史上最凶の宴

一章 史上最凶の婚約破人

 くらく、くらい幽冥の狭間。

 は決して太陽の光の届くことのない大地の深淵。

 人たる身には決してたどり着くことのできぬ魔境のきょく

 その見るもおぞましき拒絶と禁断の毒地にて、今宵こよいもまたひとつの恐るべき悪がうごめいている。

 それは、究極の腐敗。

 完璧なる堕落。

 ひとつ、息をすれば、全身に腐敗の毒が行きわたり、

 ふたつ、息をすれば、すべての内臓が腐り果て、

 みっつ、息をすれば、魂までが邪悪に染まる。

 ただ、その場にあり、その空気を吸うだけで魂までが腐りおち、因果のすべてが邪悪に染まる。

 無限の過去から悠久の未来まで、すべての生が堕落し、輪廻の輪からさえはじかれ、永遠に幽冥の狭間をさ迷う悪霊と化す。

 ただ、その場にあるだけで、それほどまでに毒にまみれた空気を吐き出す。

 この世にあってはならない禁断の邪悪。

 その名は――。

 「コンヤ・クゥ・ハッキー!」

 「ハッキー!」

 大首領の叫びに、居並ぶ戦闘員たちが一斉に唱和する。

 薄絹に遮られ、そのシルエットだけが見える大首領の間。その前に敷かれた生き血よりもなお生々しく、あでやかで、毒の薔薇よりも美しい赤い絨毯。その赤い絨毯の左右に並ぶ無数の戦闘員たち。覆面に覆われたその顔は見た目では判別できない。

 しかし、おお、なんと言うことだろう。

 覆面を透けて見えるその目。

 その眼光。

 そこにあるものは、比類なき腐敗ではないか。

 純粋なる堕落ではないか。

 この世のいかなる生物も、

 ――そこまで腐敗できるはずがない。

 ――そこまで堕落できるはずがない。

 その目を見たすべての人間がそう思い、必死にかぶりを振って否定する。

 そんな双眸。

 しかし――。

 その『あるはずのない』双眸はたしかにそこにある。

 赤い絨毯をはさんで並んでいる。

 その戦闘員たちのあげた声はいまもまだ、究極の腐敗と堕落の大気のなかにこだましている。

 右手には燭台しょくだい、左手は高々と掲げ、一斉に唱和するその姿。

 その姿を比類なき邪悪と呼ばずになんと表現すればいいのだろう。どれほど優れた詩人であろうとも一目見た瞬間、言葉による表現力の限界を悟り、自らの喉を食い破るにちがいない。

 燭台しょくだいの上には小さな蝋燭ろうそく。かすかに灯るその炎が大気に押され、チロチロと揺れている。そのかすかな炎があるために、その場を占める闇がより深く、おぞましいものとなっている。

 「コンヤ・クゥ・ハッキ」

 大首領が再び自分たちの名前を呼んだ。

 戦闘員たちは唱和しない。自分たちが応じることを望んで放った言葉ではない。そのことがわかっていたからだ。

 大首領は、かすかに揺らめく炎を掲げて沈黙を保つ戦闘員たちの前で宣告した。

 「我らの目的は人の世に婚約破棄の嵐を吹きあらすことである。婚約を破棄させ、もっと破棄させ、さらに破棄させ、人と人との信頼の絆を破壊する! そして、人の世を崩壊させ、その機に乗じて人の世を支配する! それこそが、我らコンヤ・クゥ・ハッキの崇高なる理念である!」

 ひとつ聞けば、耳が腐り、

 ふたつ聞けば、心が腐り、

 みっつ聞けば、魂までが腐り果て、究極の腐敗を経た生ける死体と化す。

 そんな妖しくもおぞましい大首領の言葉の数々を、居並ぶ戦闘員たちは忠実無比なる沈黙によって受けとめている。

 「にもかかわらず!」

 大首領が叫んだ。

 腐り果てた内臓という内臓。

 その臓物から放たれる無限の毒素。

 それを、息に乗せて放つかのような声だった。

 「忌々しきヒーロー令嬢によって、我らの計画はことごとく頓挫とんざしている! 送り込んだ婚約破人は、すでに二体までがヒーロー令嬢によって始末された! なんと情けない! これが、この世の究極の腐敗、完璧なる堕落、比類なき邪悪と称せられたコンヤ・クゥ・ハッキの誇る精鋭の姿か! 誰ぞ『我こそはヒーロー令嬢をほふるものなり!』と名乗りをあげるものはおらぬのか⁉」

