寿比べ

増田朋美

寿比べ

暑い日であった。本当に暑い日であった。もう冬の寒さなんて忘れ去ってしまったようなくらい暑い日であった。杉ちゃんたちは、そのうちねっ酋長予防のため、外出禁止時間が設けられるんじゃないかとか、話していたのであるが、本当にそうなってしまいそうなくらい、暑い日であった。

「こんにちは。」

そう言いながら製鉄所の玄関の引き戸を開けてやってきたのは、浩二くんだった。と言っても鉄を作る施設ではなく、居場所のない女性たちが、勉強や仕事をするための部屋を貸している施設である。

「あら、どうしたのこんな暑い日に。浩二くんなにかあった?」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「何も無ければ来ませんよ。こちらの女性なんですが、ここならなんとか出来るのではないかと思いましてね。」

と言いながら、浩二くんと一緒に一人の女性が入ってきた。お邪魔しますと言って入ってきたその女性は、年格好は30代くらいであるが、服装から見ると、ちょっと幼いようなところがあった。

「彼女は、僕のピアノ教室に来ている柏崎さんです。一ヶ月ほど前から、僕のところにレッスンに来てくれているんですけど。」

浩二くんはそう女性を紹介した。

「はあそれで、水穂さんにレッスンをしてほしいということで来たのかな?それならお断りだよ。この暑さでは、水穂さんも、レッスンなんかできないよ。」

杉ちゃんがそう言うが、水穂さんはよろよろと布団の上におきた。

「いえ、今回はレッスンじゃないんです。それ以前の問題です。」

と、浩二くんがいう。

「それはどういうことなんだろうか?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい。実は彼女、ちょっと心をやんでいるというか、そういうところがありまして。」

浩二くんはそう言って、彼女の背中を叩いた。柏崎さんは、やっと気がついてくれたみたいで、

「はじめまして。こんにちは。私、柏崎たまきです。」

と、杉ちゃんと水穂さんに頭を下げた。

「柏崎たまきさんね。なんか竹久夢二の奥さんみたいな名前。それで、心を病んでいるって言ったね。それで何か相談したいことでもあるのかい?」

杉ちゃんがいうと、柏崎さんは、小さな声で、

「あの、私、吉永高校に通ってたんですけど。」

と言い始めた。

「聞こう。」

杉ちゃんたちは、彼女の話を聞き始めた。

「それで、例えば成績が悪くて、楽しいこともろくになかったとか、そういうことか?そういう相談は、ここでよくあることなのでね。」

「いえ、そういうことではありません。一応、他の人が言うことには私は成績は良かったということなんです。だけど、あたしのことじゃないんです。」

たまきさんは、そう話し始めた。

「じゃあ誰のことだ?誰か、親友とか、恋人とか、そういう人のことか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いいえ、姉のことで。」

とたまきさんは言った。

「あたしは、吉永高校しかいけませんでしたけど、姉はものすごい優秀で、吉永高校ではなくて、藤高校に行きました。だから、いつでもどこでも姉と比較されて。姉は、良いところに行ったんだから、あんたもいい学校行くのよとか、あんたもお姉ちゃんを見習いなさいとか、さんざん言われて、今でも、聞こえてくるんです。」

「はあ、その聞こえてくるっていうのは誰が言っているのかな。お父さんとか、お母さんとか、そういう人たちか?それとも、近所とか、親戚の人?具体的に名前を言ってみ?」

杉ちゃんに言われて、たまきさんは少し考えて、

「ええ、家の家族とか、親戚とか、そういう人たちが、なりふり構わずあたしに合うたびに、そう言ってくるんです。」

と答えたのであった。

「うーんそうか。そういうことなら、その声が聞こえてきたとき、親戚や家族の人たちが実際に口を動かして喋っているかどうか、それを観察してご覧。それが、何もなかったら、お前さんが心の中で勝手に思い込んでいることであって、それが実際に聞こえるように見えるんだ。それだけのことだよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「本当にそうでしょうか。だって私は確かに、姉に比べたら成績も悪くて、母や父にいつも比較されて育ちましたし、それは確かなので、今でもどこかで言ってるんじゃないかって。」

とたまきさんは答える。

「うーんそうだねえ。そうだったかもしれないけどねえ。今は、そういうことはしてないかもしれないじゃないかな。影浦先生の話によれば、それは、妄想とか、幻聴とかそう呼ばれる症状だと思うんだよな。そういうことは、統合失調症という病気だと思うから、そこは医学的に援助して貰ったほうが良いな。」

