの目。

 そこにはまぎれもなく同情とそして、正義の怒りとがあった。

 「美優ミユウさま」

 「純麗スミレさま。よろしいのですか、魁人カイトさまのお側におられなくて」

 「あの御仁は酔いつぶれて寝ておられます。だらしなく弛緩しかんした腹をさらけ出したまま」

 そう語る純麗スミレの口調。

 そこにあるものは、嫌悪ではない。

 正義の怒り、そのものだった。

 「単刀直入にお聞きします、美優ミユウさま。なぜ、あのような男に忠実に仕えておられるのです? 廷臣のみなさま方のお声は、わたしの耳にも聞こえております。あなたさえその気になれば、国中に根を張った怒りが爆発し、魁人カイトを焼くつくすことでしょうに」

 言われて美優ミユウはグッと唇を噛みしめた。その顔に浮かぶのは、悔しさとそして、己のふがいなさを責める表情。

 「婚約者が……」

 「はい?」

 「わたしの婚約者が牢獄に繋がれているのです。あの男は、魁人カイト・シリヲペンペルは、大公の地位を手に入れた途端、わたしの婚約者を捕え、脅してきたのです。『婚約者を殺されたくなければおれに従え。一生、おれの忠実な奴隷として奉仕しつづけろ』と」

 「それは……」

 「わかっているのです!」

 美優ミユウは叫んだ。

 もう耐えられない!

 そんな思いの爆発だった。

 「わかっているのです、わたしだって。こんな状況を放っておいてはいけない。立ちあがり、魁人カイトを倒すべきだと。でも……でも、わたしはあの方を見殺しにはできない!」

 美優ミユウはそう叫ぶとその場に突っ伏し、大声で泣きはじめた。抑えにおさえてきた負の感情。それが爆発した瞬間だった。

 そんな美優ミユウを見る純麗スミレの手。その手は女子学生とは思えないほどに強く握りしめられてた。

 「……我、確信せり、あのものに婚約破棄させるは正義なり」


 そして、その日はやって来た。

 純麗スミレのために開かれたパーティーの席上、玉座に座った魁人カイトは奴隷同然の薄汚れたドレスをまとった美優ミユウに対して宣言したのだ。

 「美優ミユウ! 本日、ただいまをもってきさまとの婚約を破棄する!」

 絢爛けんらんたる宴の開かれるその会場にて。

 魁人カイト・シリヲペンペルの声が高らかに鳴り響いた。

 他者を嘲ることだけを目的としたその口調。相手が自分に逆らえないことを確信し、安全な場所からいたぶり抜くことにこの上ない喜びを感じる笑顔。その笑顔の卑しさはまさに、天性の卑怯者。

 「国内一の美女と言うからわざわざ婚約者にしてやったというのに、いまのきさまはなんだ。すっかりやつれ果て、色気の欠片もないババアではないか。そんなクズはおれさまにはふさわしくない! おれさまにふさわしいのはこの純麗スミレ・リンディアニウムどののような清純可憐なご令嬢なのだ! よって、きさまは婚約者としての立場を取り消した上で追放とする! おれさまは今日、改めて、純麗スミレ・リンディアニウム嬢との婚姻を発表する!」

 相手が屈辱にまみれることを確信し、そうしてやることに喜びを覚える卑しい笑み。その笑みを浮かべたまま、天性の卑怯者はそう告げた。だが――。

 その叫びと共にパーティー会場に広がったもの。

 それは、喜び。

 ――これで、美優ミユウさまは解放される!

 その思いが会場のすべで一斉にわき起こり、海の底深くから静かに浮きあがり、ついには島をも呑み込む巨体となって破裂する泡のように爆発した。

 歴史上、これほどまでに人々から喜ばれた婚約破棄はあるまい。

 万人にそう納得させるだけの光景だった。

 ――これで、美優ミユウさまは救われる!

 すべての人の心に湧きあがったその安堵の思い。それにつづくものは、

 ――これでもう、遠慮はいらない!

