二章 公爵令嬢・笑美

 異変はシーホース王国第三王子、光流ひかるの一五歳の誕生パーティーの席上で起きた。

 国内外の要人たちからの祝辞しゅくじを受けていた光流ひかるが突然、列を成す要人たちを前に席を立ち、その場から立ち去ろうとしたのだ。

 祝辞しゅくじを述べた要人たちは二割ほど。まだまだ何十人という要人たちが列に並び、祝辞しゅくじを述べる順番をまっているというのにそのさなか、主役であるひかるが突然、場を去ろうとしたのだ。列に並ぶ要人たちにも、周囲に控える大臣たちにも一言の挨拶もないままに。

 王族とは思えないその軽率な態度に、さすがに場がざわめいた。しかし――。

 『信じられない』というどよめきはどこにもない。むしろ、納得したような空気が漂っていた。その空気は、光流ひかるのこんな態度は『いつものこと』だと言うことを告げていた。

 ――やれやれ。まただよ、あの馬鹿王子は。

 光流ひかるのことをよく知る国内の貴族名士たちの間に、そんな囁き声が流れた。

 ――今日で一五歳になるっていうのに、いまだに政務のひとつも習わず、軍務に就いたこともない。上のおふたりは一五になる頃にはすでに出征の経験もあったし、大臣たちについて政務について学ばれてもいた。三〇を過ぎたいまでは、おふたりとも『準国王』と言っても差し支えのない働きぶりだ。それなのに、どうして、三番目だけがああなんだ。

 ――まったくだ。王族としての立場も責任もわきまえず、権威だけをかさにかかってやりたい放題。そのくせ、愛人だけは何人も囲っているって言うじゃないか。まだ子どものくせに。

 ――でもまあ、第三王子でよかったよ。あんなのが第一王子だったら目も当てられない。

 ――それもそうだ。どうせ、ローズミント公爵家への婿入りが決まっていて、結婚と同時に臣下に格下げされる身だしな。王家の名を汚すこともないだろうよ。このまま女にうつつを抜かして放蕩ほうとう息子むすことして暮らしていればいいさ。

 ――たしかにな。本人もその待遇たいぐうで満足しているようだし、下手に出しゃばって迷惑をまき散らされるよりはマシだな。

 そんなわらいものにする声が、人の耳には聞こえないさざ波のように会場全体に広がっている。

 誰もが光流ひかるわらっている。

 誰もが光流ひかるあなどっている。

 王族としてあるまじき、礼儀をわきまえない態度を見ても誰もとがめようとしない。とめようとさえしない。最初からなんの期待もしていないからだ。ただひとり、愛らしい藤色のドレスをまとった『少女』と言ってもいい年頃の令嬢だけが例外だった。

 笑美えいみ・ローズミント。光流ひかるの二歳年上の幼馴染みであり、婚約者でもあるかのはあわてて年下の婚約者のあとを追った。

 「光流ひかるさま! どうなさったのです⁉ 祝辞しゅくじを述べるために集まられた方々はまだあんなに大勢、残っているのですよ⁉」

 「飽きた」

 「飽きたって……」

 躊躇ちゅうちょというものをまったく感じさせない光流ひかるの返答に、さすがに笑美えいみは絶句した。

 「なにをおっしゃっておられるのですか、光流ひかるさま⁉ 誕生日の祝辞しゅくじを受けることは、王族にとってれっきとした公務。国内の貴族要人と良好な関係を保ち、各国の代表と語らうことで国同士の絆を深める。れっきとした外交の場なのですよ。その重要な職務を『飽きた』などと言って放り出すなど……」

 「外交なんて、そんな面倒なことはしたくないんだ。もう一〇人は相手したじゃないか。聞きたくもないおべっかを我慢して聞いてあげたんだよ。もう充分だろう。そろそろ、僕を解放してよ。あとのことはいつも通り、君が適当にやっておいてよ」

 「だ、駄目です! これは、王子殿下としての光流ひかるさまの職務です。それを、他のものに押しつけるなんて……」

 笑美えいみは必死にそう訴えかけた。

 二歳年上の幼馴染みであり、婚約者である笑美えいみのその言葉に――。

 光流ひかるはニッコリと微笑んだ。そこだけは『王子』という身分にふさわしい気品ある顔立ち。おとなになりきっていない少年特有の愛らしい表情。そんな光流ひかるがこうしてニッコリと微笑むと、どんな堅牢けんろうな女心もたちまちにとろかされてしまう、なんとも言えないかわいらしさがある。

