唸れ、悪役令嬢!

一章 早くヒロインになりたい!

 「コンヤ・クゥ・ハッキー!」

 「ハッキー!」

 大首領の呼びかけに、二列にわかれた戦闘員たちが片手をあげて唱和する。

 そこは、決して人の目につくことのない深く、暗い地下宮殿。四方の壁におぞましい邪神像が彫り込まれたその一室で、今宵こよいもまた世界最大の邪悪がうごめいていた。

 コンヤ・クゥ・ハッキ。

 それは、婚約破棄を世界に広めることで人と人の信頼の絆を破壊し、その混乱に乗じて世界征服を成し遂げようとする恐るべき悪の軍団。究極の堕落。腐敗の権化。邪悪というのも生温い真なる悪鬼たちの群れ。

 決して、日の光の差すことのない暗闇のなか、戦闘員たちが手にもつ蝋燭ろうそくの炎だけが唯一の灯り。その揺らめくほのかな灯りがあることでより一層、闇が深まっている。

 その深いふかい暗闇のなか、薄い布にシルエットだけを映した大首領と、二列に並んだ戦闘員たちとが今宵こよいもまた、令嬢おとめの笑顔を血の涙にかえるべく、恐ろしくもおぞましい陰謀を巡らせている。

 そのなかに、ひとりの人物が姿を表した。ピンと背筋を伸ばし、堂々と顔をあげ、律動的な歩調でまっすぐに歩いていく。戦闘員たちが両脇に並び立つ深紅の絨毯じゅうたんの敷かれた道を進み、大首領の眼前まで歩を進める。

 それは、どう見ても人間だった。それも、女性。四〇代とおぼしき上品で、風格のある貴婦人。女性らしくふくよかで、丸みを帯びた体つき。涼しげな目元。格式と品性を感じさせる立ち振る舞い。まさに、品良く歳をとった最上流階級の婦人の見本。

 そう思える女性だった。

 ――こんな女性がどうして、こんなところに?

 見るものがあれば、誰もがそう思ったにちがいない。

 その貴婦人は、大首領から一定の距離で立ちどまった。膝をつき、優美に一礼した。そんな姿も貴婦人らしく品格に満ち、美しい。

 そう思ったのもつかの間。その姿はたちまちぼやけ、変貌し、その真の姿を表した。

 そこにいたのは一体のコボルト。オオカミの顔と毛むくじゃらの体をもち、二本足で歩く獣人。ケダモノの体を猫背に曲げて、そそり立つ男性器をむき出しにした雄コボルトだった。

 そのオオカミの顔は、本物のオオカミのもつ野性の威厳、品格、美しさ。それらすべてをかなぐり捨てて、物語のなかに出てくる邪悪で卑劣なオオカミの卑しさ、醜さ、そして、ズル賢さだけを『これでもか!』とばかりに詰め込んだかのよう。浅ましく、醜悪で、大きな牙の並んだ口からブツブツと泡を立てるよだれが垂れおちる様のいやらしさと言ったら、この世に例えるものとてないほどだった。

 「戻ったか。群魔ぐんまOZオーゼット

 「はっ!」

 大首領の呼びかけに『群魔ぐんまOZオーゼット』と呼ばれた雄コボルトは声をあげた。

 「大首領のお力をもちましてこの群魔ぐんまOZオーゼット。貴婦人、那珠香ナスカ・アイボリーゼとなって、シーホース王国デュラムスペン領に侵入することに成功いたしました」

 「よろしい。計画は進んでおるか?」

 「はっ。万事、順調にございます。すでに三人の手駒を確保いたしております。三人ともわたくしを、いえ、那珠香ナスカ・アイボリーゼを自分たちの救い主と信じ、盲信しきっております。いつでも、デュラムスペン領の跡取り、高雅コウガ・デュラムスペンに対する婚約破棄を仕掛けることができます」

