三章 令嬢の涙が流れるとき

 「いったい、どうなされてしまったのですか、高雅コウガさま⁉」

 デュラムスペン領主の屋敷のなかに結衣ユイの悲痛な叫びが響く。

 おとなしやかな風貌のなかの大きな目は、いまにも涙がこぼれ落ちそうなほどに潤んでいる。控えめな胸のふくらみに添えられた右手はギュッと握りしめられている。白魚しらうおのような指……とは、とても言えない、日々の労働にいそしんできたその指はいま、あまりにも強い力が込められているせいで白くなっている。

 その結衣ユイの目の前にいま、婚約者で次期デュラムスペン領主たる人物、高雅コウガ・デュラムスペンが立っている。しかし――。

 結衣ユイを見る高雅コウガの目。それは、かつてのような穏やかな愛情に満ちた心優しいものではない。露骨な嫌悪感をむき出しにしたその目付き。まるで親の仇を見るかのよう。眉はつりあがり、口元はねじ曲がり、卑しいほどに顔がねじ曲がっている。しかも、そのまわりはきわどいドレスをまとった三人の貴族令嬢、愛謝アイシャ金夢キム望良ノーラが取り巻いている。

 高雅コウガの腕はその三人の令嬢たちの腕や腰にまわされ、いやらしくうごめいている。サワサワとドレス越しに令嬢たちの肌をまさぐっている。その姿、まるで安っぽい宮廷ロマンに出てくる敵役の放蕩王子のよう。

 かつての、いや、ほんの数日前までの誰からも愛され、誠実に次期領主としての役職に向きあっていた高雅コウガの面影はどこにもない。そんな高雅コウガに向かい、結衣ユイは必死に訴えかけた。

 「ここ数日は公務もなさらずに、愛謝アイシャさまたちと遊びに出かけてばかり。いえ、気晴らしが必要なのはわかります。貴族の当主ともなれば愛妾をもつのが普通だということも理解しております。ですが、この冬の旱魃かんばつで小麦が不作。そのせいで財政も逼迫ひっぱくし、領民たちの暮らしも苦しくなっている状況。そのなかで連日連夜、遊びほうけるのは次期領主として……」

 結衣ユイは必死に訴えかける。貴族令嬢のような華やかさはないが、しっとりとしたかわいらしい顔に必死の思いを浮かべて。つい数日前まではまちがっても言う必要などなかったことを。

 そもそも『領民が苦しんでいるなかで、貴族だけが贅沢をすることは許されない』と、自ら貴族階級の反対を押しきって倹約令を発布したのは高雅コウガ本人なのだ。倹約令を発布した当人として、本人自身が貴族令息としての豪奢ごうしゃな衣服をすべて売り払って金にかえ、平民とかわらない飾り気のない服で過ごしていた。そんな高雅コウガが突然、貴族令嬢をはべらして遊び歩くなど……結衣ユイにはとても信じられないことだった。

 しかし、高雅コウガはそんな結衣ユイを嫌悪感のこもった視線で見下している。吐き捨てるように言った。

 「出過ぎた口をきくな。平民風情の娘が」

 「高雅コウガさま⁉」

 平民風情の娘。

 その言葉はなににもまして衝撃だった。平民の子でありながらその優秀さと真面目さを買われて、デュラムスペン領最高学府であるパスタリア学院に入学することを許された結衣ユイ。それでもやはり、周囲からはよく思われず愛謝アイシャたち三人をはじめとする貴族たちにイジめられていた結衣ユイ

 そんな結衣ユイを誰よりもかばい『貴族だの、平民だの、そんなことは気にするな。おれたちは同じパスタリア学院の生徒だ。誰にも遠慮することはない』と微笑みながら励ましてくれたのは他ならぬ高雅コウガ本人だったというのに。