と、杉ちゃんは明るく言った。

「そうなんですか。あたし、それでは、どうしたら良いのでしょうか?病気って言うけど、風邪引いたとか、そういうわけじゃないから、理解できないんです。」

「それが、難しいところですね。精神疾患というのは、見たり聞いたりしたところが病むのではなくて、それを感じ取って、考えるところが病むのです。よく、人間は頭で考える動物だと言いますが、動かすのは頭ではありません。よくあることじゃないですか。理屈ではわかっているけど、どうしても酒がやめられないとか。だから、頭と心は別だと考えたほうが良いです。」

水穂さんが、彼女の話を聞いてそう優しく言ってくれた。

「一応、浩二先生に勧められて、病院にはかかっているんですが。医者も何言っているかわからないし。一人で病院に行っても特に話すこともなくて、ただ薬もらって返ってくるだけです。」

たまきさんにしてみれば、そう見えてしまうんだろう。精神疾患は、本人にしてみれば、軽い症状でも辛いこともあるし、重大な症状でも、本人はあっけらかんとしていることもある。

「わかりました。じゃあ、僕が一緒に病院に行くよ。それでお前さんがどうなっているのか、通訳してやる。それでどうだ。そうすれば、納得するんじゃないのか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですねえ、でも、こういう病気は、薬だけでは解決できるものではありませんよ。薬はただ、症状を和らげて、それだけですよ。病原菌を殺すことは出来て、腫瘍を手術して摘出すればいいかという問題じゃないですから。」

水穂さんが、そういった。

「そうなんだよなあ。心の場合、悪性腫瘍にしろ、奇形腫にしろ、摘出すればもういいやで済まされないんだよね。なんでかっていうと、悪性腫瘍にしろ、奇形腫にしろ、人間が原因でもあるからね。」

「そうなんですよね。それぞれの人間がそれぞれの主張があって、それをはいそうですかって機械みたいに受け取れないのが、人間です。それが悪いというわけではありませんが、それが、心の病気を作ってしまうことでもあります。」

杉ちゃんと水穂さんは、お互い顔を見合わせてそう言い合った。

「わかった。じゃあ僕が、お前さんの家にお宅訪問に行ってあげようか。その代わり、天童あさこ先生の治療をちゃんと受けてもらう。それが出来るんだったら、僕がお手伝いしても良い。」

「そんなこと出来るんですか?」

杉ちゃんがそう言うと、たまきさんは、驚いて言ったのであるが、

「ああ大丈夫です。杉ちゃん和裁屋ですから、洋服の直屋とか、そういうことで乗り込んで行くこともできます。洋服とか、着るものは、日常生活に関わってくることですから、すぐに受け入れてもらうことが多いんです。」

と、水穂さんがにこやかに言った。

「そうそう。僕に任しとけ!」

そういうわけで、杉ちゃんが、たまきさんの家に潜入する事になった。とりあえず杉ちゃんをワゴンタイプのタクシーに乗せて、たまきさんは自宅へ帰る事になった。彼女の家はよくあるごく普通の一戸建ての家である。

「ただいま。」

たまきさんが、家のドアを開けた。

「おかえり。」

迎えてくれたのは、たまきさんのお母さんと思われる中年の女性だった。

「あら、この車椅子の方は?」

「どうもすみません。僕、和裁屋をやってるものでして、影山杉三、杉ちゃんって呼んでください。それでお宅に、寸法直しをしてほしい着物とか、なにかにリメイクしたい着物とかありますか?」

杉ちゃんが定型文通りの自己紹介をすると、お母さんは変な顔して、

「つまり、和裁士さんってこと?」

と聞いた。

「まあそういうようなもんですが、僕、資格商法は嫌いなので、資格は取ってません。だけど、振袖を作ることはできますし、袖丈直しとか、身丈なおしとか、そういうことはできます。あとは、不要な着物を、二部式とか、今流行りの三部式にリメイクするとか、作り帯を作るとかもやってます。もし、そうしてほしい着物があれば、何なりとお申し付けください!」