 大首領の叫び。

 そこに込められた、

 憎悪。

 憤怒。

 憤り。

 それはすべて、大首領の感じている屈辱の果てしない深さを指し示すものだった。

 それほどの叫び。

 しかし――。

 大首領のその叫びに応じる声はない。

 究極の腐敗と堕落に覆われた闇のなかに響くものは沈黙のみ。呼吸の音すらその場では禁止されているかのよう。

 「なんと! 我がコンヤ・クゥ・ハッキにはなんとしても婚約破棄を成し遂げようとする勇者はおらぬのか⁉」

 大首領のその叫び。

 その叫びに応える声はない。

 しかし――。

 ずしん。

 床が、いや、世界そのものが揺れた。

 ずしん。

 ずしん。

 ずしん。

 世界を震わすその揺れは近づいてくる。

 迫ってくる。

 究極の腐敗と堕落の闇のなかから。

 それは、足音。

 あまりにも深く、重い、足音だった。

 足音につづいて、樫の巨木のような脚が闇のなかから表われた。脚の上につづくのはワイン樽を乗せたかのような巨大で、分厚く、頑健そのものの胴。肩から生える腕は『クマのよう』と言うのさえ足りない。

 闇のなかから顔が表われた。

 二本の角。

 爛々と輝く目。

 ひしゃげた鼻。

 牙の生えた巨大な口。

 オーガ。

 恐ろしく巨大な、鬼の一族がそこにいた。

 その肉体は、この世のいかなる聖剣も砕けるにちがいない筋肉の鎧。

 その骨格は、大地の背骨から削り出された根源の金属。

 その全身を丁寧に編みあげられた革鎧で覆っている。

 戦士のたしなみだろうか。革鎧の表面には清楚可憐な竜胆りんどう刺繍ししゅうが施されている。

 誰が知ろう。

 竜胆りんどうの花言葉とは、

 勝利。

 正義。

 誠実。

 まさに、戦士のなかの戦士にふさわしい花であり、花言葉。

 その花と花言葉にて全身を飾る鬼族の戦士がいま、赤い絨毯を渡って大首領のもとへとやってくる。

 その足音に世界は揺らぎ、

 その巨体に押し出された大気が、一塊の壁と化して叩きつけてくる。

 「ご安心あれ、大首領閣下!」

 オーガ族の戦士は叫んだ。

 世界そのものを揺るがす、いや、壊す、いや、それ以上の衝撃をもたらす大音響。まさに、その魁偉なる風貌にふさわしい声だった。

 「いまこそ、コンヤ・クゥ・ハッキ一の武人たる我の出番。必ずや婚約破棄を実現させてご覧にいれる!」

 「おお、お前か。崩壊童ほうかいどうJK」

 そう語る大首領の声。

 そこには先ほどまでの苛立ちはすでになく、心地良いほどの満足感だけがあった。それはすなわち、目の前に立つオーガ族の戦士に対する信頼の深さを示すものだった。

 「先代の崩壊童ほうかいどう、おぬしの父は、我がコンヤ・クゥ・ハッキ一の巨体と怪力とを誇る豪傑であった。その子であるおぬしは、実力をもって父を打ち倒し、栄えある婚約破棄人の地位を受け継いだ。そなたであれば、ヒーロー令嬢を倒し、婚約破棄を実現させることができよう」

 「はっ、お任せあれ。大首領閣下。この崩壊童ほうかいどうJK、武人の誇りに懸けて信頼に応えて見せましょう」

 「うむ。頼もしいぞ。崩壊童ほうかいどうJKよ。では、いまより我が婚約破棄力をもってそなたの姿をかえる。人の姿と、人の名をもって、人の世に溶け込み、婚約破棄の嵐を吹きあらすのだ!」

 「はっ!」

 そして、シルエットだけを映す薄絹の向こうから放たれる大首領の婚約破棄力。そのおぞましいと呼ぶのも生ぬるい禁断の力によって、オーガ族の戦士の巨体は、暗黒の光に包まれ姿をかえる。

