腕
あたしは何処にでもいる、ごく普通の、ありふれた不幸な女だった。貧乏で馬鹿しかいない家に生まれて、中学の時に両親は借金と不幸をあたしに押しつけあの世にとんずらした。馬鹿な女が負債を背負い込めば、辿れる道なんて数えるほどしかない。馬鹿なまま奪われ続けていつのまにか大人になり、そしていつのまにか奪われるものすら底を尽き、食うに困った。
身体を売って稼いだお金は働いていた店にほとんど取られて消えた。それが違法だったと知ったときにはもう店はオーナー共々消えて更地になっていた。お金は返ってこなかった。
身体と、その日安心して寝れる場所とを引き換える生活が続いた。纏まったお金が手元にある日なんてほとんど無かった。あたしより弱そうな奴から奪い、そしてあたしより強い奴から奪われる。その繰り返しの生活だった。
『その男』は、一部界隈ではとても有名だった。
なぜならそいつはいつも仕立ての良い服を着て金のかかった出で立ちで、いかにも裕福そうな素振りで、あたしみたいな奴らに『ほどこし』をして回っていたからだ。
金と食料と、ついでに薄気味悪く張り付いた底の知れない笑顔をばらまいて、そして誰も彼もみっともなくそれに群がって縋り付く。
あたしもそいつの『ほどこし』に群がる一人だった。当然だ。だってあたしは生きたかったのだから。
死にたくない、ではない。生き延びたい、も少し違う。這い上がりたい、でもなければまともな生活をしたい、でも当然無い。
食べるものがあれば生きてられる。その日飢えて死ぬことはない。だから恥も外聞もなくその男に媚びを売って縋り付く。先のことなんか考えず、ただ今日のこの空腹を満たし生きることだけを考える。――先の事なんて考えるだけ惨めなだけだ。ただ、今一瞬命が繋がれば、それだけでいい。それ以外の事など、考えたくもない。
男はあたしと目が合ったとき、たっぷり数秒間の間あたしの目の奥を覗き込むようにして固まっていた。そして、
「……今夜、俺の部屋においで」
誰にも気がつかれないようこっそりとそうあたしに囁いたのだ。
チャンスだと思った。
言われたとおり指定された場所に行き、男のマンションに足を踏み入れた。暖かく柔らかい寝床。上下左右を囲みあたしを守る壁。静寂。甘い言葉。紳士的なエスコート。そして金。食べ物以外の全てを与えられ、その対価にあたしは求められるまま身体を与えた。
満足したらしい男と共に布団に潜り込み、男が眠るのをじっと、獣が狩りをするかの様に辛抱強く待った。……身体を重ねた女を無条件に信頼する男は少なくない。身体さえ重ねれば女が自分の所有物になったとでも勘違いするのだろうか。そんな馬鹿な話、あるわけないというのに。
今まで身体を与えた奴らと同じように、男もしばらくの後に無防備に寝息を立てだした。あたしは布団から這い出ると、鞄から、部屋から金目の物を物色した。部屋の中を徹底的に家捜ししても、男が目を覚ます様子はなかった。……いや、実のところ、男は寝入ってなどいなかったのだけど、あたしはその事にまったく気がつかなかった。
異様な気配を感じて振り向いたアタシの背後に、音もなく男は立っていた。手には包丁を持ち、白々と眩しい照明を背にして、微かに笑いながらあたしを見下ろしていた。
反射的に手から包丁を奪い取り、勢いをつけて肩から体当たりをした。痩せ細ったあたしの体当たりに、男は無抵抗にどうと背中から倒れる。勢いのまま男の腹に馬乗りになる。手に持った包丁を突きつける。
「……動くな!」
上ずった声は、きっと弱々しくみっともなかったことだろう。でも、男は抵抗することもせず、薄ら笑いを浮かべあたしを見つめた。
「何が望み?」
穏やかな問い掛けに、あたしは言葉を詰まらせる。
「……っ! お、お金! あ、あと、食べ物。そ、それから……!」
「いいよ、全部あげる」
なんか、これ逆じゃないか。
どこか現実から乖離したもう一人のあたしが呆れたように呟く。
脅されているのがどっちだか、これじゃまったくわかりゃしない。
「な、にを!」
「でも、条件がある。聞いてくれるかい?」
男は言葉を続ける。
条件とやらの内容は、自分の『肉』をあたしが食べること。そう、ふざけたことをぬかして、それで。
その場の空気に呑まれたのか、腹がたったのか、それとも空腹が頂点を越している時に現れた、目の前で『殺して食べて』なんていう肉の塊に欲望を抑えきれなくなったのか。
どれが原因だ、なんてはっきりした答えはあたしにだって分からなかった。
強いていうなら、その場の何もかもがきっと、信じられないほどに異常だったのだ。
あたしは、あたしの手を握り込む大きな掌に導かれるまま、男の胸に包丁を深く突き立てた。
「……て。ねえ、朝だよ」
「ん……」
耳元で聞こえた滑らかな声に、あたしはゆっくりと目蓋を持ち上げる。
「あさ、っていうより、そろそろお昼かな?」
顔をもたげ、しょぼしょぼとする目をこすってあくびを一つこぼす。いつの間に寝ていたのだろうか。どうやら机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。頬を乗せていた腕がじんと痺れている。
……まったく、昨日はとんだ一日だった。
……昨日?
