三章 あの方さえ……!

 シーホース王国の王宮はいま、あるうわさで持ちきりだった。

 ――おい、聞いたか?

 ――ああ。あの馬鹿王子だろう? なんでも、最近は婚約者である笑美えいみ嬢のことはほったらかしで、なんとかいう女にべったりだそうじゃないか。

 ――黒愛くろあ・クロッカスとかいう女だったな。

 ――いったい、何者なんだ?

 ――それが、わからない。どこかの国の貴族令嬢らしいんだが、どの国の人間に聞いても見たことも、聞いたこともないと言っているし……。

 ――まあ、でも、たしかにとびきりの美女だし、色気もあるからな。若い男が夢中になるのはわからなくもないが……。

 ――それにしたって、馬鹿すぎるだろう。笑美えいみ嬢に婿入りすることで王族から臣下へ格下げされるのが決まっているっていうのに。そのとき、自分の立場を守ってくれるのは笑美えいみ嬢だけなんだぞ。その笑美えいみ嬢をないがしろにするなんて。

 ――まったくだ。いくらなんでもあそこまでおろかとは思わなかった。

 ――いや、それ以前に人間としてどうなんだ。いままでずっと、自分のやりたくないこと、面倒なことはすべて笑美えいみ嬢に押しつけてのらくらとして生きてきたんだ。その笑美えいみ嬢に礼儀を尽くさないなんて恩知らずにもほどがあるぞ。

 毎日まいにち、貴族や名士、果ては大臣や将軍といった高官たちの口からもそんな言葉が放たれていた。

 とうの第三王子・光流ひかるは、その言葉が聞こえているのかいないのか、正体不明の妖艶ようえんな女性、黒愛くろあ・クロッカスにぞっこんだった。

 どこに行くにも黒愛くろあと一緒。もちろん、夜も同じ部屋。ちょっと前まであんなにも頼り――利用し――しがみついていた笑美えいみ・ローズミント公爵令嬢のことなどすっかり忘れたかのような振る舞い。王宮内の庭園でも、舞踏会の席上でも、人々の目につくのは黒愛くろあを脇にはべらした姿ばかり。笑美えいみ光流ひかるから無視されてポツンとひとり、壁の花として立ちつくしているばかり。

 その姿を見かねた貴族の若君たちがダンスに誘っても、

 「自分は光流ひかるさまの婚約者ですから」

 かたくなにそう言いはって、決して誘いに乗ろうとしない。その健気けなげな姿は、ますます王宮の人々の同情を引いたのだった。

 そして、その日、決定的な破局は起こった。

 舞台は光流ひかる自らが主催した舞踏会。出席した誰もが不吉な予感を抱いてはいた。なにしろ、これまでずっと黒愛くろあにべったりで、笑美えいみのことを無視してきた光流ひかるが、今回に限ってはわざわざ『必ず出席するように』との通達を、笑美えいみに対して行ったというのだ。

 ――いよいよ、アレか?

 と、誰もが不吉な予感を抱くのが当然だった。

 そして、その予感は当たった。舞踏会の席上。多くの貴族名士が連なり、諸外国の大使も招待されたその席上。そこで、黒愛くろあ・クロッカスをまるで正妻でもあるかのように横にはべらしたひかるが、笑美えいみに向かって言ったのだ。

 「笑美えいみ・ローズミント! お前との婚約を破棄する!」

 その声を聞いたとき――。

 その場にいる誰もが驚きではなく、納得をもって向かえていた。笑美えいみ・ローズミントその人さえも。

 ――そう。わかっていた。このときがくることは。光流ひかるさまの黒愛くろあさまへの溺愛できあいりを見ていれば。

 そのことから必死に目をそらし、自分と結婚して王族としての、貴族としての使命に目覚めてくれるときが来る。

 そう信じていた。

 いや、信じ込もうとしてきたのだ。

 ――なんて、おろかだったんだろう。

 そう思う。きちんと現実と向き合ってさえいれば、そんな日は決してやってこないとわかっていたはずなのに。

 笑美えいみは必死に流れそうになる涙をこらえていた。しかし、それは決して悲しみの涙ではない。くやしさの涙、情けなさの涙だった。

 ――光流ひかるさまが王族にも貴族にもふさわしくないことはわかっていた。それでも、光流ひかるさまはまだお若い。これから先、成長なされればきっと……。そう思っていた。そして、その成長をうながすのが年上の幼馴染みであり、婚約者であるわたしの役目。そう思い、努力してきた。それなのに、こんな結果になるなんて……。

 くやしくて、情けなくて、涙があふれそうになる。それでも、必死に涙をこらえる。

 ――涙なんて見せてやるものか。

 尽くしつづけた婚約者から捨てられた公爵令嬢の最後の意地だった。

 「……わかりました」

 笑美えいみは堂々と顔をあげて、言った。いまにも涙があふれ出しそうになる目を大きく見開いて。その視線の先には愛らしい顔立ちにニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる光流ひかると、勝ち誇った笑みを浮かべて妻のごとくよりそう黒愛くろあ・クロッカスの姿があった。

