胴《1》

 ピーッという低い電子音が扉越しに聞こえてきた。あたしはだるさの纏わり付く身体を引きずり、ベッドから這い出た。最近、妙なだるさや熱っぽさが頻発するようになった。まあ原因は分かりきっている。毎日三食、たまに三食以上の肉をメインに据えた食事に、思うがまま貪る惰眠。まともに動かなくとも営める日々の生活。

 毎日毎日今までの生活から見れば有り得ないほどの栄養を身体に詰め込み、ストレス過多な生活が急にストレスなんてものを感じる必要の無い――あの男の存在そのものがある意味ストレスとは言えるが、今まで晒され続けてきたそれに比べれば些細なものだ――生活へと移行したのだ。なんなら計ってはいないが体重だって確実に増えている。こんな状態では体調くらい崩れて当たり前だろう。

 今まで環境がどう変わろうが体調なんて崩さなかったあたしが、環境が良くなることで逆に体調を崩すだなんて。皮肉な笑みをもらし、あたしはすっかりあたしの『巣』とでも呼ぶべき場所と化した部屋を出て、台所に向かった。

 途中、ちらとリビングに視線を向ければ、背もたれがギリギリまで倒れた椅子に座っているような体勢で浮いた男が、目を半開きにしたまま腕を組んで静止していた。ここ二ヶ月ほど共に生活して分かったが、幽霊は寝ない代わりに、活動していない時はまるで電池が切れたような状態になる。男に言わせれば、究極の省エネモード。意識を失っているわけではないが、思考がまるで働いていない状態、なのだそうだ。そのあとに何やらごちゃごちゃと詳しく解説を挟もうとしていたが、小難しい話を聞く気にはなれなかったので全部無視した。

 姿を消して休むのが一番楽なんだけどね、という男に何処にいるのか把握出来ないのは何となく嫌だから姿は消すなと文句を言った結果、ああして静止している姿を部屋の中で時折見かけるようになった。いつもは隙の無いピシッとした雰囲気の男だけに、半目で変な体勢のまま固まっている姿が妙に間抜けでおかしく思える。

 軽く鼻から笑いを漏らし、あたしは炊飯器のボタンを押した。ふわりと酸味の強い湯気が香り立つ。湯気が薄れ姿を現すのは、トマト色のソースに浸った肉の塊と大根、ゆで卵。

「炊飯器ってこんな使い方もあるんだねぇ。俺、知らなかったよ」

「……っ!」

 背後からかけられた声に、反射的に手が動く。バン、と激しい音を鳴らして炊飯器の蓋が閉まった。

「……あのさ、あんた気配無いんだから予告なく話しかけんのやめろ、って何度も言ってんじゃん」

「ごめんごめん」

 全く悪びれない口調で男は笑い、

「それ、トマト煮? 凄いねぇ。最近の炊飯器は」

「焼くのも煮るのも最近飽きてきたんだ。なんか変わり種食べたくて。トマト煮はしたこと無かったし、ただ煮るのもダルいから」

「随分美味しそうな出来だったね。君、料理得意?」

「得意も何もまともな料理なんてしたの、ここに監禁されてからがはじめてとかそんなもんだよ」

「じゃあ潜在的に料理が得意なタイプの人なのかな」

「書いてある通りにするだけじゃん。得意も下手もなくない?」

「それ、それね、俺の知り合いが言ってたけど、『レシピ通りに料理を作れる』って凄いことなんだって」

 分量も時間も火加減も指示され、ついでに無駄に高くて高性能の器具ばかりが揃った料理を失敗することがあるのかよ、などと思いながら首を傾げれば、男は、

「君の特技にしなよ、料理」

 と邪気の無い笑みを浮かべる。

「……特技ねぇ」

 言いながらもう一度炊飯器を開ける。レシピは炊飯器で簡単豚肉のトマト煮、だとかそんな感じの名前だったはず。

 食器棚から皿を出して、スプーンも出そうと引き出しを開け、舌打ちをした。

「そりゃ洗わないと使えるのは無くなるって。食洗機もあるのになんで溜め込むかな」

 男の小言は無視して流しに向かい、皿や鍋、調理器具が積み重なった中からスプーンを引っ張り出す。水に当てながら汚れを指で擦り落とし、ピッピッと軽く振って水気を切った。