「なにボーッとした顔しているの」
はっと声の主を振り返る。昨日、見た男があたしの顔を覗き込むようにして立っている。
「……夢か」
「何が?」
普段は寝た男と朝を一緒に迎えることなんかしない。執着されたら面倒だし、なにより財布をがめるのにだって都合が悪いからだ。
「……イヤな夢を見たの」
適当にごまかしてさっさとこの場所を離れよう。金も食料も奪うことは出来なかったけど、一晩ぐっすり眠れただけ上出来だ。
そう、思ったところで、自分の腹が心地よく満たされていることに気がついた。お腹いっぱい、何かを食べた。その次の日みたいな。
「多分ね、それは夢じゃないと思うよ」
その場を飛び退いて男から距離をとる。腕を組んで立ち、柔らかく、しかし得体の知れない笑みを浮かべる男の身体は、半分透けて後ろが見えている。
「あ……っ!」
「君は俺を殺して食べたんだよ。夢じゃない。俺の肉を焼いて食べて、そして血を抜いて皮を剥いで骨を外し内臓を出して切り分けて冷凍庫にしまった。見れば、思い出すんじゃないかな?」
あたしは口を目一杯開いて、大きく息を吸い込んで。
そこで、ふっと全身の力が抜けてしまった。
記憶が蘇るにつれて、ぼやけていた脳味噌が徐々に覚醒する。
考えてみれば、叫ぶのも、泣くのも、怒るのも、吐くのも、昨日の夜に一通り済ませてしまってしまったのだ。それを証すように、ざらついた喉は呼吸に合わせてずくずくと痛みを寄越す。
「……馬鹿馬鹿しい。幽霊だなんて」
「そう! 俺もそう思ってた時期があった。でも、本当に幽霊って実在するんだね。嬉しいよ」
あたしの反応が余程お気に召したのか、男は顔を輝かせ笑う。
「でも、実際問題俺は君に殺されてさ、こうして幽霊になったのだから、まあ仲良くやろうよ。それに、これで俺はより確実に君を守ってあげられる」
楽しげに喋り続ける男の隣を通り抜け、あたしは台所の隅にある馬鹿げた大きさの冷蔵庫を開ける。
中には赤と白とピンクで構成された肉のブロックが幾つか積んであった。人一人、いや、処理し切れていない箇所が冷凍庫に入っているから多分四分の三――もう少し少ないかもしれない――くらいの肉の塊。こうしてばらすと案外量としては少なく見えるものだ。その中から少し形の歪んだ円柱状の肉の塊を掴んで取りだした。確か、左の肘から先の肉。手首から先は切り落としてそのまま冷凍庫に入れてしまっているから、はっきりと区別がつくわけではないけれど。そのままブロックを台所まで持って行き、肉を薄く削ぎ落とす。
「お、朝ご飯?」
「……」
男の幽霊を黙殺し、淡々と骨から肉を削ぎ落とす。やがて皿には不揃いに薄くスライスされた肉がこんもりと積み上がり、そして油と残っていた血でベタベタになったあたしの手には、肉片が大分多くこびりついた骨が握られている。
「後で骨からダシを取る料理を教えて」
「お、いいねいいね! そうだよね。骨も美味しく食べないと勿体ないもんね」
はあ、と溜息をついてあたしはボウルに骨を放り込んで手を洗う、石鹸を泡立て、ギトついた感触を洗い流していく。
「ちなみにこっちの肉はどうするの?」
「ベーコンみたく焼いてベーコンエッグにしてパンに載せる」
「それは美味しそうだ。でもそれにしては量が多過ぎるんじゃない?」
「……野菜と一緒に食べれば美味しいんじゃないの」
「確かに!」
昨日あんなに肉一切れを食べるのを嫌がって抵抗していたのが嘘のように、皮を剥ぎ血抜きをした人体の一部はただの肉の塊にしか見えなくなっていた。人の肉を食べるなんて、冷静になったら発狂してしまうのではないか、とも思ったがそんなこともなく、それどころか『不味くはないが固いし筋っぽい』などと不出来なグルメリポートのような感想が脳裏をよぎるような有様だった。
