肋骨

 ゴトン、と玄関から何かの落ちるような鈍い音がした。あたしはソファから跳ね起きて玄関に駆け寄る。足が縺れ、扉に肩から体当たりするような格好になりながらバカでかい郵便――宅配ボックスに手を突っ込んだ。

「お願い! 助けて! 閉じ込められてるの……!」

 突っ張った手の探る先は虚しく鉄板をなぞるだけ。叫ぶ声はボックスに籠もって反響し、外に響く気配は微塵も無い。

「――君も、本当に飽きないねぇ」

「……あんたこそ、まあよく器用にあたしの寝込みを狙うこと」

 飄々とした声の主を睨み付ければ、男はひょいと片眉をあげ、

「なんせ君が俺を睡眠の要らない身体にしてくれたもんだから」

 溜息と共に悪態を幾つか吐き出して、あたしはボックスに入れられたものを掴んで、手をずるりと引き出した。

「豚肉調理全集。頼んだ次の日に届くなんて流石だね」

 男は複雑そうな顔でレシピ本を見やり、眉間に皺を寄せる。

「それ見て作るの?」

「せっかくあんたがあたしのために注文してくれたんだから、使わないと勿体ないでしょ」

 あたしはネットに触らせて貰えないので、欲しいものを頼むときは必ずこいつを通さなくてはいけない。このレシピ本は、飽きない為に必要、と説得して注文して貰ったが、買った理由の半分はこの男への嫌がらせだ。ちなみに残り四分の一は実際に料理に使うためで、もう四分の一は、なんとかこの部屋から逃げ出すチャンスを作るためである。

 ……もう少し前までは、ネットで注文を頼む理由の四分の三が逃げ出すため、だったんだけどな。

 別に逃げたくないわけではない。この監禁生活に死ぬまで甘んじるつもりもない。けれど、あたしがこの異常な生活にどんどん慣れて適応しつつある、というのもまた否定のしようが無い事実であった。

 人間一人が生活するのには大きすぎる部屋。娯楽も飽きるほどの量、専用部屋が作られるくらいに用意されているし、ベッドは最高級な上にそれが複数、替えも沢山。日当たり換気も十分に考慮されていて、運動したい、と駄々を捏ねたら小さなジムかというようなトレーニングルームに案内された日には、驚きを超えて最早呆れた。

 不満と言えば話し相手と食事くらいのものだが、このイカれた男と関わる前のあたしの生活を思えば、そもそもそこに『不満を抱く』という状況それそのものが贅沢極まりない、と言うべきだろう。

 餓えにも暴力にも怯えず、快適な空間で思うがまま好きなだけ惰眠を貪っても食うに困らない。

 ……正直、この環境を厭えという方が無理な話だ。

 あたしは男に気づかれぬよう溜息を零し、台所へと行ってレシピ本を置いて冷凍庫を開ける。

「今日はどうするの?」

「肋骨でスペアリブ」

「いいねぇ」

「いいねぇっ、って」

 ここに詰まってるのお前の肉なんだけど、と冷たい視線を向ければ、男はあたしの気持ちを知ってか知らずか、本心の読めない完璧な笑みを浮かべる。

 肋骨部分は解体の際、個別にはばらさず塊のままにしてあった。昨日の内から冷蔵庫に移し解凍してあったそれを取り出して調理台の上に載せる。

「バラすから手伝って」

「はーい」

 妙に素直な返事と共に男があたしの背後に移動し、腕を重ねて指示を出す。あたしは男の指示に従いながら骨の隙間を通し肉を断ち軟骨を切り、肋骨の塊をバラしてスペアリブにしていく。

 途中、あたしが胸を刺して殺した時の傷痕にさしかかったが、男は声のトーン一つ変えることなく淡々とあたしに指示を出した。あたしも今更何か言う気にはなれなかったので、言われるがまま特に何も反応せず骨をバラした。ナイフの通った傷は、包丁で捌けば他の断面と大差なく、切り分け終わったスペアリブのバケツに放り込めばすぐに区別はつかなくなった。

「それにしてもあんた随分と解体に詳しいんだね」

「勉強したからね」

「勉強?」

 まさか人を実際に捌いたりしてないだろうな、と振り向くと、想定外に至近距離にあった焦げ茶の眼が驚いたように瞬いた。

「――ああ、鹿とか豚とか猪とか、そういうヤツ。流石に人捌くのはこれが初めてだよ。人生で最初で最後の解体が自分、なんてそう出来ない経験だよね」

「……返事に困る」

「はは、自分で殺しといて」

 乾いた口調で言い、

「本当はね、勉強の成果を纏めた人の解体サポートノート、なんてのも用意していたんだけど。でもこうして幽霊になれたおかげで直接教えられて良かった。やっぱりノート見ながらじゃ難しかっただろうしね」

 と言ってのける

「……つくづく、イカれてるね。あんた」

「まあ、……ねぇ」

 笑って流すかと思ったが、男は歯切れ悪く言葉を濁した。

「人って、環境で幾らでも変わっちゃうでしょう?」

「何。身の上話? エリート様の不幸話ならあたし、大爆笑と共に聞いてやるよ」

「それは好都合。笑い飛ばしてくれれば俺も少しはスッキリするかな」

「嫌み通じてないの? お前の話なんか聞きたくないって言う意味なんだけど。頭の良いバカはこれだから」

 あたしの言葉をまるきり無視して男は訥々と語りはじめる。

「俺に母が早くに亡くなった、ってのは言ったと思うけど」

「ああ、マザコンのきっかけね。改めて居もしない母親に執着するって」

「父親は全然生きてるんだけどね、でも」

 あたしの腕に被せられていた男の腕がすうと動き、包丁の刃を撫でる。撫でるといっても、男の体は包丁に触れる事は出来ないから、結果として指の腹が包丁に食い込み、割れたような絵面になった。

