胴《2》
「……で、食べたんだから教えてよ。なんであたしだったのか」
この部屋に監禁されてからこっち、得意だった早食いも儘ならなくなってきているな、と一気に肉を詰め込みすぎたせいでもたれた胃をさすりながらあたしは男に声をかける。
「偶然、気まぐれ、ランダム。そう言ったら君は信じる?」
「往生際が悪くない? あんたは似たような女が何人も居る中から、見定めるようにしてあたしを選んだよね。というか、あんだけ約束だなんだと言っときながら、食べたら話すって約束を破る気なの?」
「約束してはいないけどね」
男はやんわりと胡乱な笑みを浮かべたが、あたしの視線を受けて眉を下げて苦笑する。
「分かったよ。でも、本当に聞いて気持ちの良い理由ではないと思うな」
「安心してよ。監禁されてあんたの肉を食べさせられてる時点で気持ちいいもクソも無いんだから」
はは、と軽く笑った男は、顔には笑みを貼り付けたそのままに、ふと表情を消す。
「君のね、目が」
「目?」
底の見えない黒い目があたしの目をジッと見つめる。
「君の目が、飢えた人間の目ではなくて飢えた獣の目をしていたから」
その、予想もつかない答えに、虚を突かれたあたしは思考を止めてマジマジと男の目を見つめ返す。その冥い目は揺らがず、口元にだけ浮かぶ微笑と共にあたしを見据え、
「自分の身体を捧げるのだから、相手は慎重に選びたかったんだ。俺はね、生きることに貪欲な、飢えた女を探していた。その中で、ただ金に飢えた女も愛に飢えた女も腐るほど見てきたけど、あの時の君みたいに、全てを欠いてなおその日を生きることだけに腐心するような、そうだな、獣じみた生への執着を瞳にぎらつかせている女には会ったことがなかった。だから、食べられるなら君が良いと思ったんだ」
あまりの言葉に、声も出なかった。息を吸うのに合わせて喉がヒュウと鳴ったのが、やけに鮮明に響いて聞こえた。
瞬時に沸騰したのは怒りだった。人の中でも特に裕福で守られた環境にあって、一段下の下等生物を見定めるように、底辺で人として扱われず獣のように生きざるを得なかった人達を、あたしを、見定めていたというその傲慢さ。屈辱。羞恥。惨めさ。
同時に、男が言ったその言葉はそう間違っていない、という自覚もあった。あたしの生は未来も明日も無い、ただその日を生き延びる事だけを命題とした男が言うところの「獣」の生で、人としての生き方を奪われながらも、どうにか人である事を失わないように藻掻いて苦しむ周囲にどこか冷ややかな視線を送っていた。
人としての尊厳などに拘るから苦しいのだと。人としての明日などを願うから絶望するのだと。
獣には明日も希望もない。ただ今日を生きればまた生きるべき今日が立ち現れるだけ。ただそれの繰り返しの生だ。そこには希望や祈りが無い代わりに、絶望することも失望することもない。
――人として生きようとすれば、惨めさに、苦しさに、辛さに押し潰されてしまうから。
いつからそうするようになったのか、あたしは人としての自分をあたしの生から消して生きていたのだ。
自覚はあった。自分で選んだという自負もあった。その事で同族の人間から見下げられようと、生きるために楽な道を選んで何が悪いと言い返すことも出来た。
でも、それはそもそも選ぶ道が限りなく狭められた中で、追いやられる様に選ばざるを得なかった道だ。
それを、苦労もなく、限りない道が開けていたであろう恵まれた男が。
「……ずいぶんな言い方してくれるじゃん」
低く発した声は我知らず震えている。
「あんたには分かんないでしょうね。人であろうとすればするほど苦しくて惨めな気持ちになる世界なんて」
男は表情を変えぬまま、腕を組んで小首を傾げる。
「ああ、分からない。俺は飢えたことも、路肩で凍えて寝たことも、身体を売ったこともないから」
しゃあしゃあと言ってのける男に暗い怒りが淀む。今まで男に対して覚えた明朗な怒りではなく、淀んだ黒い感情が燻って燃えるような。
「でも君も分からないだろう。俺のことなど」
人を食ったようなセリフに殺意が湧く。拳を握りしめ、
「知りたくもない」
吐き捨てれば、男は目を細め、
「俺も同じ気持ち。君の気持ちを知りたいとは思わない。ただ、俺に都合の良い属性の女を捜していて、それが偶然君だったと、それだけのことだよ」
「バカにしくさって。吐き気がする」
「馬鹿にしてるわけじゃない。見下してもいなければ軽蔑も侮蔑もしていない。――もし君が俺の言葉をそう受け取ったと言うのなら、それは、君自身が君の生き方をそう思っていると、そういうことなんじゃ――」
「ふざけんな!」
男の言葉を遮って吠えた。
