血肉

 異様な吐き気に襲われ、あたしは眠りから覚醒する。まろぶようにベッドから這い出るとゴミ袋を口に当てて嘔吐いた。

 胃からせり上がるものは何もなかったが、しばらく嘔吐いている内にようやく吐き気も収まり、あたしは浅く呼吸をしながらベッドに背を預け天を仰いだ。

 暫く前から体調不良が治まらない。それどころか日に日に不調は悪化の一途を辿り、食事が喉を通らない事も増えた。昨日などは口にした肉を飲み下そうとした瞬間に耐えようがない吐き気に襲われ、その場で全部吐き戻してしまった。

 空腹なのに吐き気がする。腹の中にわだかまる異物感が尋常じゃない。

 呻きながら扉を開けて部屋の外に出て、台所でコップ一杯に注いだ水を一気に飲み干した。

 冷えた水が荒れた喉を潤し、吐き気も幾分かマシになった。もう一杯、と水をくんで振り向いたところで、こちらの様子を窺う男と目が合った。

「……何」

 男はどこか不気味な笑みを浮かべて小首を傾げ、

「体調、大丈夫?」

 と心配など微塵も感じさせない声音で問う。

「……最っ悪だよ。人肉なんか食わされてるせいだろうね。あんた身体になんか病原菌でも飼ってたんじゃないの」

 毒づき、二杯目に口を付けながら台所を出てリビングに向かう。男はあたしの憎まれ口には何も返さず、ただ粘つくような視線がじっとりとあたしに絡みつき続けている事を感じていた。

 ……あまりに不愉快で、だけどそれ以上に不気味で仕方がない。

「だから、何?」

 苛立ちを隠さず再度聞けば、男は目を細めにんまりと口角を上げる。

「ねえ、いいものをあげるよ」

 言って。男は医療品を入れている棚を指差した。

「薬でもくれるっての?」

 返事は無く、男は笑みを貼り付けたまま無言で棚を指差し続ける。あたしは溜息をつき、棚を開けて中のものを引っ張り出した。

 湿布、絆創膏、包帯、消毒薬、ガーゼ、そう言ったものがバラバラと床に散らばって落ちた。その更に奥にはいくつかの薬の箱や瓶と、それと小さな引き出しが置いてある。

「で、どれ?」

「ここ」

 あたしを通り抜けて突き出された指の差した先は、棚の隅に置かれた小箱の、その一番下の段。箱を開けると、中に入っていたのはピンク色の細長い箱。可愛らしい丸文字で、――『妊娠検査薬』と、そう書かれた。

「……何、これ」

 ついさっき飲んだ冷たい水が喉の奥で凍って、胸に広がり腕を伝い腰を伝い、指先までを凍らせていくような、それでいて妙に熱を持った鼓膜の伝える心臓の音が、やけにうるさく脳味噌を揺らす。

「賭け、と。そう言ったでしょう?」

 生理周期なんて乱れているのが当たり前だったから、それが来ていない事など気にもしていなかった。体調不良も環境の変化によるものだと思っていた。

 あたしの不健康な身体は、非合法の避妊薬や堕胎薬――それを飲んだとき、あたしが本当に妊娠していたかは定かではなかったけれど――によってイカレて壊れて、妊娠なんてとっくに出来なくなっていると思っていた。だから、まさか、そんな可能性なんてほんの僅かも考えていなかった。

「ねえ、早く試してみてよ。負けたなら負けた、で俺は気にしないからさ」

 考えてもいなかった。思いつきすらしなかった。あたしの思考の外にあった可能性だった。

 ――なのに。

「……なんで」

 腹に手を当てて半身を引く。男から腹部を隠し身構える態勢になる。

 触れた腹の奥には奇妙な異物感がある。吐き気が、違和感が。響くはずのない、軽くて早い鼓動が、トクン、と掌を通じて心臓を揺らしたような気がした。

 パチリ、とスイッチが切り替わる音がした。

 ――その音で、あたしは本能的に悟る。

 こいつは、賭けに勝ちやがった。

 半身を引いた姿勢からさらに身を引き、男から距離を取る。全身の神経が張り詰める。

「俺はね、父親に愛されなかったんだ。父は俺を疎んでいることを隠そうとすらしなかった。でもね、それと同じように俺も父を愛することは出来なかった。愛されなかったから愛せなかっただけだと思っていたけれど、でも俺は母さんを愛していた。写真でしか顔を知らない、愛された記憶などない母さんを。――父と母さん、何が違う? 俺はそのどちらとも血が繋がっていたというのに」

