エピローグ

「――さん、――さん。だいじょうぶですか?」

 横から聞こえる声に、あたしはハッとして顔を向ける。柔らかい笑みを湛えた白衣の女が、腰を曲げてあたしの顔を覗き込んでいた。

「す、すみません。ボーッとしていて」

「だいじょうぶですよぉ。ようやくお子さんに会えるんですもんねぇ。緊張するのも当然ですよぉ」

 まるで幼児に話しかけるような声音で話す女は、あたしの手を引いて殺風景な廊下を歩く。

「お子さん、もう十歳になるんでしたっけぇ。お子さんの方から、会いたい、って言ってくれるなんて。嬉しいですねぇ。早く元気になって、もっといっぱい一緒に居られるようにならないとですねぇ」

 女の話を上の空で聞きながら、あたしは数年前に写真で見たきりの子供の顔を思い返す。

 目元はあたしに似ていて、男の子な事もあって顎の線や眉はあの男と似た雰囲気だった。けれど写真の中で快活な笑みを浮かべるその姿にあの男の面影はなくて、安心したことを思い出す。

 ――十年。正確にはもう十一年になるだろうか。

 あの悪夢のような時間から、長い月日が経った。

 あの時意識を失ったあたしは、偶然通りかかり、微かな異音に気がついた清掃員の通報によって奇跡的に救出された。これは後から聞いた話だが、昏睡から覚めた後のあたしは錯乱状態で、そのまま精神病院に搬送されることになった。

 裁判のことはうっすらとしか覚えていないが、色々な人と話をさせられて、人の沢山居る場所で話をさせられて、最後、弁護士と名乗っていた人が「心神喪失で無罪」と嬉しそうに言っていたことをやけに鮮明に覚えている。

 あたしは入院してからずっと、男の霊がいないかと聞き続けていたらしい。当然ながらあたしを救出した人も精神病院のスタッフも「そんなものは居ない」と答えたし、あたしの混濁した記憶でも、部屋を出てから一度も男の姿は見ていないことは唯一断言できた。

 ――男の幽霊と過ごしたあの時間。あれは、何だったのだろうか。

 あたしの担当医に言わせれば、殺人のショックから生まれた幻覚だという。時が経てば経つほど、本当にあれは幻覚だったと、そう思えてくるような気もしたし、同時に記憶の中で腕を組んで目を細める男の姿は、幻覚の一言では言い表せないほど生々しく、実感を持って思い出された。

「もうすぐ部屋につきますよぉ」

 白衣の女の声で、あたしの意識は過去から現在へと移行する。女が振り向いて、首を傾げてにっこりと笑った。

 目の前に立ち塞がるグレーの扉を、女は開けてあたしを導く。アクリル板で仕切られたその向こうに、写真で見たより少し大人びた、一人の少年が座っていた。

「……母さん」

 子供は言い、目を見開く。

 あたしは口を開き、しかし喉からはひゅうと空気の漏れる音しか響かなかった。

 ――あたしは子供を帝王切開で取り出され、その後すぐに引き離され隔離されたらしい。当然だ。錯乱した殺人犯の女に生まれたての赤子など近づけられるわけないのだから。

 あたしは麻酔から覚めるや否や子供を求めて暴れ、一年ほどは鎮静剤で殆ど眠らされているような状態だったらしい。意識がはっきりしている僅かな時間を狙い、何度も、何度も「子供は安全なところに居る」と説明され、それを繰り返す内に少しずつ落ち着いていった、とあたしに話した医師は、

「やっぱり母親の本能なんですかね。子供を守ろうとするのは」

 と言って笑っていた。

「母さん。久しぶり、元気にしていた?」

 目の前に立つ、最早あたしの背丈の半分を越えている少年は、声変わり前の幼い声で、大人びた口調で、あたしにそう話しかけた。

「……あ、なたこそ」

 女があたしをアクリル板の前に座らせ、隣に立つ。あたしは手をそっと前に伸ばした。

「……大きくなって……」

 あたしの手に、少年はそっと手を重ねるようにして腕を伸ばした。

「会いたかったよ。母さん」

 息子は穏やかな声で言う。

「……あたしも、会いたかった。……ごめんね。ごめん」

「母さん泣かないで。俺は母さんに会えて嬉しいんだから」

 息子に言われて始めて、自分が泣いている事に気がついた。ポタポタと無機質な机に涙が零れて水溜まりをつくる。

「迷惑かけて、苦労をかけてごめんね。こんな母親でごめん。会いたいと言ってくれて嬉しい。……ごめん、ごめんね」

「謝らないでよ、母さん」

 息子の言葉に顔を上げた。身を乗り出した息子と目が合う。

 息子は目を細め、にっこりと笑う。

「俺は母さんを恨んでなんかいないよ。絶対恨んだりしない」

 息子は笑みを浮かべたまま、伸ばしていた手を引き、腕を組む。

 あたしは目を見開いて息子の姿を見つめる。机に落ちた涙の水音が、殺風景な部屋にやたらと大きく響いて聞こえた。

「だって、母さんと俺は血肉を分けた親子じゃないか。たった一人の母さんを想いこそすれ、恨むなんて事ありえないでしょう?」

 目を細めて笑うその顔が、腕を組んだその仕草が、恐ろしいほどにあの男に似ていた。

 ――あたしは、この子を。

「愛してるよ。母さん」

 揺らぐ視界、瞬きの刹那。

 息子の背後にあの男の姿を見た。

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蛛網の共喰い ウヅキサク @aprilfoool

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