「何の苦労もせず生きてきたクセに! 恵まれた環境で何でも与えられてきたやつが、適当言ってんじゃねえ!」
「前も言ったでしょう。確かに俺は物質的には恵まれていたけど、人は物質だけで生きる訳じゃない」
「それは恵まれてるあんただから言えるセリフだよ。そんなことも分かんない?」
男は珍しく困ったように眉尻を下げた。
「それは、そうかもね」
「かも? ナメたこと――!」
「だから言ったでしょう。気持ちの良い理由じゃないって」
言って、でも、と唇の端を上げて、
「俺は、君が思うところの恵まれた傲慢な金持ちの視点でもって君を利用しようと選んだ。そして君は飢えた獣の目でもって俺を利用しようとした。お互い相容れない視点でもってお互いを利用しあっているし、その関係には理解も共感も必要無い。俺は、それでいいと思っているんだけどな」
あたしは言葉の代わりに大きく息を吐き出して、男を睨み付ける。
「……利用しあっている、ってあんたは言うけど」
「分かってる。俺と君の立場はそもそも対等になどなり得ないね。だからこそ俺はいくつかのささやかな制約を除き君には限りない自由と恩恵を与えているつもり。――与えている、と言うその言い方がそもそも君にとっては業腹かな?」
「そうだね。腹が立つし、ムカつく」
「でも俺が与えた見返りによって君は今人生で最高の生活を送ることが出来ているのでしょう。それで手討ちにはしてくれないかな」
「……」
男の言葉に理があるのかどうか、あたしには正直分からない。ただそれらしい言葉で丸め込まれたような不快感は拭えない。けれどあたしは言い返すことはせず黙って男から視線を逸らした。
あたしが今一定快適な生活を送れているのは確かに男のおかげだ。それは、否定のしようがない事実である。そしてもう一つ、動かしがたい事実がじわりと心中にせり上がる。
あたしは、今与えられている全ての代わりに男の命を奪った。
人殺しを後悔し反省するような真っ当さなどもはや持ち合わせてはいない。第一、殺させたのは男本人だ。けれど、あたしが自らの手で男を殺しその人生を断ち切ったことは事実としてそこに在る。
あたしが目の前の男を恵まれて幸せだっただろうと詰れば、それはつまりあたしはその恵まれて幸せだった人生を男から奪ったと言うことになる。その人生は、今あたしが『与え』られたものと釣り合うものだろうか。
罪悪感ではない。ただ、あたしはあんな人生でも本気で望んで死のうと思ったことは一度も無かった。だから自ら殺され、その上食べられたいなどと願う人生なんて想像もつかないと、ただそんなことを考えただけだ。
「……そうだね。利用しあうだけの関係だもん。別に理解しあう必要も無かった」
発した声は自分でも驚くほど穏やかだった。男は僅か目を見開き、
「和解できて嬉しいよ。君と仲良くしていたい、というのは本心だから」
とやんわり笑った。
「納得は別にしてないし、結局あんたの言う理屈は分かんない。でも、別にもう知りたいとも思わないね」
「そっか」
男の笑みは相変わらず本心の読めない笑顔だ。けれど、本心など知らずとも良い、とそう割り切った所為なのか、その笑みをあまり不気味には思わなくなっている自分を感じていた。
「――賭けをね、しているんだ」
男が呟くように言った。その声の調子に違和感を覚え、あたしは男を振り仰ぐ。
「は? 何の話?」
「安心して。例え賭けに負けたとしても、俺は君を選んだ責任を取って、君に十分な物を与えると約束するから」
「……?」
「と言っても、俺が与えられえるのは物質だけ、なのだけどね」
そう言った声音は人を小馬鹿にしたような笑い含みの口調で、さっきの違和感は気のせいだったかとあたしは男をじろりと睨む。
「さっき仲良くしたいとか言った舌の根も乾かない内にあたしを煽って、やっぱりバカにしてるんじゃん」
「まさか! そんなつもりじゃないんだ」
「はっ、どうだか」
吐き捨てれば、男は何故か嬉しそうに目を細める。
「それじゃ有言実行して貰おうじゃん。物質は与えてくれるんでしょ? キャビアとフォアグラとトリュフが食べたい」
「うわあ、びっくりするほど安直。それにトリュフは食べる、ってより香りを楽しむものなんだけど」
その口調に、苛立ちが火花のように弾ける。
「そんなのあたしが知る訳ないでしょ! じゃあんたの知ってる高級食材全部!」
「はいはい、仰せのままに」
苛立ちを溜息と共に吐き出し、顔を上げれば男の笑い含みの視線と邂逅する。お互い目を見合わせ、フッとどちらからともなく笑いが漏れた。
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