二章 史上最凶のクズ男

 「魁人カイトさま。遠方よりのお客人がお見えです」

 美優ミユウは、婚約者にして未来の夫たるシリヲペンペル大公、魁人カイト・シリヲペンペルにそう告げた。

 宮殿で、ではない。

 魁人カイトの私室にて、だ。

 宮殿内の執務室や、謁見の間。

 本来、大公たる身分ならば一日の大半を過ごすべき場所には、まちがっても近づくような魁人カイトではない。

 大公としての職務はすべて、美優ミユウに押しつけ、自分は放蕩ほうとう三昧ざんまい。この日も私室にいかがわしい仲間とその筋の女たちを呼び集め、らんちき騒ぎに明け暮れているところだった。

 床の上はいたるところ砕けちった皿と踏みつぶされた料理、さらには、ぶちまけられた酒とで汚れている。

 らんちき騒ぎの結果……ではない。

 騒ぎがはじまる前からこの状態だった。

 平民出身ながら、シリヲペンペル一の美貌と才知とで知られた、自らの婚約者たる美優ミユウ。その美優ミユウを最下等の奴隷、いや、家畜扱いして作らせた料理を三度にわたってテーブルの上から払いのけ、わらいものにした結果である。

 そして、四度目の料理でようやく、らんちき騒ぎをはじめたのだ。

 誰もかれもが頭から酒を浴び、衣服は乱れ、本来ならば決して人目にさらしてはならない場所がさらけ出されている。

 少しでも『良識』というものを持ち合わせている人物であれば眉をしかめ、苦言のひとつも呈するところ。

 もちろん、美優ミユウも、そして、他の使用人や廷臣たちもそんなことはしない。もはや誰も、そんな忠言をするほど魁人カイトに対して期待してはいない。

 「客人だと?」

 ジロリ、と、魁人カイトは酒に濁った目を自身の婚約者に向けた。

 「馬鹿か、お前は! なんと、気の利かないやつだ。せっかく、親しい友を招いて友好を深めているというのに、わざわざ水を差すような真似をしおって。そんな無粋なやからはさっさと追い払うのが未来の妻たるきさまの役目だろうが! そんなこともできずに、馬鹿正直に招き入れるとは恥を知れ。そんなことだから、お前は出来損ないの役立たずだと言うんだ」

 「ですが、どうしてもとおっしゃるものですから」

 その短い言葉。

 それは、魁人カイトにとってはとうてい我慢ならない反抗でしかなかった。怒りの形相を浮かべて手にしたワイングラスの中身をぶちまけ、どなりつけた。

 「きさまはいつから……」

 そんなに偉くなった!

 そう叫ぼうとした魁人カイトの声は突然、とまった。酒に濁った目が見開かれ、赤く染まった顔がとろけた表情になった。

 その人物を見たからだ。

 美優ミユウの開けた扉を通って入ってきたのは愛らしい、あまりにも愛らしいひとりの少女。清純可憐な学生服に身を包んだ一〇代の令嬢おとめだった。

 「突然の来訪、失礼いたします、魁人カイト・シリヲペンペル殿下」

 鈴の転がるような声でそう言って身を屈め、制服のミニスカートの裾をつまんで完璧なカーテシーを披露する。その姿の愛らしさ、気品高さに魁人カイトは言葉を忘れ、取り巻きの悪党たちは歓声をあげる。

 「純麗スミレ・リンディアニウムと申します、殿下。黄河オーガ王国おうこくの女子高等学校に所属する一学生でございますが、見聞を広めるべく大陸中を旅しております。その途中、シリヲペンペル公国にも立ちよりました。名君として知られる魁人カイト殿下にはぜひともご挨拶しなければと思い、参上させていただきました」

 「お、おおう、それはそれは……」

 魁人カイトはたちまち好色な笑みを浮かべて立ちあがり、両手を広げて純麗スミレに近づいた。その顔に浮かぶ笑顔はどんなに男に飢えたサキュバスでも嫌悪感に駆られて逃げ出すようなものだったが、純麗スミレは平然たるもの。普通の女子学生なら指先一本ふれただけで悲鳴をあげて逃げ出すにちがいない魁人カイトの腕をしかし、逃げることもなく受けとめる。