「父は俺を愛してくれなかったんだ」

「あーあ。かわいそーに」

「分かってくれる? 可哀想でしょう? お手伝いさんもろくに付けてくれなくて、与えられるのは金だけだった」

「金があるなら良いじゃん。金なんかあって困るもんじゃないんだから」

「実は困るんだよね、少し。ありすぎるのも考えもんだよ」

 あたしは舌打ちをする。

「話しても良いから手動かせよ。あんたが指示しないとスペアリブなんか捌けないんだから」

「ああ、ごめんごめん」

 再開した男の腕に合わせて腕を動かし、肋骨を一本一本バラしていく。

「父の常套句は、『お前は俺の息子じゃない』だった。つまりね、父は母の不貞を疑ってたんだ。いや、信じ込んでいた、かな」

「へえ。で? 実際のとこどーだったの」

「シロ」

「なんで言い切る」

「DNA鑑定をさせられたんだ。そしたら、俺は正真正銘父の子供だった」

「とんでもない親父だね。ってか、そんなら生まれたときにすりゃよかったのに」

「色々ねぇ、面倒くさい事情があるのさ。俺らみたいな立場の人間には」

「あたし、お前のそういう態度嫌い」

「――血の繋がりが分かっても、父は俺を愛してくれなかった。唯一俺の側に居てくれたのは、母の婚家からついてきてくれた爺やだけだった。爺やはいつも俺に、『お嬢様はお腹の中にいた貴方を心から愛していた』と言葉を変え言い回しを変え俺にずっと言い続けてくれた」

「で、そのじいやとやらの努力虚しく――いや、実って? あんたは気持ち悪いマザコンになりついでに性癖はひん曲がったと」

 半分流し聞きしていた男の話に適当な茶々を挟んだところで、あたしはふと男の発言に引っかかるものを感じた。

「母は俺の顔を見る前から俺のことを無条件に愛してくれていた。父は血の繋がった俺を愛さなかった。この違い、なんだと思う」

「……」

 あたしは手を止めて男の顔を振り仰ぐ。どこか遠くを見るように虚ろな、しかし熱っぽくあたしを――あたしのナカを見透かすような、不気味な視線が注がれる。口元は穏やかに弧を描いているのに、何故かそれを笑みと認識することが出来なかった。

「あ、んた、さぁ」

 本格的にキモいよ、という言葉は喉の奥に張り付いたまま、声になる事はなかった。怖い、と言うより、懼ろしい。

「……何、父親に愛されなかったことが、あんたのココロの、キズ、だとでも?」

 この男の前で怯えている姿を見せるなんて、癪に障る。その一心で背筋に走る震えをねじ伏せ、片方の口角を無理矢理上げて、引きつった笑みと共にあたしは精々強がってみせる。

「半分正解」

 答えた男はあたしから視線を外し、首を巡らせる。その向かう先を追い掛けるように視線を動かせば、男が凝視しているのはへその緒が入った引き出しだった。

「……」

「――どうだった? 俺渾身の不幸話」

 ふつ、と断ち切るように視線をあたしに転じた男は、さっきまでの雰囲気が一転、平素と変わらぬ胡散臭くて本心の読めない笑みを浮かべている。虚を突かれ、間抜けな吐息を漏らしたあたしは、

「ありきたり。お涙頂戴にしたって程度が低すぎる。その程度で同情引こうなんて、やっぱり金持ちエリートの御曹司は恵まれてんね」

 捲し立て、視線を落とすと手に持った包丁を力任せに、随分と小さくなった肉の塊に叩きつけた。硬い手応えと、ギ、という嫌な音。骨に阻まれた包丁を持ち上げれば、鋭利に研がれた刃が欠けていた。

「……あんたが指示サボるから」

「あー、それ、うちで一番良いやつだったのに」

 背後の残念そうな声を無視してあたしは包丁を放り出し、残った肉をゴミ袋に放り入れた。

「ああ、ちょっと!」

「包丁の欠片が入った肉なんか食べたくない」

「自分の身体が粗末に扱われるのは気分の良いものじゃないね」

「指示をサボったあんたのせいでしょ」

「それは君が勝手にさ」

 ぶつぶつ文句を垂れる男が視界に入らないようにしながら、あたしは鍋に適当に水を注ぐと火にかけて乱暴に蓋をした。

「終わり。煮込み完了するまであたしはもう何にもしない」

「ええ、レシピ本、せっかく買ったのに」

「味付けの時にでも見るかもね。気が向けば」

 平静を装おう。そう思っているのに、部屋へ向かう足が速まるのを自分の意思では止められなかった。扉を後ろ手に力一杯閉めて、布団の塊に身を滑り込ませる。

「……なんで」

 あの一瞬、何があれほどまでに不気味で恐ろしかったのか、自分でも分からない。けれどあの男の口調が、目線が、そして男の話に抱いた言い知れない違和感が、どうしようもないほど懼ろしかったのだ。

「……そうだ、あいつは異常者なんだ」

 この快適な生活に呑まれかけて忘れそうになっていたけれど、自分を殺させて、あまつさえ身体を食べるよう要求してきた――紛れもない異常者だ。しかも、その目的すら未だあたしは明かされていない。いつもあたしがあいつを好き勝手に振り回しているように見えて、あいつは肝心なところの主導権を決して手放したことは無いからだ。のらりくらりと躱し、はぐらかし、必要とあらばやんわりと、そうと気がつかないように、けれどあたしが確実に逆らえない脅しをかけすらする。

 あたしは全身に布団や毛布やシーツを巻き付ける。そんなことをしたってあたしの安全が保たれる訳なんてないと、分かっているのに、そうでもしないと身体の震えが収まらなかった。

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