 そこにいたのはもはや、屈強魁偉な鬼などではない。愛らしい、あまりにも愛らしい見た目をもつ清純可憐な一〇代の少女だった。

 「行け、崩壊童ほうかいどうJK! いまより純麗スミレ・リンディアニウムを名乗り、人の世に婚約破棄の嵐を吹きあらすのだ!」

 「ははあっ!」

 その声もすでに、見た目にふさわしい可憐なる乙女のもの。

 いまここに、新たなる禁断の腐敗と堕落とが人の世に解き放たれたのだ。


 「花恋かれんさま、どこに行かれたのです、花恋かれんさま⁉」

 「かわいい嫁を放り出して雲隠れとは、ひどいではありませんか!」

 「出てきてください! 今日こそは夫婦のちぎりを……!」

 鬼気迫る。

 もはや、そう言ってもいいほどに殺気すらこもった令嬢おとめたちの声が響きわたる。

 それと同時に鳴りひびくは、令嬢おとめとしてははしたないと言ってもいいほどに元気に廊下を走りまわるドタバタという足音。

 シーホース王国。

 大陸最強最大の国家たるその王国。

 その最北に位置し、辺境の魔物・怪物たちからの襲撃を真っ先に受けとめ、王国を守る役割を負うカリオストロ辺境伯領。常に、襲撃の危険にさらされ、王国内でももっとも危険な場所であるその領地はしかし、広大な森林資源に恵まれ、豊富な森の幸によって王国内でももっとも潤う領地でもあった。

 そのカリオストロ家当主、花恋かれん・カリオストロの屋敷において今日もまた、昨今ではすっかりお馴染みになった光景が繰り広げられている。

 愛謝アイシャ・スカーレット。

 金夢キム・グレインステッド。

 望良ノーラ・ブルーハット。

 つい最近、花恋かれん・カリオストロその人が手ずから嫁にした三人の令嬢おとめたちによる鬼ごっこ、である(『ごっこ』ではなく『鬼の追いまわしそのものでしょうがあっ!』というのが、追いまわされる対象である花恋かれん・カリオストロ嬢の言い分であるが)。

 まだ一〇代の瑞々しい令嬢おとめたちが、ドレスの裾がめくれあがって貴族の生足がのぞくのもかまわずに、屋敷のなかを走り抜けては声をあげつづける。

 一声あげるたびに声に含まれる殺気はヒートアップ。その体内では心臓がドラムとなって音の嵐を鳴りひびかせ、体中の血液がロックのビートで暴れまわる。顔に浮かぶは、これ以上ないほどの怒りの形相。

 その姿。

 まさに、鬼嫁。

 世の男という男がその姿を見たならその瞬間、

 「……なにがあったか知らないが、さっさと謝った方がいいぞ」

 と、怖気おぞけを震いながら忠告する(そして、そのあとは巻き込まれないようにそそくさと逃げ出す)ものだった。

 そんななか、屋敷のあるじにして三人の令嬢おとめ女夫おっと(?)たる花恋かれん・カリオストロことそのなかの人、現代日本からの転移者である三枝さえぐさかおるはひとり、柱の陰に隠れていた。

 いつも通り、完璧で究極のアイドル美貌を隠すため、あえてダブダブの服とパンツを着込み、長い髪を三つ編みにまとめ、分厚い瓶底メガネをかけている。

 ダサさの極み。

 まさに、そう言いたくなるようなその格好。

 それでも、ふと気を抜けば最強で無敵のアイドルオーラが漏れ出して、見るものすべてを魅了してしまう。

 それが、すべての令嬢おとめたちの守り神、すべての不埒ふらちな男どもの天敵たるヒーロー令嬢、花恋かれん・カリオストロ。

 しかし、いま現在、その肉体のなかに入っているのは現代日本で生まれ育った三十路みそじ社畜OL、三枝さえぐさかおる

 トラックにかれて死にかけたところを、本物の花恋かれんから『バカンスしたくなったから体、貸してねぇ~』と、やけに軽いノリで言われて――勝手に――中身だけを入れ替えられた。

 そして、いま、カリオストロ家当主にしてヒーロー令嬢たる、究極で無敵のアイドルの一番星、花恋かれん・カリオストロとして暮らしている。

 暮らしているのだが……。

 「はあ、はあ、はあ……」

 柱の陰に隠れるかおる

 その息が荒い。

 愛謝アイシャたちから全力で逃げまわっていたために全身、汗みどろで、豊かに盛りあがった胸は激しく上下している。真っ青になった顔に浮かぶは恐怖の表情。それはまさに、鬼に追われるか弱い人間そのものの姿だった。

 「お嬢さま」

 「ぎゃああああ~!」

 突然――。

 後ろから声をかけられて、かおるは大声で悲鳴をあげた。飛びあがった。空中で見事にターンして着地を決め、両手を伸ばす。いつの間にか接近していたメイド姿の少女の口を思いきりふさぐ。