杉ちゃんが明るく言うと、

「まあねえ。着物なんて、今どき、着てもしょうがないと思うけどねえ。そういうことなら、娘たちが成人式以来着てない着物を、なんとかしてもらいましょうかね。」

とお母さんは言った。

「ちょっとお待ち下さい。」

そう言ってお母さんは、ちょっと部屋に入っていき、数分後に2つの着物を持って戻ってきた。一つは、赤い、華やかな花柄の振袖。もう一つはくすんだ緑色の振袖であった。

「はあ、それで、どっちがどっちの振袖なんだろうか?」

杉ちゃんがいうと、

「上の子のときは赤い方を使いまして下の子のときは、みどりを使いました。」

とお母さんは答えた。

「そうだったわね!」

不意に、たまきさんが、そういうのである。

「お姉ちゃんは成績が良くて、すごくいい人だったから、赤にしたんでしょう。私は、成績が悪いから、赤は着せられないって、そう言ってたわよね!」

「そんなこと言ってないわよ!ただあんたが、くすみ色が良いっていうから、そのとおりにしてあげたのよ!」

たまきさんがそういうとお母さんもそう言い返すのであった。本当は、そういうときに、止めてくれる人がいてくれたら、又変わってくるのではないかと思う。それは本来、おじいちゃんとかおばあちゃんの役目だった。だけど、今はそういう家族なんて、殆ど無いと言ってもいいだろう。

「まあ待て待て。それなら、ほんとうのことだろうかまず確かめてみような。よし、じゃあ、そのときのことを、もう一度考えてみてくれ。お前さんの振袖を買いに行ったときだ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ。そういうことはしてないのよ。あたしはカタログで選んじゃったから。」

と、たまきさんが言った。

「それもお姉ちゃんはちゃんと、呉服屋に連れて行ったのに、あたしはなんでカタログなんだって怒ってたこともあったわね。」

お母さんがいう。

「ただ行く時間がなくて、カタログで選んだだけなのにね。2つとも豪華な振袖なんだし、それなのにたまきと来たら、自分の振袖はお姉ちゃんより地味で、つまんないってよく泣いてたわね。」

「よしわかった。そういうことなら、もう一回やり直そうな。僕と一緒に、赤い振袖を買ってだな。それで神社にお参りに行こう。」

と、杉ちゃんはでかい声で言った。

「そんな、振袖なんて、ただでさえ高いものなのに!」

お母さんはびっくりして言うが、

「ああ大丈夫大丈夫、リサイクルで買えば、3000円で買えるから心配しなくていいよ。今は良い世の中になったもんだね。そうやって振袖も気軽に買えるんだからな。それでは、長襦袢や、帯とか、他の小物はまだ保管してあるかな?」

と、杉ちゃんが言った。

「ちょっとまってて。あたし持ってくる。」

たまきさんは、家の中に入って、急いで奥の部屋へ走っていった。そして、帯の入った畳紙と、小物を入れたかごを持ってきた。

「帯と小物はみんな姉のお下がりだったんです。なんで私のは無いのって、悔しかったです。」

「そんなこと一度も言ったことなかったじゃない!」

とお母さんは言っているが、杉ちゃんはそれを無視して、

「ああ、気にしないでいい。そういうことなら、帯もリサイクルであれば、500円で帰るから心配しなくていいよ。流石に、長襦袢は、肌に触れるから、お姉さんのより新しく買ったほうが良いんじゃないかな。大丈夫だよ。リサイクルであれば、振袖は一万円以内で揃うから。」

とにこやかに笑った。

「でも、そんな店あるでしょうか?ネットオークションとかにたよらないと、だめなんじゃないですか?」

と、たまきさんがいうと、

「いや、それも大丈夫だ。リサイクル着物ショップは、すぐ近くにあるよ。カールさんがやってるところ。ほんなら道案内してあげるから、今からそこへ行ってみるか。お前さん自身でお前さんの着たい着物を選ぶんだ。そうすればお前さんの中にあった腫瘍も一つくらいは、摘出できるんじゃないの?」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうなんですか?それなら、私行ってみます!一万円あれば良いのですね。」

と、たまきさんは言った。杉ちゃんがそうだともというと、なにか決断してくれたようで、杉ちゃんと二人で、まるで家を飛び出すように、タクシーに乗ってカールさんの店へ向かった。

カールさんの店、つまり増田呉服店は、タクシーで15分くらい走ったところにあった。杉ちゃんと、たまきさんが店に入ると、店の玄関に釣る下げられていたザフィアチャイムがカランコロンとなった。

「いらっしゃいませ。」

と言って、カールさんが、挨拶すると、

「あのねえ。こいつがね。もう一回成人式をやり直したいんだって。なんでも、お姉さんが着ていた赤い振袖を自分も着たかったけど、親の意向できれなかったのか、それとも彼女が意思を示さなかったのかは不詳だが、できなかったらしい。そういうわけだからさ、赤い本振り袖はないか?あと、袋帯を一個。」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。カールさんはすぐに、

「わかりました。そういうことなら、すぐに出せます。赤い本振り袖は、そうですね。こちらとこちらがございます。」

と、箱の中から、本振り袖を出した。京友禅で大きな桐紋や松などを入れてある、大変豪華な振袖でもあった。なんだかお姉さんのものより豪華というか、昔のものだから、品があるのだった。

「わあすごい。これは、いくら位なんでしょうか?」

たまきさんは驚いて言った。

「ええ。いずれも3000円です。税込みだと、3300円です。」

カールさんがすぐに言った。

「本当に3000円だったんだ!信じられませんね。それで、帯も一緒にいれるといくらなんでしょうか?」

と、たまきさんがそうきくと、

「えーと帯はですね。振袖ですから、袋帯をあわせますよね。袋帯は、こちらの箱に入っているものがすべてそうです。値段は一本、税込みで1100円。」

カールさんは、そう言って、段ボールの箱を開けた。中には金金に輝いた袋帯がたくさん入っていた。

「そちらの本振袖にあわせるんだったら、」

カールさんは説明しようとしたが、

「いや、彼女に選ばせよう。」

と杉ちゃんが言った。

「きっと彼女は、自分のことを自分で選んだことがなかったんじゃないかな。」

「なるほど。確かにそういう事情を抱えているお客さんも相手にしたことがあるからな。よく分かる。」

カールさんはそう頷いて二人は、たまきさんが帯を選ぶのを邪魔しないで待っててあげることにした。たまきさんは、帯を真剣な顔で出したりしまったりして、一生懸命吟味していたが、

「これが良いわ。」

と言って、一本の金の袋帯を取り出した。

「はあ、わかった。ずいぶん豪華なやつを見つけ出したもんだな。よし、それなら、どの振袖につけるかだなあ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「できるだけ姉が持っているのより、豪華にならないようにという気持ちで選んだんです。振袖はこの松の振袖を買っていきます。」

と、彼女は、赤い振袖で、松が刺繍された豪華な方を取った。

「そういうことなら、あとは、帯揚げとか帯締めなどの小道具も選ばなければならないねえ。帯締めは、若い人には太いのが良いんだよ。帯揚げは総絞りの振袖用ってやつね。」

「どちらも500円です。」

カールさんはかごのなかに入っている、帯揚げと帯締めを見せた。このときも杉ちゃんたちは手を出さず、彼女に帯揚げと帯締めを選ばせた。彼女は、白にところどころ金を入れてある帯締めと、ピンクの可愛らしい帯揚げを取った。

「よし、あとは、長襦袢と、足袋、あとは草履だな。」

杉ちゃんがそう言うと、カールさんは、又箱を開けて、長襦袢と草履を取り出した。どちらも500円であるという。たまきさんは、赤い鼻緒の紅白の草履と、本振袖用の長襦袢を選んだ。

「足袋だけは、中古で販売していないので、1500円とちょっと高くなりますけど、振袖用であれば、5枚こはぜのほうが良いでしょう。足のサイズはいくつですか?」

「24です。」

と、カールさんにきかれて、たまきさんは答える。すると目の前に、白い足袋が袋に入って置かれた。

「じゃあ、振袖が3300円、帯が1100円。帯揚げ帯締めが500円つづ。更に、長襦袢と草履が500円づつ。更に足袋が1500円で、一万円を切ることができましたね。今紙袋に入れますから、大事に持って帰ってください。」

カールさんは、振袖一式を紙袋に入れて、彼女に渡した。

「ありがとうございました。お陰で姉よりすごいものが買えて、ようやく私は、やっと自分で良いんだという気持ちになることができました。ありがとうございます。」

と、にこやかな顔をしていうたまきさんは、なんだか今までのようなショボショボした感じはしなかった。きっと、彼女の心の中でなにかホッとしたというか、なにか開放することができたのだろう。もちろん、病気を治すということに対しては、こんなこと、本当にちょっとした一歩に過ぎないかもしれないけれど、こういう小さな一歩で、治療に向かっていくこともあるのである。もしかしたら、小さな一歩が、大きな治療になるのかもしれない。だけどその小さな一歩にたどり着くまでに何十倍の努力をしなければならないこともある。そういう努力をしている人は、ビジネスとしてやっていく人もいるが、そうではないこともある。そういう人たちに、ありがとうと言えるような人間で有りたいねと、杉ちゃんとカールさんは、笑い合うのだった。

彼女は、振袖の袋を持って、増田呉服店をあとにした。


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寿比べ 増田朋美 @masubuchi4996

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