 ――その高雅コウガさまがこんなことをおっしゃるなんて……とても、信じられない。

 そう思い、必死にいましがた聞いたばかりの言葉を否定しようとする結衣ユイの耳に、その思いを無残にも踏みにじるような高雅コウガの声が届いた。

 「おれはまちがっていた。平民風情を貴族と同列に扱うなどと。そもそも、貴族制はシーホース王国を支える根幹。優れた血統に、優れた教育を与えることで、国を支える優れた人材を育成する。それが目的。ならば、その貴族のなかに平民風情の血など混ぜるわけにはいかん。そんなことは最初からわかっていて当たり前のことだった。それなのに、おれはそんなことにも気づかずお前を増長させてしまった。まったく、失敗だった。これからは秩序を維持するために貴族と平民の差はより一層はっきりさせる。きさまにも今後は一切、貴族社会に出入りすること許さぬ。平民としての分をわきまえ、平民として暮らすことだ」

 それは事実上の絶縁宣言。

 結衣ユイを婚約者の地位から放り出し、投げ捨てる。

 そう宣言しているのも同じことだった。そのあまりにも残酷な言葉に、結衣ユイは青ざめた。涙を流すことさえできずにその場に固まっている。

 そんな結衣ユイ愛謝アイシャ金夢キム望良ノーラの三人は勝ち誇った笑みを浮かべながら見下している。

 「そういうこと。いままで散々、生意気をしてきたけどこれで身の程がわかったでしょう。これからは分をわきまえて平民として暮らすことね」

 「そうそう。少しの間だけでも夢が見れてよかったでしょう。それだけでも平民としては分に過ぎた幸せというものだわ」

 「高雅コウガさま。こんな平民女にいつまでもかまっていることはありませんわ。それより、わたしたちと……なにしろ、高雅コウガさまには、次期領主として跡継ぎを儲けられるというなにより大切な職務がおありなのですから」

 望良ノーラに妖しい横目でそう言われて、高雅コウガは破顔した。結衣ユイに向けていた嫌悪感丸出しの表情とはまるでちがう、歓喜と愛情に満ちた笑みだった。

 高雅コウガは改めて三人の令嬢たちの腰に腕をまわし、高らかに宣言した。

 「おお、その通りだ。それこそ次期領主であるおれにしかできない仕事。他のくだらない仕事など他のものどもに任せておけばよい。さあ、今宵こよいも励もうぞ」

 「はい!」

 そして、高雅コウガは三人の令嬢と共に歩き去った。立ちすくむ結衣ユイに対し、ただの一度も振り返ることなく……。


 「いったい、高雅コウガさまはどうなされてしまったのだ?」

 その囁きは結衣ユイだけのものではなかった。上は領主邸の使用人たちから、下は農民たちにいたるまで、誰も彼もが疑問に思い、とまどっていた。あれほど気高く、心優しく、次期領主として職務に精励していた高雅コウガ。その高雅コウガがあんなにも変貌してしまうなんて……。

 「本当にいったい、なにがあったのだろう? あんなにも真面目に職務に励んでおられていたというのに、最近ではすっかり仕事を放り出して飲む、打つ、買うの極道三昧」

 「しかも、はべらしているのは愛謝アイシャたち。パスタリア学院において結衣ユイ嬢をイジめていたとして有名な三人ではないか」

 「そうだ、そうだ。あの三人は高雅コウガさま直々に処罰なされようとした際、結衣ユイ嬢が取りなして不問に処したというのに……いまになって、その結衣ユイ嬢をほっぽり出してあの三人をはべらすなど。まったく、信じられん」

 「そのせいで、すべての職務は結衣ユイ嬢ひとりで処理しているというではないか。かわいそうに、寝る間も惜しんで働いているせいで肌もすっかりボロホロになってしまって……」