 「大声、出さないで! 見つかっちゃう!」

 大声をあげたのは自分だというのに他人にそういうあたり、なかの人の慌てぶりがよくわかる。

 メイド姿の少女、人に見えてその実、神霊種たる風虫ふうちゅうぞくのひとり、ほたるは、かおるの腕を礼儀正しく払いのけた。

 「大声を出しておられるのはお嬢さまです」

 冷静に事実を指摘してから、さらにつづける。

 「今日も三人の嫁から逃げまわっておられるのですか?」

 「だ、だって、だって~! あの三人、あたしの顔さえ見れば迫ってくるんだものおっ~」

 心がもたないっ~、と、両手で顔を覆い、気持ちよさそうに大声で泣くかおる

 「はああ~」

 と、ほたるはわざとらしく――と言うか、完全にわざと――大きなため息をついて見せた。

 「嫁として、自らの責務を果たそうとしているだけでしょう。逃げる方が悪いのです」

 「そんなこと言ったって、嫁に行ったこともないのに嫁ができちゃうなんてぇ~。それも、三人!」

 「よろしいではありませんか。百合ハーレムは正義。百合ハーレムは尊い。誰に遠慮することもなく、堂々と百合ハーレムを楽しまれればよいのです。そのときは不肖、このわたくし、ほたるも参戦させていただきます」

 と、胸を張って宣言するメイド姿の少女であった。

 「だから、あたしにそんな趣味はない~!」

 あるじ――の、なかの人――の悲鳴に対してほたるは、完全に嫌味のためにため息をついて見せた。

 「いいですか、お嬢さま。あの三人の令嬢方を、ご自分の嫁としてお持ち帰りになられたのはお嬢さまご自身なのですよ。その責任をとらずにどうするのですか」

 「だ、だって、放っておけなかったし、あのときはヒーロー令嬢になっててテンションおかしくなってたし……あたしは悪くな~い!」

 「やれやれ。まるっきり、酒に酔って女性をはらませ、挙げ句の果てに言を左右して責任逃れしようとする不実な男そのままの姿ですね。恥を知ってはいかがですか?」

 「そ、そこまで言わなくても……」

 容赦のないほたるの言葉に、ますます涙目に――ただし、楽しそうに――なるかおるであった。

 「あるじたるお方がそのように不実で無責任な態度をとっていることは、忠実なるメイドとして看過できません。仕方ありません。ここは手足を拘束して愛謝アイシャさまたちのもとに――」

 「やめて! そんな、オオカミの前に生肉を放り出すような真似をしないで!」

 「肉の悦楽にはちがいないでしょう」

 と、澄まして言うほたるであった。

 「だから、そういうことじゃなくて……そうだ! お仕事、お仕事ない⁉」

 「お仕事……ですか?」

 「そう、お仕事! ヒーロー令嬢のお仕事! あれから一週間たったし、そろそろまたコンヤ・クゥ・ハッキが動き出す頃じゃないの? 週に一度がお約束だし」

 「たしかに」

 と、『お約束』にはめっぽう弱いほたるはうなずいた。

 「だからさ! 他の国に出向くようなちょうど良いお仕事、できてない?」

 「そうですね」

 ほたるは小首をかしげ、可憐な唇にほっそりした指を当てて考え込んだ。言うべきかどうか、迷っているような表情だった。

 「たしかに『お約束』を破るわけには行きません。週一のペースは死んでも維持するべきでしょう。実は、隣国のシリヲペンペル公国にて、コンヤ・クゥ・ハッキが活動しているという情報をつかんでいるところですし……」

 「それでいい! それで行こう! いやあ、残念だなあ、コンヤ・クゥ・ハッキの悪だくみを粉砕し、罪なき令嬢おとめを守るのはヒーロー令嬢としてのお仕事! お仕事とあらばこのお屋敷をはなれるのは当然だし、あの子たちと関われないのも仕方ないよね、うん!」

 と、かおるは必死にまくし立てる。そんなかおるを前に、メイド姿の少女はいかにも不満そう。

 「……ですが、今回は別に放っておいてもよさそうですし、お嬢さまを愛謝アイシャさまたちににえとして差し出した方が、わたしとしてもおもしろ……いえ、忠実なるメイドとしての責務を果たせるかと」

 「いいから! 早く行こう! お約束は絶対、なんとしても、なにがなんでも守らなくちゃ! いやあ、仕方ないなあ、お仕事だもんねえ。お仕事は大事だもんねえ。さあ、お仕事、お仕事。張りきってまいりましょう!」

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