脚
あたしが男を殺してから一週間ほどが経った。一旦この異常事態を飲み込んでしまえば、あたし一人には有り余るほどに大きいこの部屋での生活は思っていた以上に快適なものだった。空調の効いた、雨に濡れる心配も無い場所で好きなときに起きて、好きなときに寝て、誰に脅かされることもなく、お腹いっぱいご飯を食べられる。……男の幽霊は相変わらずうざったいが、まあ、本気で消えればいい、と思うほどでもない。
「豚足のレシピ本ってある?」
あたしの質問に男は目を丸くし、次いで心底イヤそうに顔を顰めた。
「ねえ、そろそろ俺の肉を豚肉扱いするのやめてくれないかな?」
「昔見たサイトでも人間の肉は豚肉に煮てるって言ってた」
「そんな根拠のない意見、鵜呑みにしないでもらえる?」
「じゃあ食べ比べしたいから豚肉と牛肉と鶏肉買っていい? 最高のグルメリポートしてあげるから」
「駄目」
間髪入れず返ってきた答えを、はいはい、と適当にあしらいあたしはレシピ本や雑誌をひっくり返す。
「本当は野菜も米も食べてなんか欲しくないんだよ。俺の肉だけで生活して欲しいんだよ? でもそれだと身体に悪いから……」
「はいはいはい」
自分の肉だけ食べて生活して欲しいなんて、何度聞いても気持ち悪いことこの上ない。何がどう拗くれたらこうなるのやら、理解出来ないし理解したいとも思わない。
「うーん丁度いいレシピはなさそうだなぁ。野菜も買いたいしそろそろ外に出してくれない?」
「ネットショッピングでいいでしょ。これまでもそれで困ったことはないんだし」
「……」
あたしは黙り込む。
この部屋の扉には、内側から暗証番号式のロックがかけられている。窓は開けられるが、網戸は固定され網戸のないところには鉄格子が嵌められている。まるで、誰かを監禁するために作られたかの様な一室。
「……困るんだって」
「何が困るっているの?」
「運動出来ない」
「トレーニング場あるよ」
「……人間には太陽の光が必要でね?」
「日当たりは抜群でしょう」
「他人との交流」
「俺がいるじゃん。大体殺人犯が他人と会ってどうするってのさ」
「幽霊は他人にカウントしねぇよ」
思わず口調が荒れる。
「ねえ、お願い。このまま閉じ込められてたら気が狂いそう」
今度は作戦を変えて憐れっぽく訴えてみたが、
「この程度で狂うような柔な女なら、俺は要らない」
媚びた上目遣いを人相の悪い三白眼に変貌させ、舌打ちを一つ打って、
「クソッタレの人でなし」
「今は確かに人ではないねぇ」
ああ言えば、こう言う。あたしは溜息を零した。言い合いでこの男に勝てるはずもなかった、とあたしは腕を組んであたしを見下ろす男を睨めつける。男はあたしの視線をまるで意に介す様子もなく、うっすらと目を細め飄々とした態度をとり続けている。
あたしは手に持ったレシピ雑誌の束をドサリと足下に落とすと、回れ右して台所から出た。そのままリビングに向かい、とりあえず一番最初に目についた引き出しを乱暴に開けた。
「……何をしてるの?」
流石に困惑を隠しきれないといった表情の男に、
「家探し」
とだけ短く答え、あたしは引き出しの中身を机にひっくり返した。
「ねえ、そろそろ気は済んだ?」
あくび混じりの男の声に、
「別に」
「酷いなぁ、これだけ部屋を荒らしといて。片付けはちゃんとやってよ」
「気が向いたらね」
あたしは大きく溜息をつく。何か鍵とか、暗証番号のメモとか、そういったなにかが万が一にも見つからないか、とほんの少し期待はしていたが、勿論そんなものが見つかるわけもなく。
それよりも気になったのは、この男の部屋のあまりの正常さだ。人一人監禁し、あまつさえ自分を食べるよう要求するような異常者の部屋だ。一体どんな物が出てくるか、と思ったが、出てきたものはごくありふれた日用品の数々。本や雑誌も、仕事に使っていそうな小難しいものと料理に関するもの程度。