 「まさか、あれこそが高雅コウガさまの本性で、いままでのは演技だったのか?」

 「馬鹿な! 演技であんなにも職務に精励できるはずがない。第一、高雅コウガさまは、ほんのお子さまの時代から真面目に勉学に励まれていたのだぞ」

 「だったら、いまの高雅コウガさまのお姿はどう説明するんだ」

 「それは……」

 そう言われてしまえば黙るしかない。高雅コウガのことを信頼するものたちはいまでも圧倒的多数だったが、その異常な変貌振りを説明できないのはどうしようもない。

 領民たちの誰もが一時の気の迷い、あるいは、なにか深い理由があってのことであり、一日も早くもとの高雅コウガに戻ってくれることを願い、息を潜めて日を送るばかりだった。しかし――。

 決定的な破局はついにやってきた。

 それは、高雅コウガ自らが主催した舞踏会でのことだった。これもまた、以前の高雅コウガをよく知るものたちにとっては信じられないことだった。

 『領民たちが小麦の不作に苦しんでいるというのに、貴族だけがのうのうと贅沢にふけるわけにはいかない』と、一切の舞踏会や晩餐会を禁止したのは他ならぬ高雅コウガ本人なのだ。

 そればかりではない。デュラムスペン家の財宝も先祖伝来の品々をのぞいてすべて売り払い、現金にかえ、小麦の不作によって収入を失った農民たちの救済に当ててきた。おかげでいまや領主の屋敷には贅を凝らした美術品の数々も、年代物のテーブルもない。飾り気のなくなったそっけない部屋のなかで、農民とかわらない粗末なテーブルで食事をしている……という状況だというのに。

 そしてまた、そんな高雅コウガだからこそ、不作に苦しむ農民たちも不満ひとつ言わずに『高雅コウガさまと共にこの苦難を乗りきろう!』と励ましあい、明日を信じて働いてきたのだ。それなのに……。

 よりによって、その高雅コウガ本人が諸外国から豪勢きわまる酒と料理、高名な楽団、芸人たちを招き、王都でもかくやと言わんばかりの舞踏会を開くなどとは。

 誰もがとまどっていた。

 誰もが信じられなかった。

 それでも、次期領主自らが開いた舞踏会となれば、出席しないわけにはいかない。誰もがとまどいの思いを抱えながらそれでも、とっておきのドレスや夜会服を身にまとい、出席した。そして――。

 領地中の貴族・名士が集まったその場で、高雅コウガは言ってのけたのだ。

 「ようこそ。よくぞ集まってくださった」

 両手を広げ、にこやかに――しかし、その笑みはかつてのように誠実なものではなく、内面の卑しさが透けて見えるものだったが――宣言する高雅コウガの側にはやはり、愛謝アイシャ金夢キム望良ノーラの三人。そして――。

 その三人の家庭教師としてロングドレスにその身を包んだ那珠香ナスカ・アイボリーゼその人がたたずんでいた。

 「さて。お集まりのみなさん。実は本日はちょっとした余興をご用意してあります」

 笑顔のままそう言う高雅コウガに、その場に集まった人々はますますとまどいを覚えていく。そんなことにはかまわず高雅コウガは衛兵に指示した。

 「あのものをここに!」

 もはや、その名を呼ぶのさえ汚らわしい。そう言いたげな口調で『あのもの』と告げると、指示に従ってふたりの衛兵がひとりの少女を連れてきた。高雅コウガの婚約者である結衣ユイその人だった。

 とまどい、怯えてさえいる結衣ユイを前に高雅コウガはしかし、安心させるための微笑みひとつ向けようとはしない。愛謝アイシャたち三人の腰に腕をまわしながらさげすみの視線を投げかける。

 高雅コウガは高らかに宣言した。

 「結衣ユイ! きさまとの婚約をいま、この場にて、正式に破棄する!」

 その宣言に――。

 会場中がさわめいた。誰もがいまの出来事が現実だとは信じられなかった。悪い夢のなかに迷い込んでしまった。そんな表情を浮かべている。もちろん、誰よりも衝撃を受けているのは結衣ユイ本人。派手ではないが慎ましい美しさをもった顔をこわばらせ、呆然と立ち尽くしている。

