三章 令嬢の涙が流れるとき
「いったい、どうなされてしまったのですか、
デュラムスペン領主の屋敷のなかに
おとなしやかな風貌のなかの大きな目は、いまにも涙がこぼれ落ちそうなほどに潤んでいる。控えめな胸のふくらみに添えられた右手はギュッと握りしめられている。
その
かつての、いや、ほんの数日前までの誰からも愛され、誠実に次期領主としての役職に向きあっていた
「ここ数日は公務もなさらずに、
そもそも『領民が苦しんでいるなかで、貴族だけが贅沢をすることは許されない』と、自ら貴族階級の反対を押しきって倹約令を発布したのは
しかし、
「出過ぎた口をきくな。平民風情の娘が」
「
平民風情の娘。
その言葉はなににもまして衝撃だった。平民の子でありながらその優秀さと真面目さを買われて、デュラムスペン領最高学府であるパスタリア学院に入学することを許された
そんな
――その
そう思い、必死にいましがた聞いたばかりの言葉を否定しようとする
「おれはまちがっていた。平民風情を貴族と同列に扱うなどと。そもそも、貴族制はシーホース王国を支える根幹。優れた血統に、優れた教育を与えることで、国を支える優れた人材を育成する。それが目的。ならば、その貴族のなかに平民風情の血など混ぜるわけにはいかん。そんなことは最初からわかっていて当たり前のことだった。それなのに、おれはそんなことにも気づかずお前を増長させてしまった。まったく、失敗だった。これからは秩序を維持するために貴族と平民の差はより一層はっきりさせる。きさまにも今後は一切、貴族社会に出入りすること許さぬ。平民としての分をわきまえ、平民として暮らすことだ」
それは事実上の絶縁宣言。
そう宣言しているのも同じことだった。そのあまりにも残酷な言葉に、
そんな
「そういうこと。いままで散々、生意気をしてきたけどこれで身の程がわかったでしょう。これからは分をわきまえて平民として暮らすことね」
「そうそう。少しの間だけでも夢が見れてよかったでしょう。それだけでも平民としては分に過ぎた幸せというものだわ」
「
「おお、その通りだ。それこそ次期領主であるおれにしかできない仕事。他のくだらない仕事など他のものどもに任せておけばよい。さあ、
「はい!」
そして、
「いったい、
その囁きは
「本当にいったい、なにがあったのだろう? あんなにも真面目に職務に励んでおられていたというのに、最近ではすっかり仕事を放り出して飲む、打つ、買うの極道三昧」
「しかも、はべらしているのは
「そうだ、そうだ。あの三人は
「そのせいで、すべての職務は
「まさか、あれこそが
「馬鹿な! 演技であんなにも職務に精励できるはずがない。第一、
「だったら、いまの
「それは……」
そう言われてしまえば黙るしかない。
領民たちの誰もが一時の気の迷い、あるいは、なにか深い理由があってのことであり、一日も早くもとの
決定的な破局はついにやってきた。
それは、
『領民たちが小麦の不作に苦しんでいるというのに、貴族だけがのうのうと贅沢にふけるわけにはいかない』と、一切の舞踏会や晩餐会を禁止したのは他ならぬ
そればかりではない。デュラムスペン家の財宝も先祖伝来の品々をのぞいてすべて売り払い、現金にかえ、小麦の不作によって収入を失った農民たちの救済に当ててきた。おかげでいまや領主の屋敷には贅を凝らした美術品の数々も、年代物のテーブルもない。飾り気のなくなったそっけない部屋のなかで、農民とかわらない粗末なテーブルで食事をしている……という状況だというのに。
そしてまた、そんな
よりによって、その
誰もがとまどっていた。
誰もが信じられなかった。
それでも、次期領主自らが開いた舞踏会となれば、出席しないわけにはいかない。誰もがとまどいの思いを抱えながらそれでも、とっておきのドレスや夜会服を身にまとい、出席した。そして――。
領地中の貴族・名士が集まったその場で、
「ようこそ。よくぞ集まってくださった」
両手を広げ、にこやかに――しかし、その笑みはかつてのように誠実なものではなく、内面の卑しさが透けて見えるものだったが――宣言する
その三人の家庭教師としてロングドレスにその身を包んだ
「さて。お集まりのみなさん。実は本日はちょっとした余興をご用意してあります」
笑顔のままそう言う
「あのものをここに!」
もはや、その名を呼ぶのさえ汚らわしい。そう言いたげな口調で『あのもの』と告げると、指示に従ってふたりの衛兵がひとりの少女を連れてきた。
とまどい、怯えてさえいる
「
その宣言に――。
会場中がさわめいた。誰もがいまの出来事が現実だとは信じられなかった。悪い夢のなかに迷い込んでしまった。そんな表情を浮かべている。もちろん、誰よりも衝撃を受けているのは
「
余人に劣らずとまどいの表情を浮かべながら、ひとりの中年男性がやってきた。デュラムスペン領の現領主にして
「
「おお、これは父上」
と、
「実は、
「重大なこと?」
「さようです。
「なっ……」
驚きの声をあげたのは周囲の人間たちであって、
「ば、馬鹿を申すな、
「いいえ、ご領主さま」
妖艶な笑顔を浮かべて一歩、踏み出し、無礼にも現領主たる人物の発言を遮ったのは
「
「証拠だと?」
聞き返す領主の前で、
「これです!」
その叫びと共にドレスを大きく引きさげる。あらわになった胸元。そこにはひとつの紋が刻まれていた。その紋を見た誰もが息を呑んだ。青ざめた。それは確かに伝説に語られる隷従の紋だったからだ。
「あ、あれは……! 人を自らの奴隷にしてしまうという禁断の隷従の紋……!」
「ま、まさか、
「そ、そんな……とても、信じられない」
「そうよ! だって、
「でも、考えてみろ。
「言われてみれば……」
疑惑の念がさざ波のように広がり、列席者たちの心のなかに広がっていく。当時は『あんなにイジめられたのに、自ら寛大な処置を申し入れるとはなんと高潔な』と、賞賛された態度もしかし、疑いの目で見ればいくらでも怪しむことができる。
「と言うわけです、父上」
「
「よって? いかがなさるのです、
妖艶な笑みを浮かべた
「この大罪人を我が手にて処刑する!」
その人は必ず表れる。
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