「……ねえ、洗剤は」

 背後の声に、

「面倒なんだよ」

 と返せば、信じられない、と言った面持ちで男が顔を近づけて、

「不衛生にも程があるでしょう。分かった、熱湯消毒しろとまでは言わないよ。だけどせめて洗剤で洗ってくれないか」

「うるさいなぁ」

 洗剤のボトルを握り、中の液を豪快に手にしたスプーンにぶっかける。

「これでいい」

「食器洗いってのはね、スポンジに洗剤をつけて洗うんだよ」

 無言でシンクの底を指差す。覗き込んだ男は、皿と鍋に潰され油汚れに塗れたスポンジを目にしたのだろう。沈痛な面持ちで額を押さえ、

「そこの引き出し。中に新しいスポンジが入っているよ。それを使って」

「なんでそんなことしなくちゃいけないの。あたしは無菌室で純粋培養されたお坊ちゃんとは身体のつくりからして違うんだよ。そんな、食べ残しの雑菌程度で身体壊したりなんかしないよ」

「……あのね」

「洗剤をぶっかけた分、少なくとも踏まれてアスファルトにこびり付いたパンよりは清潔でしょうよ」

 スプーンをたっぷりと覆った洗剤を洗い落とし、あたしは炊飯器の釜から残ったお皿に中身を移す。

「そんなに清潔な生活させたいならあんたがやれば? ポルターガイストとやらおこせるんでしょ」

「そんな器用に物を操れたら、それはもはやポルターガイストじゃなくてもはやサイコキネシスだと思わないか」

「知らない。あたし、無知だし」

 言い置いて机に向かい、皿を机に置いた。背後で溜息が聞こえ、その後にけたたましい音と、何やら皿の割れるような音が断続的に響くのを無視して、出来上がったトマト煮を口に運んだ。

 トマトの酸味が舌を刺激し、僅かに形を残す柔らかい果肉が潰れるのに伴って旨味が口全体に広がる。少し物足りないな、と置きっぱにしていた塩を振りかけて大根をスプーンで割ってすくい取る。

 最近、あたしは料理を「味わう」ということを漠然とながら思い出しつつあった。食事をゆっくり、落ち着いて味わうというのも随分と久しい感覚で、ああ、食事とは楽しいものだったんだな、という暖かい気持ちが、胃の腑におさめた温かさがじわりと身体に広がっていくように、全身をゆるりと満たしていく。ほっくりと崩れたゆで卵は、白身の中心部分がまだ白い。黄身のとろけたスープを掬って呑むと、なんとも言えないまろやかさに頬がゆるんだ。

「……分かった。これから、食べ物と一緒に使い捨ての食器を一緒に買うよ。それを使って。ね?」

 いつの間にか背後の破壊音が止んでいて、珍しくしょげた口調で男が話しかけてくる。いつものあたしなら、あんたらしくない声出して、と笑ってやるところだが、今は。

 ……せっかくトマト煮の美味しさを噛みしめていたのに。

 あたしは横目で男を睨むが、男の視線はあたしの目の前の皿に注がれていて、

「あれ、お肉全然食べてないじゃないか。駄目だよ。この一品だけしか食べないんでしょう。なら、野菜と一緒にお肉もちゃんと食べないと」

「食べたくないんだよ」

 あたしはスプーンで肉の塊をつつく。

 食事を味わえるようになった事の、唯一の弊害。

 それは、人肉は、それも素人がめちゃくちゃに捌いて切り分けた人肉は、はっきり言って美味しくない、という事実に気がついてしまったということ。

「だって不味いもん」

「不味い、って。傷つくなぁ」

 男は平坦な声で呟くように言う。

「不味いもんは不味いんだよ。だって人肉だよ?」

 あたしは言ってトマトの塊を掬った。とはいえ、不味い、と男の手前言いはしたがこの男の肉が今まであたしの食べたことがあるどんな肉よりも上等だ、というのは否定のしがたい事実である。なんせ捨てる寸前のクズ肉でもなく、腐りかけてもいない。それでも、やはり食べれば食べるほどこの肉を美味しいとは思えない自分がいた。今日のトマト煮だってそうだ。肉を一口、飲み込みはしたが、この料理が食材として想定していたのはこんな肉ではないのだろうな、ということが口に含んだ瞬間分かってしまう。

 それに、何故かこの肉を口に含んだ瞬間、急に食欲が失せてしまう。最初は一瞬人肉への嫌悪感から来るものか、とも思ったが、最初にこの男の肉を口にしたときから、人肉を食べる、と言う行為についての覚悟は決めていたし、実際に二日目以降は最早何も思うこと無く、ただの肉として人肉を消費し続けていたのだから。