 「よろしい」

 大首領のシルエットがうなずいた。満足げに胸を反らす気配が薄布の向こうから伝わってくる。

 「婚約こんやく破人はじん自らが婚約破棄を行ったところで、実行できる数はたかが知れている。それよりも、人間の雌どもをあやつり、婚約破棄を行わせる。その方がはるかに多くの婚約破棄を実現でき、人間どもの信頼の絆を破壊し、社会に混乱をもたらすことができる。それが、そなたの計画であったな」

 「その通りにございます。大首領。このわたくし、群魔ぐんまOZオーゼットは図体ばかりが取り柄の狂闘きょうとうXXダブルエックスとはちがいます。我が知略をもって必ずや、人間の世界に婚約破棄の嵐を吹きあらさせてご覧に入れます」

 「うむ。期待しておるぞ。群魔ぐんまOZオーゼット

 「ははあっ! ありがたきお言葉。この群魔ぐんまOZオーゼット、必ずや計画を成し遂げてみせますぞ」

 大首領の信認の言葉に――。

 醜く、浅ましいばかりの姿の雄コボルトは深々とこうべれた。そして、決意の表情とともに立ちあがった。その姿はたちまち変貌する。浅ましい雄コボルトから美しく、上品な人間の貴婦人、那珠香ナスカ・アイボリーゼへと。

 そして、那珠香ナスカ・アイボリーゼは颯爽さっそうと身をひるがえし、その場をあとにした。

 人の世に、かつてない婚約破棄の嵐を吹きあらさせるために。


 シーホース王国デュラムスペン領。

 大陸最大最強を誇るシーホース王国のなかでも広大な平原地帯を有し、王国随一の穀倉地帯として知られる領地。王国が消費する小麦の七割までも生産すると言われるその領地の片隅に、その屋敷はあった。

 人里離れた場所にありながらその大きさといい、風格といい、立派に貴族の屋敷として通用するだけの建物。その屋敷のあるじを見れば誰もがそのことに納得するだろう。この屋敷こそは品格と格式をあわせもつ貴婦人、那珠香ナスカ・アイボリーゼの屋敷なのだから。

 その那珠香ナスカの屋敷の客間。広く、天井が高く、足首まで埋もれるほど厚みのある絨毯じゅうたんの敷かれたその部屋に、三人の令嬢が集まっていた。

 いずれも若い。まだ一〇代半ばから後半と言ったところ。客間の席に着き、湯気を立てる紅茶のカップを前に静かに時を過ごすその姿。そこにも、付け焼き刃ではない本物の気品が感じられる。

 それも当然。この場にいる三人はいずれも正真正銘の貴族の令嬢たちだったのだから。

 愛謝アイシャ・スカーレット。

 金夢キム・グレインステッド。

 望良ノーラ・ブルーハット。

 いずれもデュラムスペン領の最高学府、パスタリア学院の生徒たち。そして――。

 デュラムスペン領主の息子、現領主の跡継ぎたる高雅コウガ・デュラムスペンとその婚約者である結衣ユイの同級生たちだった。

 しかし、その立場は、かのたちにとって誇りなどではなく、心の奥底まで突き刺さって抜けることのない棘に過ぎなかった。なぜなら、かのたちは……。

 カチャリ、と、静かで品のいい音を立てて客間のドアノブがまわった。

 三人の令嬢は一斉に立ちあがった。デュラスペン領でも屈指の家柄である三人の令嬢。その三人がまるで主人の訪れを察知した侍女のように一斉に立ちあがったのだ。敬意と緊張に満ちたその表情もまた、主人を迎える侍女のそれだった。