普通、部屋にはそこに住んでいる人間の個性がある程度は反映されるものだ。しかし、この部屋に関しては……。
「ねえ、あんたって何をしてる人なの?」
「なに、って?」
「仕事とか、学歴とか、そういうの」
「そんなん聞いて何になるのさ。俺はもう死んでるのに」
「……」
「まあ、隠すようなことではないけどさ」
言って、男がすらすらと名前を挙げた学校や会社名は、そういったものに疎いあたしですら名前を聞いたことがあるような有名なものばかりで、あたしは言葉を失い唖然とする。
「マジのエリート様じゃん……」
「そう? 勉強さえ熟せれば入れるんだから、世間が思うほど凄いところではないと思うけど」
「そういうことさらっと言われると腹立つんだよね」
「へえ」
男は肩を竦めて腕を組む。
「でもそんなエリート様がなんでこんな、異常性癖に走っちゃたのさ。挙げ句殺されてんじゃ世話ないね」
「……君はさ」
男は少し考え込んだ後、表情を消してじっとあたしの顔を見る。
「さっき、いや、もっと前から俺を『エリート』とか『坊ちゃん』とか読んで、それを良いもののように語るけど、人間って物質さえ満たされていればそれでいいって訳でもないんだよね」
「物質『すら』も満たされてなかった人間にそれを言う?」
間髪入れずに言い返すと、男は一瞬顔を顰め、
「それもそうだ。少なくとも物質的な面では満たされていた分、俺は君ほど不幸じゃないね」
「……」
反射的に言い返そうと口を開いたが、目を細めて口元に手を当てている男の顔を見て、あぁ、これはあたしを怒らそうとして煽っているな、と悟る。それが分かったら、思惑通りノッてやる義理はない。
そういえば一カ所、探していない場所があった。男が立っている――いや、浮いている――場所の後ろにある棚。小さな三段の引き出しがついている。
無言で男の居る方向に歩き出すと、男は多少たじろいだ風だった。けれど、その場所からは動こうとしない。構わず突き進み、男の身体に手を突っ込んで後ろの小物入れを手に取った。
「……それは駄目」
男の表情が明らかに強ばった。余裕が削げ落ち、視線が忙しなくあたしと小物入れとを行き来する。
「へえ」
あたしはにやりと笑い、小物入れを手に取って物の散乱した机の上に載せた。
「やめて、それは」
「壊したりなんかしないよ。ここであんたの機嫌損ねたら面倒になるって事くらい馬鹿でも分かるから」
「……」
不安そうに表情を曇らせた男を無視して、あたしは引き出しの一番上を開ける。中に入っていたのは、通帳や保険証、判子などで、これは違うな、と二段目を開けた。母子手帳や古い紙の束に紛れ、焦げ茶色の木箱があった。ピクリと男の口元が動くのが視界の端に映った。
これか。
箱を取り出して蓋を開ける。中には白い綿が敷かれ、その上に載っていたのは。
――黒ずんで干からびた、小指ほどの大きさの『何か』。
「……は? 何これ」
男はまるでキスをするかのようにその干からびた物体に顔を近づける。
「これはね、へその緒。聞いたことある?」
「へその緒は知ってるけどさ。なんでそんな物をわざわざ取っといてるわけ? 気持ち悪くない?」
「だってこれは、俺と俺の母親が繋がっていたことの証明だからね。これを通じて俺は母親と血を分け合っていたし、栄養をもらっていた。これで繋がっていた間、俺は母親と違う生命体でありながら母親と全てを分け合い、母親と肉体を共にしていたんだ。これって、とても素敵だと思わないかい?」
「キッモ、マザコンかよ」
あたしは吐き捨てて箱を閉じて元の場所に戻した。
「一概に否定はしないけどさ。そうやって分かりやすくて強い言葉に括って理解したつもりの思考停止するのは良くないよ」