 「高雅コウガ。これはいったい、どういうことなのだ?」

 余人に劣らずとまどいの表情を浮かべながら、ひとりの中年男性がやってきた。デュラムスペン領の現領主にして高雅コウガの父である。病気がちの身であることから領主の仕事は高雅コウガに任せ、安心して早めの隠居生活を送っていた現領主であるが、最近の息子の変貌ぷりにとまどい、この場にやってきた。その矢先のことだった。

 「高雅コウガよ。お前はあれほど結衣ユイ嬢のことを愛していたではないか。それなのになぜ、いまになってそのようなことを言うのだ?」

 「おお、これは父上」

 と、高雅コウガは両腕を広げて父を出迎えた。外面ばかりは父に敬意を表すかのように微笑んでいるがその実、相手を見下し、邪魔者扱いしているのが一目でわかる表情だった。

 「実は、結衣ユイに対し、重大なことが判明したのですよ」

 「重大なこと?」

 「さようです。結衣ユイいにしえの呪術によっていたいけな貴族令嬢たちをあやつり、自分に対する悪事を成さしめた。自分を被害者として偽り、私に取り入り、次期領主の妻という立場を手に入れるために!」

 「なっ……」

 驚きの声をあげたのは周囲の人間たちであって、結衣ユイではなかった。結衣ユイは驚きのあまり声も出せない。ただただ、愛らしい顔を青ざめさせて立ち尽くしているばかりだ。

 「ば、馬鹿を申すな、高雅コウガよ! そんなはずはあるまい。結衣ユイ嬢のことは私も、いや、この場にいる誰もがよく知っている。真面目で優しい、すばらしい女性ではないか。その結衣ユイ嬢が、そのような恐ろしいことを成すわけが……」

 「いいえ、ご領主さま」

 妖艶な笑顔を浮かべて一歩、踏み出し、無礼にも現領主たる人物の発言を遮ったのは那珠香ナスカ・アイボリーゼその人だった。

 「結衣ユイ嬢の悪行に関しては、明らかな証拠があります」

 「証拠だと?」

 聞き返す領主の前で、那珠香ナスカ愛謝アイシャたち三人のドレスに手をかけた。

 「これです!」

 その叫びと共にドレスを大きく引きさげる。あらわになった胸元。そこにはひとつの紋が刻まれていた。その紋を見た誰もが息を呑んだ。青ざめた。それは確かに伝説に語られる隷従の紋だったからだ。

 「あ、あれは……! 人を自らの奴隷にしてしまうという禁断の隷従の紋……!」

 「ま、まさか、結衣ユイ嬢が本当に……?」

 「そ、そんな……とても、信じられない」

 「そうよ! だって、結衣ユイ嬢はあんなに……」

 「でも、考えてみろ。結衣ユイはあんなにも自分をイジめた愛謝アイシャたちをあえてかばったんだぞ。おかしいと思わないか?」

 「言われてみれば……」

 疑惑の念がさざ波のように広がり、列席者たちの心のなかに広がっていく。当時は『あんなにイジめられたのに、自ら寛大な処置を申し入れるとはなんと高潔な』と、賞賛された態度もしかし、疑いの目で見ればいくらでも怪しむことができる。

 「と言うわけです、父上」

 高雅コウガが勝ち誇った表情で言った。

 「結衣ユイの罪状はもはや明らか。よって……」

 「よって? いかがなさるのです、高雅コウガさま?」

 妖艶な笑みを浮かべた那珠香ナスカが尋ねる。

 高雅コウガは一切の迷いなく宣言した。

 「この大罪人を我が手にて処刑する!」

 高雅コウガが叫びと共に一振りのナイフを取り出した。振りかぶり、結衣ユイめがけて思いきり振りおろした。その瞬間、こわばりきった結衣ユイの顔から一筋の涙が流れ落ちた。令嬢おとめの涙が流れるとき――。

 その人は必ず表れる。

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