 三人もの貴族令嬢にそんな態度をとらせる。

 いったい、ドアを開けてやってくるのはいかなる人物なのか。

 そう思ったものがいたとしても予想が外れることはなかっただろう。表れたのはこの屋敷のあるじ那珠香ナスカ・アイボリーゼその人だったのだから。

 「待たせましたね」

 那珠香ナスカは言った。声といい、口調といい、完璧に生まれついての貴婦人のそれ。その正体が浅ましい雄コボルトだなどと見抜けるものはこの世にいないだろう。そう。『例のあの人』をのぞいたなら。

 「那珠香ナスカさま」

 愛謝アイシャ・スカーレットが一同を代表して声をあげた。三人ともドレスの裾をつまみ、貴族令嬢らしい見事なカーテシーを披露する。その振る舞いに那珠香ナスカは満足げに微笑んだ。

 「けっこう。見事な礼法を身につけましたね」

 そう言って微笑む姿はまさに貴族令嬢の家庭教師。令嬢たちに知性と教養を与えるべく厳しくも優しく接する女教師そのものの姿だった。

 「すべては、那珠香ナスカさまのおかげです」

 愛謝アイシャはつづけた。

 その瞳にはしかし、令嬢というにはあまりにも暗く、深い怒りが満ちていた。

 「いいえ。あなたたち自身の努力の成果ですよ」

 那珠香ナスカはそう言って――表面ばかりは――優しく微笑んだ。

 「もう、あなたたちに教えることはなにもありません。いまのあなたたちであればどのような男であれ、心を奪い、とろけさせるなどたやすいこと。その手練てれん手管てくだを用い、今度こそ、高雅コウガ・デュラムスペンを籠絡ろうらくするのです」

 「はい!」

 愛謝アイシャ

 金夢キム

 望良ノーラ

 三人のうら若き貴族令嬢はそろって声をあげた。それはまさに、人生を懸けた勝負に挑むアスリートたちが、コーチの激励に応える姿そのもの。なんとも、さわやかで、応援したくなる姿だった。これから成そうとしていることさえ考えなければ、の話だが。

 那珠香ナスカは三人の令嬢たちの答えに満足すると、ひとつうなずいて、客間をあとにした。

 残された貴族令嬢たちは互いの顔を見合わせた。

 愛謝アイシャが一同を代表するように口を開いた。

 「……ふたりとも。ついに、このときが来たわ」

 その言葉に、金夢キムがうなずいた。

 「……ええ。その通りよ。ついに、わたしたちの暗い定めを覆すときが来たのだわ」

 望良ノーラも拳を握りしめながら言った。

 「なんとしても、成功させましょう。そうでなければ、わたしたちの人生はあまりにも惨めすぎるわ」

 「その通りよ」

 望良ノーラの言葉に、愛謝アイシャは決意を込めてうなずいた。

 「わたしたちはいずれも、もともとはこの世界の人間じゃない。現代日本で慎ましく、平穏に暮らしていたというのに、若くしてトラックにひかれて死亡し、この世界に転生した身。それも、デュラムスペン領の跡継ぎたる高雅コウガ・デュラムスペンさまの婚約者である結衣ユイをイジめる学友、すなわち、悪役令嬢として」

 「ええ。その通りよ。そもそも、パスタリア学院は上級貴族しか入学すること許されないデュラムスペン領の最高学府。そこに、平民の身でありながら、あの結衣ユイが天才的な頭脳と真面目な性格とを買われて、特別に入学してきた。結衣ユイは入学当初から貴族に囲まれて右も左もわからず、困惑するばかり。貴族は貴族で平民風情が自分たちの学院にいることが気に入らず、除け者にした」

 「そんなありさまを見かねて、救いの手を差し伸べたのが高雅コウガさま」

 と、望良ノーラ金夢キムの言葉を引き継いだ。

 「高雅コウガさまは決して結衣ユイの側をはなれず、あれこれと世話をした。そのうちにふたりは恋仲となり、婚約するまでになった。わたしたちはそれが許せなかった。平民出の娘が時期領主と結婚し、わたしたちの上位に立つことが。だから、わたしたちは結衣ユイをイジめ抜いた。それは、たしか。でも! それは決して、わたしたちのやったことじゃない! その頃のわたしたちはまだ前世の、いまの記憶に目覚めてはいなかった!」