 男の恍惚とした視線は、どこか焦点が合わず揺らいでいる。

 この男は危険だ。全身に危険信号が鳴り響く。勿論、物理的な音は鳴ってなどいないけど、それでもそうとしか形容の出来ない感覚に全身を支配されていた。

 距離を取らねば。逃げねば。逃げないと。逃げろ。

「――母親と違い、父親が子供を愛せなかったのは、俺が父親を愛せなかったのは、真の意味で血肉を分けていないからだと、俺はそう思ったんだ」

 低く甘い声と共に、ふっと虚ろだった男の瞳が焦点を結ぶ。その視線が注がれる先は、あたしの腹だ。

 ザッと全身が粟立つ。鳴り響いていた警戒音が、最大音量で鳴り響き細胞の一つ、髪の毛の一筋に至るまでを激しく揺らしたような気がした。

 男の視線の先。あたしの、今は膨らみなど分からぬ腹のその中。

 子供。あたしの腹の中の、あたしの、子供。

 ――絶対に守らねば。

 瞬間、あたしは両手で腹を覆い、男の視線から逃れるように身を翻した。逃げるあたしの背中を男の声が追う。

「俺は愛されたかった。愛したかった。でも、母さんはもういない。父はただ遺伝子を共有するだけの生物だ。だからね」

 寝室へ飛び込み、扉を勢いよく閉める。しかし分厚く頑丈な扉は、男の声を遮断することはなかった。

 ――血肉を分けた子供を作ろうと思った。

 くぐもった声は、狂気を孕んでいる。

「その子は、本当の意味で俺の血肉を分けた本当の俺の子だ。その子供なら、俺はきっと愛することが出来る」

「……違う! この子供はあたしの子供だ!」

 我知らず張り上げた声にあたしはハッと顔を上げる。視界の端に、扉をすり抜け侵入した男の姿が映る。

「それを否定するつもりはないよ。君とも血肉を分け、そして俺とも……」

「腹の中にいるのはあたしの孕んだ、あたしの血肉で育つあたしの子供だ。あんたのじゃない!」

 まるで想定もしない自分の言葉はしかし、口にした瞬間生まれたときからあたしに備わっていた言葉であるかの様にあたしの中に強く根を張る。

 子供を守る。この想いは、人間に備わる母性なのか、それとも獣の本能なのか。

 自分にも分からない。ただ、スイッチがパチリと切り替わったその時から、子供が腹に居ると確信したその時から、あたしの中の、理屈ではどうにも出来ない、奥底の深い部分の、根底にある何かが致命的に変化したのだ。

 腹の中に命が宿っている。あたしは命を孕んでいる。あたしの血肉で育つ、あたしの子供が。

「俺の子供だ」

 言った男の顔からスッと表情が抜け落ちる。あたしは再度扉に駆け寄り、寝室の外に飛び出てリビングへとまろびでた。足が縺れて転びそうになる。咄嗟に腹を守ろうと腕と膝を腹に引き寄せて身を丸めた。

 肩を強打し、呻き声を上げつつあたしはがむしゃらに身を起こして台所へと向かう。

「俺の血肉で育った、俺の子供だよ。俺の愛する、俺を愛する、俺の」

「俺俺うっせぇんだよ!」

 怒鳴り、調味料の棚から塩の瓶を掴んで蓋を開けて男に投げつけた。

 塩の瓶は男を通り抜けて床に塩を撒き散らした。男はそれを無感情に見つめ、何事もないように視線をあたしに戻す。

「あんたの血肉なんて、あたしが食った時点であたしの栄養になりあたしの血肉になるんだ。お前の要素なんか、殆ど無い!」

 叫び、別の塩を掴んで撒き散らす。

 子供を守る。目の前にいる異常な存在から、何に変えても自分の子供をまもらなくては。

「俺の血肉は君の中で生きているでしょう。だから」

「あ、たしの子供に近寄るなっ!」

「君と俺の子供だろう」

「あたしの子供だ。お前のじゃない!」

「違う」

「違うのはそっちだ。あたしの子供を、お前の欠けを埋める道具に、歪みを矯正する道具にしようとしてんじゃねぇ!」

 男は怯んだように一瞬表情を歪めた。

 ああ、と今更のようにあたしは悟る。

 この男は金持ちで裕福で恵まれているから傲慢で歪んでいたわけじゃない。

 欠けて歪んだ、哀れな子供のままだから。だから。

「――そんなに満たされたかったの? 愛されたかった? 殆ど負け確定な賭けに手を出すほどに。勘違いするな、あたしの腹にいるのは、あんたの望む都合のいい玩具なんかじゃない!」

 だけど、だから何だと言うんだ。飢えた哀れな子供が、満たされるためにあたしの子供を喰おうとしている。哀れみこそすれ、見ず知らずの子供のためにあたしの守るべき子供を差し出してなどやりはしない。絶対に。

「お前なんかに、この子は渡さない。この子の愛はこの子だけのものだ」

 男の輪郭が歪み、ぶわりと黒い影が溢れ歪んだ男の表情を覆い隠す。部屋の明かりが明滅し、パン、と何かの弾ける音と共に、薄暗い闇が室内に降りる。その奥に凝る闇の塊に、二つの不気味な白い光が揺らいで瞬く。

「――愛されたい。愛したい。ただ、それだけだ」

「……っ! 狂った死人が、生きた人間みたいなことほざくな!」

 叫んで、あたしは影から逃げようと台所のカウンターを乗り越え、転び、あちこちに身体をぶつけながら玄関に走る。

「助けて、助けてぇ! ここに閉じ込められてる!」

 叫び、分厚い扉を拳で叩く。籠もった鈍い音が響く。――この閉じられた部屋で、唯一外に助けを求める可能性のある場所。誰かが前を通りかかって異変に気がついてくれる。そんな奇跡を願って、扉を叩き続けた。

「誰か! 誰か! お願い! 子供が……!」

 扉を叩き続ける手の感覚が段々麻痺していく。手だけでは足りない。腕全体を叩きつけ、額を打ち付け、足をばたつかせて扉を叩き続けた。

 闇は、背後まで迫っている。

「お願い! 誰か! 気がついて、助けてぇっ!」

 扉を叩く音に湿った音が混じる。砕けた拳が血の糸を引いた。叫んだ拍子に咳き込むと、口の中に血の味が溢れた。

「た、すけて……! お願い! 誰か……っ!」

 叫ぶ。叩く、打ち付ける。闇が迫っている。

「助けて!」

「俺の、子供」

 低い声と共に、視界が真っ黒に染まった。

 ――間に合わなかった。

 あたしは絶叫して、胎児の様に身を丸めると、そのまま意識を失い、闇の中へと落ちていった。

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