 ――だ、だめよ、笑美えいみ! ごまかされちゃだめ! 子どもの頃からずっとこうだったじゃない。光流ひかるさまのこの笑顔で見つめられて、なにも言えずに好きなようにさせてしまい……そのせいで、光流ひかるさまはなんでも自分の思い通りになると思い込んでしまった。でも、光流ひかるさまだってもう子どもじゃない。これからは、ひとりの人間として、王族として、ご自分に責任をもたれなくてはいけない。未来の妻として、わたしが光流ひかるさまを支えなくては……。

 笑美えいみはそう思い、必死に自分に言い聞かせる。それでも――。

 光流ひかるの愛らしい顔で優しげな微笑を向けられると、どうしてもその決意も揺らいでしまう。火の側のバターのようにトロトロにとろけさり、流れ出してしまうのだ。

 「ねえ」

 と、光流ひかるささやくように言いながら笑美えいみの手を自分の両手で包んだ。

 女性である笑美えいみよりもなお白く、なめらかな手。それは、光流ひかるがこれまで一度だってその手を使った作業をしてこなかったことを告げていた。

 それこそ、光流ひかるが自分の手を使うのは、食事のときと女を相手にするときぐらい。政務のためにペンを握ったこともなければ、武器のひとつも扱ったことはないのだ。

 その手がいま、笑美えいみの手を包んでいる。貴族令嬢として日々の政務のためにペンをとり、また、第三王子の妻として、いざとなれば夫の身を守って戦えるよう短剣の扱いを鍛えている手を。

 光流ひかるは女心を根底からトロトロに溶かすような笑顔を浮かべて言った。

 「お願いだよ、笑美えいみ。君も知っての通り、僕はかわいそうな身の上なんだ。父上がお年を召してから女官に手をつけて生ませた子どもだということで、宮廷のどこにも居場所なんてなかった。ふたりの兄上からはいつだって、邪魔者扱いされてきたんだ。大臣や将軍たちは、いつだって僕のことを歳のはなれたふたりの兄と比べて陰口をたたいている。父上でさえ僕を邪険にして、君に婿入りさせることで王族から排除してしまおうとしているんだよ。僕は実の父からも見捨てられたかわいそうな子供なんだ。そんな僕がただひとり、頼れるのが君なんだ。幼馴染みであり、婚約者である君だけが僕のことを理解してくれる。守ってくれる。だから、お願いだよ。今回だけ、ねっ、今回だけ、僕を守って。次からはきっと、真面目にやるから」

 ねっ? と、子イヌのような目で小首をかしげながら見つめられる。その絶妙な愛らしさに圧倒され、笑美えいみもなにも言えなくなってしまう。

 ――ちっ、まただよ。また調子の良いことを言って、笑美えいみ嬢にすべてを押しつける気だ。

 ――まったく、うらやましいよ。あんな若くてきれいで、しかも、なんでも言うことを聞いてくれる婚約者がいるなんてな。

 ――しかも、ローズミント公爵家と言えば、シーホース王国きっての大貴族。格式においても王家に次ぐ名門中の名門だ。笑美えいみ嬢と結婚すれば、その権勢と財力とをかさにかかってやりたい放題。責任のある王族でいるより、よっぽどおいしい思いができるだろうからな。

 国内の貴族名士たちの間にそんなささやきが交わされるなか、光流ひかるに誕生の祝辞しゅくじを述べるべくまっていた他国の外交官がとまどいの声をあげた。

 「あの……」

 その声に『ハッ!』として顔をあげたのはもちろん、光流ひかるではない。笑美えいみの方だった。笑美えいみはあわてて列に戻り、外交官の前に立った。

 「も、申し訳ありません! 光流ひかる殿下は急にお加減が悪くなったらしくて。ここからは、わたしが代理を務めさせていただきます!」

 笑美えいみはそう言って、列に並ぶ国内外の要人たちに頭をさげてまわった。

 そんな笑美えいみの姿を見て光流ひかるは、

 ――そう。お前はそうやって一生、僕のために働いていればいいんだ。

 と、幼さの残る愛らしい顔立ちのなかに邪悪な笑みを浮かべたのだった。


 笑美えいみ光流ひかるの身勝手な振る舞いの尻ぬぐいをするべく国内外の要人たちの相手を務めている間、光流ひかるの姿は王国の金庫番たる財務大臣の前にあった。

 「ねえ、お願いだよ。ちょっとでいいんだ。これぐらいのお金、我が国の財政からしたらどうってことないだろう?」

 「だ、駄目です! わたしの預かる金銭はすべて国民の血税! 国のために使うべき予算です。それを勝手にもちだし、私用に使うなど……いくら、王子殿下とはいえ公金の着服です!」