人間、案外極限状態におかれれば順応は早いのか、それともあたしの置かれた状況が特殊すぎるのか、どちらかは分からないにしろ、たったの一晩であたしの脳味噌はこの異常な状況に順応することを選んだらしい。
まあ、考えてみればなかなか悪くない条件である。
人間の肉を食べる、というハードルさえクリアしてしまえば、食う物にも寝る場所にも困らず、なんといっても殺されたはずの本人が幽霊として隣にいるのだから暗証番号もロックも在って無い様な物で、殺人をごまかす隠蔽工作も難なくこなし、安全で心配することなど何も無い生活を手に入れられるのだから。
『普通』の人は知らないだろうが、倫理も道徳も金と心に余裕がある人間だけが声高に唱えられる贅沢品なのだ。あたしにそんなものを後生大事に抱えていられる様な余裕の持ち合わせはない。
「いやぁ、一晩で随分としっかり覚悟が決まったみたいでよかった。正直、昨日みたいに怯えて騒いで話にならななかったらどうしようかと思っていたんだ」
「こっちが本来のあたしよ。むしろ昨日の狼狽えまくったあたしの方がおかしかったんだ」
これは、半分は本当だが半分は見栄を張っている。それを知ってか知らずか、淡々とフライパンを用意して油を敷くあたしを男は笑いながら見る。
「……パンはそっち。トースターで焼いておけば?」
「そうだね。野菜は?」
「こっちの冷蔵庫」
「は、冷蔵庫が二つあるとかどんだけ金持ちなんだか」
「いかにも金持ち、な見た目だから君も俺に目をつけたんでしょ」
「よく分かってんじゃん」
あたしは口元を歪めて笑う。まったく、世間知らずのお坊ちゃんだと思っていたら、こんな特級異常性癖の持ち主で頭のおかしいド変態だったなんて。あたしの人を見る目も墜ちたものである。
「冷蔵庫が二つあるんだから包丁もまな板ももう何セットか在るんでしょ? 肉切った包丁で野菜を切りたくないの」
「分かる~。油つくのイヤだよね。こっちにあるよ」
「どうも」
フライパンに載せられた肉が景気よく焼ける音を響かせている間にパンをトースターに放り込み、野菜を適当にカットする。と、言っても野菜室にあった野菜の殆どが洗ってカット済みの物だったから、あたしが切ったのはトマトとキュウリくらいのものだ。
「随分と呆れた生活送ってんだね。自分で食材切ったことある?」
「失礼だな。切ったことがあるから包丁とまな板があるんでしょう」
「あっそ」
苦労知らずのお坊ちゃんが。と口には出さず吐き捨てる。世の中金のあるところには無駄な金が文字通り溢れてるくせに、無い所からはある分以上に奪われるのだ。まったく、不公平もいいところだ。
一足早く良い色に変化した小さめの肉片に塩を振り、つまんで口に放り込む。
「お味の方は?」
「美味しくはない豚肉」
「……豚肉は美味しいし、褒められたと思っておくか」
「勝手にそう思ってれば?」
適当に言ったが、肉の味の違いなんて本当のところ分かったもんじゃない。あたしにとって食べ物は美味しいか不味いか、ではなく食べられるか食べられないか、という二択しかないのだから。
サラダ用の肉片を取り分けて、フライパンに割った卵を落として蓋を閉めようとすると、
「あ、違う違う。水を少し回し入れてから蓋をするんだ。火はもう少し弱くして」
「は?」
「その方が圧倒的に美味しく焼ける。悪いこと言わないから」
美味しく食べられるならそれに越したことはない。言われるがまま火の勢いを弱め、水を回し入れて蓋を閉める。パチパチと水に反応した油の跳ねる音がした。
「目玉焼きは固焼き派? 半熟派?」
「知らね」
言って、少し首を傾げ、
「客に聞かれたときは固焼きが好きって言ってたな。作らされるとき楽だから」
「そっか。なら半熟にしよう。そこの布巾取って、濡らしておいて」
男は楽しそうに笑って、そして口を引き結んで真剣な眼差しでフライパンを見る。