 「では、光流ひかるさまはそちらにおられる黒愛くろあさまとご結婚なされるのですね?」

 「そうだ。僕はこの黒愛くろあと出会うことで真実の愛を知った。黒愛くろあはすばらしい。僕の言うことはなんでも聞いてくれる。僕の望みはなんでも満たしてくれる。それも、お前みたいにいちいち口うるさい小言を言うこともなくだ。この黒愛くろあこそ理想の妻だ」

 臆面おくめんもなくそう言い放つ光流ひかるに――。

 ――なんだ、それは。我儘わがままにもほどがあるぞ!

 という、居並ぶ貴族名士たちからの無言の怒りの波がわき起こった。もし、『第三王子』という身分がなければ、この場にいる男たちがよってたかって光流ひかるを取りかこみ、殴りとばしていたところだ。

 ――だが、まあ、ものは考えようだ。これで笑美えいみ嬢もあの馬鹿王子から解放されたわけだし。

 ――その通りだ。これで、笑美えいみ嬢もご自分にふさわしい相手と結ばれることができるだろう。あんな馬鹿王子じゃなくてな。

 ――と、言うことは、おれにも笑美えいみ嬢と結婚するチャンスが……!

 居並ぶ貴族の若君たちの間にそんなざわめきが起きはじめた。しかし――。

 そのざわめきを一気に押しつぶすかのように、光流ひかるはとんでもないことを言い出した。

 「ついては、笑美えいみ・ローズミント。お前を最果ての地、ヨグ・トウルフへと追放する」

 「なっ……⁉」

 笑美えいみもさすがに絶句した。笑美えいみだけではない。その場にいる全員が『信じられない!』という思いに目と口をいっぱいに開けていた。

 表情を失う笑美えいみ

 見下す光流ひかる

 勝ちほこる黒愛くろあ

 そんな三人が作りあげる三角形。そのなかにひとりの若い将軍がたまらずに割って入っていった。

 「おまちください、殿下! 最果ての地ヨグ・トウルフと言えば、人ならざるものの住まう禁断の地! 最大級の罪人に苦しみの果てに死を与えるための流刑地。そんなところに公爵令嬢を送り込むなど……」

 「だまれ! この女は身分もわきまえず、事あるごとに僕に注意をたれ、小言を言い、僕の自由を踏みつぶしてきた。そのような横暴な振る舞いを最大級の罪と言わずになんと言うのだ⁉」

 「し、しかし……! 笑美えいみ嬢はこれまでずっと殿下のお側にあり、殿下にお仕えしてまいったのですぞ。その恩を忘れ、最果ての地に送り込むなど、非道にもほどがあります。そのようなことで国を保っていけるとでも……」

 「そもそも、公爵令嬢たるお方を追放するなど、いかに王子殿下とはいえ、独断でそのようなことを決定する権限はありませんぞ!」

 大臣が、貴族の若君たちが、口々にそうつめより、翻意ほんいさせようとする。

 いかに国中に知られた馬鹿王子、それも、臣下への格下げが決定しているとはいえ、王子は王子。その王子に向かって、かくも堂々と異議を唱える。『王国の序列』というものをわきまえる人間であれば、それがどれだけ途方もない勇気――あるいは、無謀さ――を必要とする行為かはわかっている。

 それなのに、何人もの人間がたまらず、飛び出し、口出しした。

 それは、この第三王子がいかに日頃から人々にきらわれているかを示すことだった。

 しかし、それらの声に対し、第三王子ははっきりと言った。

 「だまれ! 僕は王子だ! この国の人間をどうしようが僕の勝手だ! 衛兵! 即刻、その女を捕えてヨグ・トウルフへ送り込め!」

 光流ひかるの声に応じ、何人もの槍を構えた衛兵たちがバラバラと駆けつけ、笑美えいみのまわりを取り囲んだ。この場にいる誰かひとりでも気がついただろうか。その衛兵たちうち、誰ひとりとして見知った顔がないことに。

 ポロリ、と、ついにこらえにこらえてきた涙が一粒、笑美えいみの目からこぼれた。

 ――なんと情けない。こんな身勝手で幼稚ようちな人間に期待をかけ、支えようとしてきただなんて。これはわたしへの罰。現実を認めようとせず、幻想の世界に逃げていた浅はかな女に与えられた罰なんだわ。

 その思いとともに真珠の涙が公爵令嬢の白皙はくせきほおを流れ、床に当たって砕けて散った。

 ――ああ! こんなとき、あの方さえいらしてくだされば……!

 その場にいる令嬢全員がそう思った。そして――。

 その人はやってきた。

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