 「そう堅いこと言わないで。せっかくの美しい顔が台無しだよ。ねっ?」

 光流ひかるは財務大臣の手を自分の両手で包んでささやきかける。

 財務大臣は四〇を過ぎたメガネをかけた女性だった。夫とは一〇年以上前に死にわかれ、子どもはいない。すでに、五年以上にわたって財務大臣の地位にあり、堅実な仕事ぶりでシーホース王国の財政を支えてきた。国王からも絶大な信頼を受けている。まぎれもなく、国家の命運を背負う柱石ちゅうせきのひとりである。

 その財務大臣を相手に、光流ひかるはいつもの女心をとろけさせる愛らしい笑顔を向ける。いかにお堅い財務大臣とはいえ女は女。その笑顔に心をとろかされずにいられるものではない。

 光流ひかるはその笑みを向けたままつづけた。

 「ねっ、おねがい? 僕は父上からは見捨てられ、兄上たちからは小言を言われ、王宮の使用人たちからは『平民の子』として白い目で見られ、大臣や将軍たちからはわらいものにされている、かわいそうな子供なんだ。そんな僕にはどうしても息抜きが必要なんだ。だから……ねっ?」

 と、耳元に息など吹きかける。それだけで、四〇代女子である財務大臣は昇天しそうになった。

 「わ、わかりました……」

 かのはついにそう言った。光流ひかるの魔性の愛らしさの前では、女性は誰しもそう言わざるを得ない。

 「で、ですが、公金をお渡しするわけには参りません。それだけは、絶対に駄目です。ですから、これを……」

 財務大臣は懐から幾枚かの紙幣しへいを取り出した。

 「これは、わたしのポケットマネーですから。これをお渡しする分には公金の着服にはなりませんので……」

 光流ひかるは差し出された紙幣しへい躊躇ちゅうちょすることなく受けとった。

 「ありがとう。心から感謝するよ」

 ほっぺにチュッなどして四〇代女子を卒倒させておいて、光流ひかるはその場をあとにした。


 「あははは、あーはっはっはっはっ!」

 王宮の廊下に、光流ひかるのバカ笑いがこだましていた。その手には財務大臣から巻きあげた紙幣しへいが握られている。

 「人生すべてバラ色。思い通り。王子という身分、不幸な境遇きょうぐう、そして、僕の愛らしさ。これだけあれば、どんな女性もとりこにできる。操ることができる。一生、女たちを利用して楽に生きられるってわけさ。最高だね」

 そう笑いながら手にした紙幣しへいを数えあげる。

 「ちぇっ。これっぽっちか。あのおばさんも段々、渋くなってきたなあ。そろそろ、次の金づるを見つけるべきかな。まあいいさ。この程度でも二~三日の間、女を買って、酒を飲んで、賭け事をするぐらいのことはできる。なくなったらまた別の女をたぶらかせばいいだけのことだからね」

 そう言って、鼻歌などを唄いながら廊下を歩いて行く。

 光流ひかるは自分のバラ色の人生にすっかり酔っていた。だから、気がつかなかった。前から漆黒しっこくのドレスに身を包んだ妖艶ようえんな女性が歩いてきて、わざと自分にぶつかってきたことに。

 「わっ!」

 ふいを突かれた格好になった光流ひかるは、大袈裟に転んだ。もとより、鍛錬はおろか、まともに自分の体を使ったこともない身。その肉体は一五歳の男子とは思えないほどに貧弱であり、力もない。あっけなく転ぶのも当然だった。

 「まあ、大変! どうしましょう」

 漆黒しっこくのドレスを身にまとった妖艶ようえんな女性はあわてた様子で言うと、光流ひかるのもとに駆けよった。貴族らしいたおやかな手を差しのべた。

 「申し訳ありません、光流ひかる殿下。王子殿下たるお方に大変な無礼を……」

 「どこを見て……! うん? 見ない顔だな。外国からの招待客のひとりか?」

 「はい。黒愛くろあ・クロッカスと申します。殿下のお誕生日の祝辞しゅくじを伝えに参ったのですが途中、魔導機が故障してしまって遅れてしまったのです。そのために、あわてて会場に向かおうとしてつい、不注意をしてしまいました。まことに申し訳ございません」

 深々と頭をさげる黒愛くろあ・クロッカス嬢を見て、光流ひかるは内心で舌なめずりした。

 ――へえ。まだそれなりに若いし、かなりの美女じゃないか。妖艶ようえんな感じもいいな。いかにも『男殺し』って感じで。こういうタイプとは関わったことがないから新鮮でいいな。

 光流ひかるのそんな思いを知ってか知らすが、黒衣の貴族令嬢は光流ひかるに言った。

 「もし、お怪我でもしていたら大変です。わたしの部屋にお越しください、光流ひかる殿下。すぐに治療しなくては」

 その言葉に、光流ひかるは改めて舌なめずりした。

 ――これは、女遊びの費用が一日分、浮いてくれたな。

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