 ――美優ミユウさまは婚約者を人質にとられて服従を強制されている。婚約者のために死に物狂いで働く美優ミユウさまを見捨てるわけにはいかない。

 その思いあればこそ、いままで魁人カイトにも従ってきた。しかし――。

 その美優ミユウが追放される。

 そうなればもう、いかなる遠慮もいらない。堂々と叛旗を翻し、魁人カイトを大公の座から引きずりおろしてやれる。

 その思いが人々の心に津波のように伝わり、その場は灼熱の怒りが吹きあがる寸前となった。

 そのことに気がつかないのは自分のしでかしたことの意味に気がついていない魁人カイトただひとり。人々の怒りがいままさに爆発しようとしたその瞬間――。

 ひとつの悲痛な声が響いた。

 「まってください!」

 美優ミユウだった。

 他ならぬ美優ミユウその人が、連日の激務ですっかりやつれ果てた体を無理やりに動かし、すがりつくような形相で魁人カイトのもとに駆けよったのだ。

 「それでは、あの人は……朱玲シュレイはどうなるのです⁉」

 美優ミユウは必死の思いで叫ぶ。人質にとられ、服従を強制されることとなった愛しい婚約者の名を。その叫びに――。

 人々も息を呑んだ。

 彼人かのとたちもようやく気がついたのだ。魁人カイト美優ミユウを追放することに決めた。となれば、人質としていた婚約者にももう用はない。となれば、魁人カイトのすることはひとつのはず……。

 「安心しろ。首をねるよう伝えておいた。やつのせいでお前は、意に沿わぬ人生を送る羽目になったのだからな。これでもうお前も誰に気兼ねすることなく自由に生きられるわけだ。おれさまの処置に感謝しろよ」

 その言葉に――。

 会場すべてが凍りつく。

 時が凍り、居並ぶすべての人が恐怖と驚愕の表情を張りつかせたまま氷の彫像となった。

 完全なる沈黙。

 その沈黙を破ったのはひとつの悲鳴。

 うら若き令嬢おとめの叫びだった。

 「うわああああっ!」

 美優ミユウだった。

 美優ミユウが絶叫し、その拳を握りしめて魁人カイトに殴りかかったのだ。しかし――。

 いくら、怒りに駆られていようが、そしてまた、魁人カイトが武芸の心得ひとつない軟弱者だろうが、しょせんはか弱い令嬢おとめの拳。それも、連日の激務によって体力は衰え、精神も傷つけられている。

 いくら魁人カイトでも、そんな相手の拳を受けるほど間抜けではなかった。殴りかかる美優ミユウを余裕でかわすと、その顔面――かつては、シリヲペンペル一の美貌と謳われながら、連日の激務によってすっかりやつれ果てた顔――に、自らの拳を叩き込んだ。

 美優ミユウは吹き飛ばされた。

 そのまま床に転がった。

 鼻から流れた血が床を赤く染めあげた。

 人々が声を失うなか、響きわたるは魁人カイトの嘲笑。

 「ははは、愚かものめ! おとなしく従っていれば追放だけですませてやったというのにな。よりによって大公殿下ともあろうお方に拳を振りあげるとは。これできさまはれっきとした反逆者。法にのっとり、処刑してくれるわ」

 その叫びと共に魁人カイトの子飼いの部下たちが剣を抜いてその場に殺到した。

 美優ミユウを取り囲んだ。

 美優ミユウはそんなことにも気づかないようで、床に両手を突いてくず折れた姿勢のまま身動きひとつせずにいた。そして――。

 その双眸から一筋の涙が流れ落ちた。

 それは断じて悲しみの涙ではない。

 怒りの涙。

 そして、大切な婚約者の仇をとることもできない自分自身のふがいなさを罵る悔し涙。

 しかし、涙は涙。

 令嬢おとめの涙が流れるとき――。

 その人は必ず表われる。

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