 何故急に人肉を食べにくくなったのか、と言えば、原因ははやっぱり「味」を意識するようになった事が要因だろう。

「駄目だよ。君がここで安穏と暮らす条件は俺の肉を食べる事なんだから。ねえ。約束を破る気?」

「……っ! な、なんだよ」

 あたしに視線を寄越した男の顔からは、表情は削ぎ落としたように消えて、見開かれた目だけが妙な力強さを持ってあたしをじっと見据えていた。

「そ、そんな怒んなくたっていいじゃん。確かにあんたの目の前であんたが不味いって言ったのは、その、あれだったかも、しれないけどさぁ」

「味? ああ。いい気はしないけど、どうでもいい」

 想定外な反応にあたしは目を瞬かせる。

「俺だって君が憎くてこんなことをしているんじゃない。むしろ気に入っているんだ。だから、君とは楽しい同居生活を送りたいと心から思っている。ねえ、だからこそ俺は大概の我儘は聞いてあげるし叶えてあげようと思っている。実際、そうしてきた。だろう? だのに君は俺との数少ない約束すら守ってくれないというのかい?」

 そのねっとりとした口調に、苛立ちがつのる。

「君が自分の意思で俺の肉を食べてくれるなら、それが一番良いんだけど。俺だって君を脅して言うことを聞かせる、なんて乱暴な真似しなくないんだ」

「ハン、ペラペラと。何、金持ちってのは他人を支配する為の話術とかも必須のおべんきょ科目に入ってんの? お生憎様。お利口でお優しい純粋培養の上流階級様達に通じる手段があたしにもおんなじように効くとは思わない方が良いんじゃない。よかったねぇ。いっこ新しいお勉強が出来て」

 嘲るが、男は何も言葉を返さず、口角だけを緩やかに吊り上げ、笑みをつくって見せた。

「もう一度言うよ。お肉は、きちんと食べて。――勿体ないでしょう」

「嫌、とか言ったらどうせあたしを脅しにかかるんでしょう」

 あたしの言葉に男は笑みを保ったまま黙する。

「ほんっと、こんな変態異常性癖に監禁されるくらいならジジイに囲われた方がきっとマシだったよ」

「その君が言うところの変態異常性癖者のおかげで君はここ二ヶ月以上も快適な生活を謳歌しているのだろう。そりゃあ、君を招いたのは俺の意思だから、特別感謝して欲しいとは言わないけれど、約束くらいは守って欲しいな」

 あたしは黙って男を睨み付け、次いで溜息を零した。

「そもそもさ、なんであんたはこんなことしたのさ」

「内緒」

「……何がしたいの? なんか目的があってしてんでしょう。それとも、本当に自分が食べられてる図じゃないと勃たないガチの変態なの?」

「それも、今は内緒。だけど、君を傷つけたり害したり、そういうことが目的じゃないことだけはやくそくするよ。安心して。規定の日数を過ぎたら研究員が飛び込んできて人肉を食べ続けた人間のデータを採取しだす、なんて事にはならないから」

 悪戯っぽい口調で口の前に人差し指を立てた男に、

「じゃなんで選んだのがあたしだったの? あんたが金ばらまいてたあの場所、あたしみたいな女なんて掃いて捨てても余るほど居たじゃん」

 男は僅か瞠目し、数度瞬きをする。これは、さっきまでの質問と違い、即答で回答を拒否されなかった。食い下がれば答えてくれるかもしれない。あたしは身を乗り出して、

「せめて一個くらいは答えてくれたって良いじゃん。なんもかんも内緒じゃこっちも良い気分しないんだっての」

 男は悩むように腕を組み、唇を舐める。

「まあ、いいか。どうせ君のことはとっくに怒らせてるし」

「何? あたしが怒りそうな理由だってんなら、ならなおさら早めに聞いときたいね」

 男は何も言わず片眉を上げ、すぐに胡散臭いほどに完璧な笑みを作る。

「じゃあ、君がこのお皿をきちんと食べ終わったら、その話をしてあげようか。残したり戻したりしたら駄目だよ。全部、きちんと食べてね」

「……」

 あたしは心底むかつく男の笑顔を睨み付け、手にしたスプーンを乱暴に肉の塊に突き立てた。

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