 「そう。わたしたちが前世の記憶に目覚めたのは高雅コウガさまの怒りにふれ、追放処分を受ける裁判の、まさにその場においてだった。もうすべてが手遅れ。前世の記憶に目覚めたからといって、どうすることもできず……。結局、追放処分は免れたわけだけど」

 愛謝アイシャがくやしさを込めて言うと、金夢キムが自嘲気味に笑って見せた。

 「それも滑稽こっけいだったわね。よりによって、わたしたちがイジめ抜いた当の結衣ユイにかばわれてのことだったんだから。『パスタリア学院の伝統を壊したわたしが嫌われるのは当然。どうか、寛大なご処置を……』なんて、本当に腹の立ついい子振りだったわ」

 さらに、望良ノーラも言った。

 「あれがいっそのこと、高雅コウガさまの心を奪うための演技だったらよかったのにね。本心からの言葉だって言うんだからなおさら、頭にくるわ。結局、その一幕で結衣ユイの株はさらにあがり、周囲から大絶賛。高雅コウガさまもますます惚れ込む始末。なのに、わたしたちは……」

 望良ノーラは自嘲するように、吐き捨てるように笑みをもらした。

 「『あんなすばらしい女性をイジめるとは……』なんて、毒虫扱い。率先して結衣ユイをイジめていた他の貴族たちからすら嫌われて。追放は免れたとはいえ、わたしたちにはもうシーホース王国での居場所なんてない。まともな婚姻なんてとても望めず、陰に追われて生きるだけ」

 「なんて理不尽なの!」

 愛謝アイシャが貴族令嬢にあるまじき粗暴さで、絨毯じゅうたんの敷き詰められた床を蹴りつけた。

 「いまのわたしたちにとって、前世の記憶に目覚める前の人格も、人生も、すべて他人のもの。それなのに、結衣ユイをイジめた罪だけは背負わされる。前世においては若くして事故で死に、転生したあとも他人の踏み台になって人生を失うなんて……」

 「そうよ、そんなの許せないわ!」

 金夢キムが拳を握りしめながら叫んだ。

 「だけど、国中から嫌われ、『悪役令嬢』の烙印を押されたわたしたちには、もうどうすることもできなかった。そんななかで、那珠香ナスカさまだけはわたしたちに手を差し伸べてくれた。高雅コウガさまをあやつり、人生大逆転のチャンスをくれた」

 「ええ。そうよ、その通り。いまのわたしたちには高雅コウガさまをあやつる力がある。那珠香ナスカさまの与えてくださったこの力を使い、なんとしても幸せをつかむのよ。ヒロインの座はわたしたちのものよ!」

 望良ノーラの言葉に、愛謝アイシャは腕を突きあげて叫んだ。

 「その通り! わたしたちに、もはや引き返す道はない! 高雅コウガさまをあやつってでもヒロインの座を手に入れるか、さもなければ、このまま悪役令嬢として一生、日の当たらない道を歩み、さびしく歳老いていくか……。その二者択一なら選択の余地はない。悪の道を究め、幸せをつかむ! 唸れ、悪役令嬢!」

 おおっー、と、金夢キム望良ノーラがそろって腕を突きあげ、ときの声をあげた。

 その途端、客間が暗闇に閉ざされ、幾筋かのスポットライトが三人の令嬢を照らし出す。どこからともなく鳴りひびく音楽に乗り、三人の令嬢は声をそろえて唄いだした。


 陰に追われて生きる

 おれたちゃ悪役令嬢なのさ

 決して幸せ得られない

 踏み台のようなこの人生

 「早くヒロインになりたい!」

 暗いさだめを吹き飛ばせ

 愛! 金! 欲望!

 悪役令嬢

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る