二章 あたしのおパンツぐらいで……
カリオストロ辺境伯当主、
デュラムスペン領は広大な平原地帯に恵まれたシーホース王国随一の穀倉地帯であるが昨冬の
デュラムスペン領にとっては自らのはらわたをえぐられるような苦渋の決断だが、デュラムスペン産の小麦を買いとる側にとっても災難である。さすがに販売量に限りがある上に、価格が跳ねあがっていたからである。
そこで、カリオストロ辺境伯当主・
カリオストロ領はその領地の多くが森林地帯に覆われており、小麦の栽培には向かない。その反面、豊富な森の幸に恵まれている。その森の恵みとデュラムスペン領の小麦を交換しようというのである。
そうすれば、カリオストロ領は例年通りの値段で例年通りの量の小麦を買いとることができる。デュラムスペン領にとっても豊富な森の幸が手に入れば、領民を餓死させる危険にさらさずに済む。
両者の利益が一致し、その話はとんとん拍子に進んだ。そして、その正式な調印のために
いま、テーブルをはさんで
父親である領主は最近、病気がちということで領主としての仕事を息子に任せ、療養に専念している。今回も、最初に少し挨拶を交わしただけで、あとは
――まあ、実際に好青年だもんね。
細身だが筋肉質の長身。貴族らしい端整な顔立ち。丁寧にセットされた金髪。まっすぐに前を見据える瞳。まだ一〇代の若さであるのに、次期領主というにふさわしい落ちつきと風格。どれをとっても一級品。まるで、少女マンガに出てくるヒーローのよう。
――でなかったら、一流大学のサッカー部のエースって感じね。
「では、
と、署名した文書を手渡しながら微笑んでみせるその仕種がまた女泣かせ。一目、見ただけで心が
――ああ。カッコいい。もし、あたしが本当に一〇代だったら放っておかないんだけどなあ……。
外見年齢一六歳の
「痛い!」
「お仕事中ですよ、お嬢さま。色気はあとにしてください」
「う、うう……。お仕事、お仕事。わ、わかってるわよ」
せっかく、異世界転生して貴族の美少女の体に入り込んだというのに、その本体は根っからの社畜のまま。『お仕事』と言われると反射的に従ってしまうのだった。
「ど、どうかしましたか、
突然のことに驚いた
「い、いえ、なんでもありません……」
「それでは、これで文書の交換も完了しました。契約は正式に交わされましたね」
メイド件秘書の
「ありがとうございます、
「い、いえいえ、とんでもないです。こちらこそ例年通りの量の小麦を確保できて大助かりですから」
「しかし……」
と、
「本当によろしいのですか? このシカ肉の量。これでは、とても等価交換とは言えないと思うのですが……」
「お気遣いなく。実はカリオストロ領では現在、シカが増えすぎて森への食害が広がっているのです。そのために、シカを狩ることを奨励しています。そのシカ肉を引き取っていただけるのですから、こちらとしても大助かりなのです」
「なるほど。そういうことですか」
言われて
「それでしたら、遠慮なく受けとらせていただきます。ですが今後、カリオストロ領でなにかあった場合はご遠慮なくご相談ください。デュラムスペンは決してこのご恩を忘れません。必ず、お力になります」
胸を張ってそう宣言するその姿。そこには高潔なまでの誇りが満ちており、この人物が約束を
その姿に
「はい。そのときはよろしくお願いします」
「お任せください」
「失礼します」
「
「ああ、そうか。もうそんな時間か。それでは、
「はい」
と、
「いいなあ。まさに理想のカップルっていう感じ……」
「そうお思いなら、お嬢さまこそ熱い恋をなされば良いではありませんか。そのお姿であれば、どのような殿方でも射落とせますよ」
「無理むり。いくら、体が
あまりに当たり前に言うので同情するのも忘れて納得してしまう、そんな言い方だった。
なにしろ、おとなしげな少女の外見からは想像もつかないほどの切れ味鋭いツッコみを叩き込むのだ。相手は外見とのその鋭さのギャップに目を白黒。反論する間もなく追い詰められてしまう。そんなときには決まって
「おいおい。あまり厳しく追及するものではないよ」
そうして、相手に好意をもたせておいて、自分たちに有利な交渉を成立させる、と言うわけだ。しかも、それは決して計算ではなく、ふたりの関係から自然に生まれた呼吸らしい。そんなふたりを見て屋敷の使用人たちもほっこりした笑顔を浮かべている。
「いやあ、相変わらずお見事な交渉だ」
「うんうん。シーホース王国きっての実力者であるカリオストロ辺境伯ともうまくやれそうだし」