「ああ、そう」
小難しい言葉でインテリぶった論を展開されると、反論する気も失せる。
「ねえ、君のお母さんはどんな人だった?」
「は?」
無邪気、もしくはそう装おったトーンの言葉に顔を顰め、振り返る。
「なんで」
「俺、母親ってものがよく分からないんだ実は」
「……あたしだって似たようなものよ」
もう親が死んでから、両手の指じゃ足りないほどの年月が経った。それだというのに、両親が死んだときの記憶は脳味噌にこびり付いて、消したくても消すことが出来ない。いつものように授業を受けていたら、教室にいきなり親戚のおじさんが見知らぬ大人と血相を変えてやってきて、あたしを無理矢理暗い冷たい箱の様な部屋まで連れて行った。白い布からはみ出た三本の足。強烈な何か、薬品の匂い。鉄のような匂いと、薬品の匂いに紛れ、しかし消えない胸の悪くなるような匂い。
おじさんと大人が何か言い合っているのは分かったが、なにを言っているのかは全く頭に入ってこなかった。暫くして、大人の一人が足とは反対側の布を少し、まくり上げる。
『……この人は、君のお母さんかな?』
見えたのは顔の右上四分の一だけ。不自然に白く、目蓋は固く閉じられ、それなのに綺麗に櫛の跡が残る黒い髪だけが妙に浮いて見えた。これだけじゃ分からない、と布をもう少し捲ろうとしたが、周りの大人がそれを許してはくれなかった。
「どうしたの、黙り込んで」
「あんたが余計なこと思い出させたのが悪い」
投げやりに言って、へその緒の入っていた箱を閉じて元の場所に戻す。
「ねえ、母という存在は無条件に子供を愛すものだと思うかい?」
「そんなの、知るか」
「じゃあ君のお母さんは君を愛してくれた?」
ああ、うるさい。
あたしは苛立つ気持ちを隠さず男を睨み付け、
「なんだってそんなこと聞くんだよ。だからそんなの知らないって言ってんじゃん」
吐き捨て、一つの可能性に思い至る。口元を歪めて、
「もしかしてあんた愛されてなかったの? 虐待とか? ウケる、こーんな恵まれた金持ち坊ちゃんの家庭がオワってるなんて」
「残念ながら俺の母は俺を産んですぐに亡くなってしまったんだ。だから言っただろ? 俺は母ってものがよく分からないって」
「あっそ」
あたしは口をひん曲げて僅か考えを巡らせ、口角を上げた。
「あたしのママは死ぬときまであたしを愛してくれたよ。そりゃあ心から、目に入れても……なんだっけ? まあ、それくらいに」
嘘、ではないが本当でも無い。毒のように歪な愛なら無い方がマシなのだから。
そんな心情はおくびにも出さず、笑みを浮かべたまま男を見やれば、期待に反して男はぱあっと明るい笑みを浮かべた。
「ああ、そうかぁ。やっぱり、そうだよね。実の母というものは子供を愛するものだ。うん。やっぱりそうなんだぁ。嬉しいね」
「……きも」
あたしは男の反応に鼻白む。
「嘘に決まってんじゃん。あんな馬鹿女、あたしを愛してなんかいたもんか」
吐き捨てれば、男は困ったように首を傾げ、
「どっちが嘘なんだ? そこははっきりさせて貰わないと」
「は? 何? マジモンのマザコン? マジでキモいんだけど」
「ねえ、君が今ここに居られるのは誰のおかげだと思ってるの?」
……たかが母親がどうの、とかいう話題にここまで気持ち悪い執着見せるかよ、普通。
内心で吐き捨て、
「好きな方信じれば。あんたに都合のいい方。物事なんか見方によって幾らでも形変えるんだから」
投げやりに言って男に背を向けた。だから、男の発した、
「そっか」
という妙に上ずった声が、どんな表情から紡がれたものなのか、あたしには分からなかった。
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