 その態度に気を良くしたのだろう。魁人カイトはますます卑しい笑みを浮かべ、純麗スミレの身を抱きすくめた。早々にいい場所に連れ込もうとしている。

 仮にも婚約者たる女子を前にしてのその振るまい。いっそ、潔いとも言えるほどだった。

 「おい、なにをしてる、ババアッ!」

 『ババア』とは、美優ミユウのことである。純麗スミレに向けるのとは対照的な怒りと軽蔑に満ちた形相で自身の婚約者をにらみつける。

 「さっさと、このご令嬢にお飲み物をおもちしろ。まったく、気の利かないやつだ」

 「……はい、ただいま。あっ」

 美優ミユウは小走りに駆けていこうとした。バランスをくずし、その場に倒れた。魁人カイトの顔がたちまち真っ赤に染まる。

 「この間抜けめ! このお美しいご令嬢の前で無様な姿をさらして、おれに恥をかかせる気か!」

 そう叫び、床に倒れ込んだ婚約者の背に手近にあったワインボトルを叩きつける。

 音を立ててボトルが割れ、中身の真っ赤な液体と一緒にガラスの破片が散乱する。その後片付けをするのはもちろん、美優ミユウただひとりである。

 それでも――。

 美優ミユウはグッと唇を噛みしめて涙を堪え、立ちあがる。

 「申し訳ありません。すぐにお飲み物をおもちします」

 そう告げて歩き去って行く。

 真っ赤な液体にグッショリと濡れたドレスのまま。

 その身に付着したガラスの破片がキラキラと輝き、美しい光彩を放っているのは、もしかしたらこの世で最高の皮肉だったかも知れない。

 歩きさる美優ミユウに軽蔑の視線を投げつけてから、魁人カイトは再び純麗スミレに視線を向けた。たちまち、表情がニヤけ、いやらしい視線でいっぱいになる。

 その変わり身の早さ、

 「大公なんかやってないで役者になれ」

 一目見た誰もが、そう言いたくなるようなものだった。

 「いや、申し訳ない。純麗スミレどの。あれでも私の婚約者であり、未来の大公妃なのですがね。本当になにもできないグズでノロマなツチブタなのですよ。まあ、だからこそ、せめてもの情けで婚約者としてやったのですがね」

 なにしろ、あんな不出来なグズ、他に誰も引き取り手などおりませんからな。

 魁人カイトはそう言って高らかにわらう。

 そんな魁人カイトに対し、純麗スミレは眉ひとつ動かすことなく告げた。

 「いえ、お気遣いなく。わたくしはただ、名君とほまれたかい魁人カイト殿下にご挨拶にうかがっただけですから」

 「おおっ! あのような役立たずのツチブタにさえ気遣いを見せるとは。なんとお優しい方だ。本当に、あんな色気のないババアとは天地の差ですな。ささ、こちらにどうぞ。ゆっくりと挨拶を受けさせていただきますぞ」

 そう言いながらそそくさと純麗スミレを寝室に連れ込む。その様子を見て悪友たちは一様に羨望のため息をついたのだった。


 その日からすべてがかわった。

 魁人カイトはすっかり純麗スミレに入れあげ、どこに行くにも純麗スミレを側に置いている始末。もともと、美優ミユウなど、自分の玩具にするために婚約者に仕立てあげただけの魁人カイトだが、ますます露骨に見下すようになっていった。

 「まったく、お前はすっかりババアになったな。色気がないどころか、まるで枯れ果てたばあさんだ。とても、女としては見れないぞ。こんなやつが未来の妻だなどとは、諸外国に恥ずかしい。少しは純麗スミレどのを見習うのだな」

 そんな魁人カイトを前に、使用人や心ある廷臣たちは陰でささやく。

 ――誰のせいだ。お前がなにもしないからその分、美優ミユウさまが必死の働きで国を保っておられるのではないか。そのせいで、あんなにおやつれになってしまって。

 ――そもそも、美優ミユウさまを婚約者にしたのは自分自身だって言うのにな。平民でしかも、孤児院出身でありながら、その頭脳が先代大公の目にとまり、国政に参画するまでになった。『シリヲペンペル一の才女にして美貌』と知られるようになった美優ミユウさまを自分の玩具にするために……。

 ――しかも、美優ミユウさまには愛しあう婚約者がいたのというのにな。『美優ミユウにふさわしい男になるために』と、軍隊入りして出世を目指す真面目な好青年だった。

 ――そして、軍隊で見事に頭角を表わし、メキメキ出世していた。先代の大公さまも『あのふたりはいずれ夫婦となり、力を合わせて我が国を守っていってくれるだろう』と、期待しておられた。

 ――それなのに、一年前、先代大公が急死されたあと、魁人カイトのやつが跡を継いでからすべてが台無しになった。

 ――婚約者を捕えて『こいつを処刑されたくなければおれに尽くせ!』だからな。

 ――ああ、ほんと腹が立つ! できることならこの手でぶん殴ってやりたい!

 ――けど、軍隊だけはきちんと掌握しているからなあ。

 ――それだって、金と女をバラまいて懐柔しているだけだが。

 ――そのせいで、国の財政はガタガタ。それを、美優ミユウさまが必死の働きで支えているというのに。

 ――あいつときたら、そんな美優ミユウさまを奴隷扱いして放蕩ほうとう三昧ざんまい。まったく、腹が立つ!

 ――まったくだ。いっそ、こんな国、丸ごと捨てて隣国にでも亡命したいところだ。

 ――いっそのこと、軍隊を借りて攻め込み、あの首をとってやりたい。

 ――まったく同感。しかし……。

 ――うむ。しかし、美優ミユウさまを見捨てるのは忍びない。あの方がおられるかぎり、我らもこの国を捨てるわけにはいかん。

 ――仕方あるまい。我ら一同、少しでも美優ミユウさまのご負担を減らすために尽力するとしよう。

 廷臣たちの陰口は結局、いつもそこに行き着くのだ。

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