「小麦の栽培ばかりに取り組んできたことを反省して、新産業の振興にも乗り出されたし」
「あのおふたりが次期ご領主夫妻となられるのだ。我がデュラムスペン領は安泰だな」
上は屋敷の使用人から、下は日々の畑仕事に精を出す農民にいたるまで、誰も彼もが同じ笑顔で同じことを言っている。そのことがまったく大袈裟に思えないのが、
「本当、素敵なカップルよねえ。お互いに愛しあっていて、未来の目標も共有していて……あれこそ、理想のカップルだわ」
片手を頬に添えて首をかしげ、うっとりとそう呟く。
三〇過ぎのいまにいたるまで男と付き合ったことはおろか、手をつないだことすらない干物女だが、それでも一〇代の頃にはロマンスあふれる少女マンガを読んで、まだ見ぬ恋愛に心をときめかせていたのだ。すぐに現実を思い知らされ、ロマンスの欠片もない干物女まっしぐらになったけど。
それでも、若い頃の恋愛への憧れまでが失われているわけではない。
「あんなカップルがいるなら、この世は素敵なところだって信じられるわ。このままずっと幸せに過ごしてほしいものね」
現在の
「はい。ですが……」
「ですが……なに?」
「ごくかすかにですが、
「コンヤ・クゥ・ハッキ⁉
「恐らく」
「ダメ! 絶対ダメ! あんな素敵なカップルの仲を壊そうだなんて……そんなこと許すわけにはいかないわ!
「かしこまりました。ですが……」
「なに?」
「今回はやけに乗り気ですね。いつもなら、ヒーロー令嬢のお仕事はいやがるのに」
「なに言ってるの⁉ あんな気持ちの良いカップルの仲を裂くなんて許せないわ。今回ばかりはあたしも本気よ。なんとしてもコンヤ・クゥ・ハッキの陰謀を阻止するのよ!」
言われて
「……ちっ。お嬢さまの尻を叩くというわたしの楽しみが」
「ん?
小首をかしげる
「いえ、なんでもありません。それより、お嬢さま。本当によろしいのですか? ヒーロー令嬢のお仕事を成されるということは、またまたおパンツ、ドバアッということになりますけど?」
「うっ……」
言われて、
「そ、それがなによ! 三〇代干物女のおパンツぐらいで、一組のカップルが救われるならいくらでも見せつけてやるわ!」
「その意気です、お嬢さま。それでは、この
「うん、頼むわ。
そして、
――ううっ……。やっぱり、やだなあ。
と、自分の発言を後悔しながら。
そのなかを、
「う~ん。今日もよく働いたなあ」
その言葉にケチをつけることのできるものはいないだろう。なにしろ、毎日まいにち日の出前から働きづめなのだ。下手なブラック企業よりよほど厳しい業務実態である。
それでも、やつれることなく生気に満ちているのが
「だけど、心地の良い疲れだ。こうして日々、人々の役に立つ仕事ができる。領主の家に生まれてよかった。つくづくそう思うよ」
「はい。わたしは、いえ、領民すべてが、
「ありがとう、
「はい。愛しています。
そして、ふたりはキスを交わし……そこで、
「いけない! まだ、一カ所、視察先があるのを忘れていました。いまから行ってきますから、
「おいおい、もう今日は夕暮れだ。明日にまわせばいいだろう。第一、これから屋敷で書類仕事なんだし……」
「いいえ! 視察先に向かうのが一日、遅れればそれだけ問題解決も遅れてしまいます。そんなことになれば、領民にどれだけの迷惑がかかるかわかりません。いますぐに行ってきます」
「やれやれ。君は働き過ぎた。そんなことでは体を壊してしまうぞ」
「だいじょうぶです!
「やれやれ。本当に真面目なんだからな。まあ、そこに惚れたんだけど」
と、夕暮れ空を飛ぶカラスたち相手に
「さあ。おれも
そう言って気合いを入れ直す。すると、道行く先に見覚えのある三人の貴族令嬢がいるのが見えた。ひとりがうずくまり、他のふたりが心配そうに囲んでいる。
「あれは……」
その三人は
――おれの大切な
そう思った。とはいえ――。
――誰であろうとデュラムスペン領の領民であるにはちがいない。そして、おれはデュラムスペン領の次期領主。なにがあろうと領民を見捨てることはできない。
その使命感が勝った。
「どうした?」
と、声をかける。
「ああ、
「急に? なにかあったのか?」
ふう、と、
「うっ……」
その息を受けて、
「あらあら。次期領主ともあろうお方がこんなところで眠り込んでしまわれるなんて。きっと、お疲れなのね。わたしたちでしっかり介抱してさしあげなくては。ねえ?」
「ええ」
と、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます