海と陸と潰える場所を

鈴ノ木 鈴ノ子

うみとおかとついえるばしょを

 真夏の田舎の駅、炎天下の陽ざしが煌々と照り付けていた。

 目の前には海、背後は山、そして停車する電車は2時間に1本だけ、ワンマンの小さな小さな電車が小さなホームに入り込んできて、前のドアだけを開く、降りてくる乗客はいない。

 そう、それが常だった。常にそうだったから。

 風光明媚なんて綺麗な言葉は似合わない。

 寂れた駅舎は小さな小さなバラックのような建物で、バス停でもここまで酷くはないだろう。トタン屋根はところどころに錆が浮いて穴が空いている。待合と呼ぶにはおこがましいほど、朽ちた木製ベンチには人ではなく、日々、黒いアリが歩いては獲物を探す。壁板として張られた焼杉は白アリの猛攻によって所々に穴が空いて、その白アリすらも食い尽くしたとでもいうかのように、そう、薄い膜で保っているかと思えるほどに透いていた。

 駅のホームには雨避けすらなく、ただ、いつの時代からあったのかと思わせるほどの風化を見せて、ところどころ穴の開いたアスファルトがあるだけだった。

 白線などはとうに消えていて、ところどころからセイタカワダチソウの茎が伸びているのだけれど、それすらも元気を失って頭を垂れていた。葉には緑があるものの上に行くほど濃く、下に下がるほど色を失って枯れている。海から来る風で揺れる度に、一枚、また一枚と色を失った葉が破れを見せては、やがて抜け落ちるように消える。

 色彩を失った駅で唯一輝くのは海だ。

 青い海。

 照り付ける太陽の光でその身を焦がされて、まるで日焼けした跡の剥がれてゆく薄皮のように消えてゆく駅舎とは正反対に、海は打ち寄せる波のはるか遠くから煌めきを見せては、ただただ、その光を駅舎の前に広がる砂浜へと打ち上げる。

 打ち上げられた光は乾ききって灰色とも朽ちた色とも例えよう事ができる砂浜の先っちょを鼠色して重く湿らせては離れてゆく。だが、その打ち上げられた光が色を吸収して天へと戻ってしまえば、波の届かぬ奥の浜と変わらぬ色となって、ひとときの感傷にただぼんやりと浸かるかの如く、再び波が打ち寄せてきて、光に染まることを夢見ているようでもあった。

 私はこの駅に降りた唯一の人間で、そして、もうすぐ人間を終えようとやってきた。

 駅舎と同じくらい古びた電車の擦り切れそうなほどに汚れた座席に座って、人間が穢れを目いっぱい詰め込み経済活動という一種の罪のようなもので構築されたバベルの塔が立ち並ぶ町から、その経済活動が終焉を迎えて、はるか昔の栄光跡を、そう遺跡の如く曝している朽ちたる町より、その電車に乗ってきたのだ。

 天井を廻るところどころに錆が浮かびプラスチックからセルロイドへと至った艶めかしい光を放つ扇風機が老人が首を振るかのようにぎこちなくふたつ回っていた。涼しさをはき違えて風を流すだけの装置となった冷房吐き出し口には奥で身を潜めていた埃たちが、なんとか落ちまいとしながら身を揺らして力尽き床へと落ちてゆく。ステンレスの板に固い座面を置いただけの垂直の背凭れの座席が並ぶ車内、つり革は日焼けして色を変え、持ち手の丸は過去の栄光を誇るかのように上半分を白く、下半分を黄色とキズまみれにして、列車の揺れに身を任せている。

乗客はいない、ああ、人を辞めることを決めた私が荷物のように座席に載っていた。

運転席に視線を向ける、アイロンの掛かった半そでシャツの背中が見えた。袖口から伸びる腕は萎びれたキュウリのようで、その先に花のように真っ白な手袋が咲いている。壊れたスピーカーのような音を出す喉で信号やポイントを過ぎる度に、何かを口にしては花の指先が一本、まっすぐに伸びては縮んでを繰り返していた。

 この駅を見つけたのは偶然であった。

 本当なら終点であるダム湖の駅で降り、ハンドバックの中の錠剤を飲み干して、天高く舞うように落ちることを夢見ていたはずなのに、この駅はその夢を打ち砕くほどに、何もかもが死んでいて、そう、まるで仲間がいるように思えた。

 呼んでいたのだ、そう、呼ばれたから、降りた。

「帰りの本数はすくないからね、忘れないようにね」

 嘲笑うではない、心底優しい笑みの好々爺は、切符を受け取りながらそう言ってくれた。

 久しぶりに人の感情を目の当たりにした気がする、汚れ無き感情を。思わずキスしてしまいそうなほどの純粋な言葉だった。

「はい」

 確かそんな返事をして笑みを浮かべた気がする。

 この人に最後の人として記憶してもらいたくはなかった。こんな優しい笑みを浮かべる人の記憶に残りたくなかった。でも、不愛想にはできなかった。都会でそうしていた頃のように張り付けた笑みをつい浮かべてしまった。

今となっては遅いけれど、今からでも詫びてしまいたい。でも、時間がない。

ホームから飛び降りて線路の上に立つ、ああ、ホームとはこんなに高いモノなのだとこの時初めて理解した。たったこれだけの距離を降りただけで、まるで上の世界と下の世界とでもいうかのような、透明な壁が聳えている。

それは這い上ることすらも諦めてしまうほどの高さの壁であった。

電車から垂れたであろうオイルのテカリを残した線路の石と、まっすぐに伸びるゆがみのない線路を見つめた。なんと綺麗な直線であろう。ただ、まっすぐにまっすぐに伸びてゆく二本の線は目が眩むほどに美しかった。それを支える石、バラストと言うらしい、それによって二本の線は均一に保たれている、だから、まっすぐに伸びていけるのだ。

こんな線路を歩んでみたかった。私のバラストは生まれた時から足りないか、いや、そものも無かったのかもしれない。だから、自意識が芽生えた頃から、どこそこへと言っては、他人の線路の石を攫うかのように分けて頂いていた。そう、頂いていた。

自身の石などついに見つけることなどできなかった。

陽の光が肌を焼く、ちりちりと皮膚の焦げる音が聞こえてきそうな気がした。太陽が急かすように早く歩けと言っている。少し先に小さな階段を見つけた。保線用と思われる階段だった。所々穴の開いた鉄板と持てば折れそうなほどの支柱、その上に足を掛けて、私は恐る恐る死なないように降りていく、こんなところで死ぬわけにはいかない。だって、目指す先はもう目の前なのだ。

足が砂浜に着いた、猛烈な達成感が沸き上がって思わずのその場で子供のように飛び跳ねた。目の前には砂浜と海、そして打ち寄せる波がガラスの欠片をまき散らすかのように輝いている。

ハンドバックを足元に落とした。

靴を脱いで焼けた砂の上に素足を乗せる。暑さが足の裏を焼く感覚が生きていることを実感させてくれた。どこかの誰かに貰った長袖のTシャツを脱ぐ、両腕の傷を隠す必要はなくなった、ようやく解放された。キャミソールとブラを一緒に脱いで投げ捨てる。汚れた匂いがした気がして嫌だった。この二つの塊に相手は一喜一憂した。だが、この二つに助けられたのも事実で、人工的な光の元でしか色悪い形を晒すことを許されなかったソレは、日の光によって輝いて見えた。乳頭までのすべてが本来の色を取り戻したように色づき輝く。思わず両手で優しく抱きしめて、しばらくその嬉しさを感じた。やがて厚ぼったいデニムを脱ぎ捨てて嫌いだった薄いパンティーも脱ぎ捨てる。

肉体が輝きを取り戻していた。生命本来の色が陽の光を感じて、全身が、いや、すべての細胞が声を上げて喜んでいるかのような感触が駆け巡る。自分の命というものを初めて感じた。そう、これが命の鼓動なのだと理解できるほど全身に生のエネルギーが満ち溢れる。

私はその嬉しさを抱いたままで一歩、また一歩と踏み出した。そう、ハイハイしかできなかった赤ん坊が初めての一歩を歩み出すが如くの不安定さでだ。

数歩歩いて砂浜に足を取られて真横に倒れる。色を失った砂が私の素肌を焼き、そして初めて肉を焼いた網のように素肌に張り付いた。その感触が心地よかった。

立ち上がって砂を払わずに首から下を眺めてみた。半分が砂で覆われ、半分は素肌だ。

ああ、少しだけ綺麗に慣れたのかもしれないと思えた。

砂によって色が消し去られた素肌は今までの穢れを体表に記したようであり、そして、綺麗な素肌は今の魂を表しているといってもいい。

全身が汚れていた私は、砂によって半分の穢れのみとなり、純粋な半分が姿を見せていた。

再びの一歩を慎重に踏み出す、決してもう半分を穢してはならない、もし、穢れてしまったのなら、私の最後は穢れたままの自分で終わることになってしまう。

それだけは避けたい、半分だけでもいいから、綺麗なままで死にたい。

きっとそれは女としての渇望だ。良くあるじゃないか、綺麗なままで死にたいと。

ついに波打ち際に立つ、全身をぶつぶつとした鳥肌が駆け巡り、私は興奮していることを自覚した。それは恐怖ではなく、興奮だった。もう、この海水と共に浸かって一緒になって行くことを夢見て、今まさにそれが達成されようとしていたのだから。

波の音が心地よい、足元に波が掛かる度に雫が飛び心地よい。

ふと足元を見つめる、砂の付いた足が綺麗に洗われて素肌が露出しているのが見えた。

母なる海が穢れを流してくれたのだ。

太古の昔、生物は海から陸上に上がり今のようにどこにでもいるようになった。とするならば、海へと還って行く私に対して母なる海がお帰りと優しく言ってくれている。

一歩を踏み出した、砂が洗われて綺麗な素肌が現れた。

一歩を踏み出した、砂が洗われて綺麗な素肌が顔を見せた。

一歩を踏み出した、一歩を踏み出した、綺麗な素肌が、綺麗な素肌が海水と溶け合って素敵な色合いを見せる。

首までたどり着き、私は立ち止まって一呼吸を置いた。そして、一息に肺の空気を吐き出して、海の香りと酸素を目いっぱいまで吸い込んだ。

こうすれば海の懐で私はそのゆれる水面を上に見つめながら、最後の時を迎えることができる。

最後の一歩を踏み出そうと足を上げた途端だった。

 手首を誰かに掴まれた。それは傷口の痛みに似ていて、先ほどまでの夢憧れた意識を鈍らせるには十分過ぎるほどの痛みだ。あの絶望的な破瓜を思い起こさせる痛みだった。

「駄目だ」

 青色のシャツから伸びる手が私をしっかりと掴んでいた。丸刈りの頭に凛々しい顔立ち、そして日焼けした肌がこの海の香りと違う磯の香を漂わせている。

「離して」

 そう短く言って私は掴まれた手首を引きはがそうとする。だけれど岩牡蠣のように素肌に張り付いた手は離れることはなかった。

「駄目だ、ここはダメだ、ここは君が死ぬには汚すぎる」

 そう言った男の声が恐ろしかった。急に眼から見える物すべての艶やかさが消え去った。綺麗だと思っていた海が突然に汚く見えた。先ほどのまでの興奮があっという間にこの海に溶けて、そして猛烈な嫌悪感が沸き上がってきた。

「陸に上がった者は、陸で死ぬべきなんだ。海は海で生きるモノしか受け入れない」

 そう聞いて愕然とする。目の前の海が豹変した、まるで異物でも含んだように波が荒くなる。しぶきが顔に掛かって平手打ちをされた気分だった。

 母は私を迎え入れてくれていないのだ。

ああ、そうだ。

母は私を迎え入れることなどなかったのだから。

「じゃぁ、どうしろというの」

 その言葉を投げかけた私に彼はこう言った。

「陸ですべてを考えて答えを探そう。すべての事柄を考えていこう」

 手首を掴んでいた手が離れて、私の手と絡み合いしっかりと握られる。海水の冷たさと違う、本当の人肌の温もりを感じた。人間はここまで温かい生き物だったのだろうかと考えてしまうほどの温かさ、後にも先にも、あれほどの人肌というものを私は知らない。

「行こう」

「はい」

 素直な言葉が口をついた。冷静さを取り戻したわけでも我に返った訳でもない。

 ただ、素朴な言葉の羅列が心の奥底を揺さぶったからだ。

 私達はアダムとイブのように一歩一歩とお互いに歩み出して、海から陸へと上がる最初の生物のように共に砂浜へと戻ったのだ。

 綺麗な死に場所を求めるために、そして、その場所を見つけるために。

 海水から上がって行くと男の制服は良く見慣れたものだった。

 青と濃紺の半袖シャツ、ごちゃごちゃとした趣味の悪いモノばかりがついた腰回り、私を目の敵にして補導して捕まえた連中と同じ服装、なのに、この人の背中は凛々しくて猛々しく見えていた。

 手を握り合ったまま、足元に海水が掛かるところまで来たところで、男の瞳が私へと振り向いた。

「余分なことは言わない、ただ、君のことを教えてくれればそれでいい。私はここの先輩なんだ」

 偽りの笑顔は無かった。ただ、真剣な表情、久しく見つけることのできなかった真剣な眼差しで彼はそう言った。

夏の日差しが照り付け海がキラキラと足元で輝く、そしてその輝きの中に私達は立っていて、男の手首に一本のしっかりと残る傷跡を見つけて私はすべてを察した。

「先輩……ね」

「ああ」

 互いの視線が折り重なった。鳶色の瞳の奥に揺らめく決意が見えた気がする。

 私達は互いに死に場所を探している。だから、通じるものがあるのだろうか。

 理解されなくても良い、理解されるはずがない。

 でも、共に死に場所を探してくれる人に出会えたことは、何よりも得難いものであることは確かだ。

 私達は今も死に場所を探している。

 電車は廃線となり。

数件だけの集落が生き残るだけの集落。

立て直されることなく朽ちてゆくだけの派出所。

ずっと移動させられることのない、ここで朽ちるだけの彼と、ここから移動することのなく朽ちていく私。

今日も海は綺麗に見える、輝いて見える。でも、それだけだ。

私は死に場所を探しながら暮らしている。同じような先輩と共に。

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