「……今! 火を止めて、濡れ布巾の上に載せて!」
「早くない?」
「いいから。ほら、早く」
確かに、言われたとおり目玉焼きを皿に移せば、焼き上がりは完璧な半熟だった。ふっくらとした黄身を割れば、とろりと柔らかな黄金色がきつね色に焼けたトーストに零れた。
「……美味しいじゃん」
「それは良かった」
ベーコン代わりの肉が人肉だということを差し引いても、それは絶品と言わざるを得なかった。金のかかった食事は庶民的な調理をしても随分違う。
「ああ、俺も食べたいなぁ」
「自分の肉を?」
「まさか! そうじゃなくて、ベーコンエッグトースト。こういうの、あまり食べる機会なかったから」
「それは、おかわいそうなことで。いつもいつもさぞ美味しい高級フレンチだの高級中華だのばっか食べてたんでしょうね」
「それは成金か半端な金持ちの発想だね。俺の家には色々なジャンルの料理を修めた料理人が居たから。でもそんなシェフに『ベーコンエッグトースト』だなんてリクエスト出来ないでしょ。申し訳なくて」
あたしは舌打ちをして横目で男を睨む。悪意から来る見栄や自慢ではなさそうなところが余計に腹立たしい。男はあたしの舌打ちも視線も一切意に介した様子はなく、
「せめて香りだけでも楽しみたいけど、無理だもんなぁ」
「匂いも無理なの?」
「みたいだね。意識ははっきりしているけれど、この世界の物には何も干渉出来ないね。つまらない」
「ああ、良かった。今でさえウザくてたまらないのに干渉まで出来るんじゃうっとうしくてしょうがなかっただろうから」
「人の肉と人の金で腹を満たしておいて、随分勝手を言うねぇ」
「お前が勝手にクソみたいな条件あたしに突きつけてきたんだろ。誰が好きこのんでこんなことするもんか」
視線を皿に固定し、あたしはトーストの残りを強引に口にねじ込んだ。これ以上お前となんか話したくない、という子供じみた意思表示である。男は呆れたように片眉を上げ、ふんと鼻を鳴らした。
「ごちそうさま」
「お皿は食洗機が――」
男を無視してシンクにお皿を放り込む。足取り荒く客間と説明された部屋に向かって扉を開けた。
「寝る」
「あ、ちょっと」
「すり抜けてきたらぶっ殺してやる」
男が何か言いたげに口元を動かしたが、あたしはそれを無視してバンと勢いよく扉を閉めた。服を脱ぎ散らかして高級そうなベッドにダイブする。多分壁をすり抜けるのは容易いだろうに、男があたしのもとに来る気配は無かった。
柔らかく沈むベッドに身体を預け、あたしは目蓋を閉じた。ついさっきまで眠気なんか感じていなかったはずが、ベッドに横になった瞬間まどろみが全身を包み込んだ。柔らかいところで寝るのは久しぶりだ。あたしは軽い布団を身体に巻き付け、微睡みに意識を溶かしていった。
――ドンドン、と扉を叩く音があたしの入眠を妨害する。無視して眠りに集中しようとしたが、音は止まない。
「……クソッタレ」
吐き捨てて、枕元にあった時計を扉に投げつけた。盛大な音がして時計が壊れ、扉に大きな傷がついた。
そのまま暫く扉を睨み付けていたが、扉を叩く音は聞こえてこない。静かになった、ともう一度布団に潜り込もうとしたが、
「ねえ、殺人の証拠隠滅と手回しは早いとこやっといた方がいいと思うんだけど。ねえってば。多少疑わしい程度ならともかく致命的に疑われて部屋にでも乗り込まれたら流石にアウトだよ」
「……ああ、もう」
あたしは床に散乱した時計の破片を踏まないようにして扉を開ける。男は子供の様に目を輝かせ、
「新発見、俺って物には触れないけど、所謂ポルターガイスト現象起こせるみたいなんだ」
と子供の様にっこり笑った。
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