蛛網の共喰い

ウヅキサク

プロローグ


 あたしは肉を焼いている。

 パチパチと油の爆ぜる音。数日間ほとんど何も食べていなかった空腹の胃をくすぐる香ばしい匂い。腹の鳴る音が広く、しかし空虚なマンションの一室に響く。

「お、いい感じ。そろそろひっくり返したほうがいいんじゃないかな」

 後ろから男が話しかける。あたしは言われるがままにトングで肉を返す。赤みの強い茶色が油でテラテラと濡れて光る。

「あぁ、美味しそうだね。上手上手」

 男は心底嬉しそうに手を叩く。しかし音はしない。

「……うるさい」

 肉の焼ける甘い香りが鼻腔を通り抜けて脳に突き抜け、くらくらとあたしの理性を揺さぶる。早くこれを食べたい、と胃が音を立てる。

 ああ、腹が減った。

「焼肉のタレが冷蔵庫にあるよ。塩はこっち。そうそう、ネギだれもあったはず」

 今すぐ目の前で焼けている肉にかぶりつきたい。……でも、これを食べてしまったら。

「そろそろいいんじゃないかなぁ」

 男の声はウキウキと弾むような口振りだ。

「ほら、いい色に焼けて、食べ頃だよ。味の保証は出来ないけど栄養には自信がある。なにしろ――」

 この時のためにずっとバランスの良い食事と適度な運動を心がけてきたんだから。

「……黙れっ!」

 あたしは男が言い終わる前に身を翻して背後を腕で薙ぎ払う。

「早く火を止めてよ。せっかくの肉が焦げてしまう」

 私の腕は男の胴をすり抜けて虚空を薙ぐ。男は目を細め、ゆったりとした動作で腕を組み、そして小馬鹿にしたように口元を歪める。

「俺との約束、破る気じゃないだろうね」

 約束。あたしの脳裏に不気味に明るい声が蘇る。

 ――殺していいよ。お金も好きなだけあげる。この部屋だって、自由に使わせてあげる。そのかわり――

「消えろ、黙れ、消えろ……っ! こんなの……!」

 こんなの、ありえない。

 あたしは耳を塞ぎ、絶叫する。油の焼ける匂いに混じって強い鉄の匂いが鼻をつく。匂いの元は部屋の奥。見なくても分かる。知っている。だって。

「幻覚だ……。こんなの、幻覚だ! ありえない!」

 ナイフを胸に突き立てた。あたしが刺した。馬乗りになって、大きな手に導かれるまま、肋骨の隙間を突き通して。

 口から赤い血を零しながら、男は『首の血管もしっかり切断したほうがいい。血が残っていると味が落ちる』などと余裕ぶった声で言って、そして笑みを浮かべたまま血泡を吹いて、そのまま眠るようにこと切れた。

「そうかもね。俺は、罪の意識に苛まれた君が生み出した幻覚かもしれない。それは君にしか分からない」

 その時とまるで変わらない余裕綽々といった声は、耳を塞いだ掌を容易くすり抜けてあたしの脳みそを揺さぶる。

「でも俺が幻覚だと君にとっては都合が悪いだろう? だって」

 君は、俺を殺したんだから。

「お前が殺せって言ったから! あたしは、あたしは……!」

「殺せ、とは言っていないよ。殺していいよ、って言ったんだ。……いやあ、本当に幽霊になれるとは。でも、よかった。これで君がちゃんと約束を守るか見る事が出来るから」

 男は、いや、男の幽霊はそう言って笑う。心底楽しそうに。

 ……狂ってる。こいつも、あたしも、この空間も、何もかも。

「いい加減にしないと俺は君を助けるのをやめるよ? そうなったら困るだろう? 俺の助けが無いと君はただの殺人犯だ。あまつさえ殺した男の皮を剥ぎ肉を削ぎ落としまるで料理するように焼いた猟奇殺人犯。ああ、なんて悍ましい!」

 芝居がかった口調でいい、白い歯を見せて歪んだ笑みをこぼす。その笑いは、逃げ場を失い抵抗の術が無い弱者を弄ぶ強者のそれそのものだ。

「黙れ、黙れ、黙れ……っ! 消えろ!」

「死にたくないんだろう? 捕まるのも嫌なんだろう? なら俺の言うことをきいてもらわないと。……ほら、いい香りだよ。ねえ、君の話じゃ、一週間もまともなものを食べていないんだろう」

 男の出した条件。それは。

「いやだ、食べたくない……」

 ――あたしが、この男の肉を食べること。

「……ふうん」

 つまらなそうに呟いた男の目がスウと冷える。

「ああ、もういいや。好きにしたら。このまま外に出て、逮捕されて、一生を惨めに幸せになんてなれないまま、犯罪者として後ろ指指されながら生きるんだね」

「……黙れ……」

 高いところからものを言うな。苦労一つしたことない癖に。嗚咽混じりにうめくと、男は一瞬目を見開き、そして意地悪く表情を歪める。

「あーあ、せっかく惨めで哀れな貧乏人から脱却で出来るチャンスだったのに。そんなんだから、君は馬鹿で間抜けで惨めな売女から抜け出せないんだ」

「ふざけんな!」

 あたしは反射的に肉の載ったフライパンを手に掴み、男に向かって投げつけた。フライパンは頭部を貫通し、壁にぶつかり、すさまじい音を立てて落下した。壁が凹み、黒い焼け焦げが残る。

「食うに困ったこともない癖に! 今日生きるために明日の全てを奪われた事も、小便啜って喉の乾きを癒したことも、食べかけの汚いパンのために身体を売ったことも、生きるために死ぬんじゃないかと思うほどの暴力を振るわれたこともない癖に! 苦労知らずのクソガキが、いっちょ前に人見下してンじゃねえ!」

「不幸自慢はそれで終わり? なんだ、思ってたより大したことないんだね」

「死ね! お前なんか殺してやる!」

 怒りに任せて絶叫し、手近に何か武器になるものがないか、と考えかけ、あることに思い至る。

「さっき殺されてるんだけどね」

 小馬鹿にしたような笑い含みの声に脱力し、あたしは大きく深呼吸をした。

 心が奇妙に凪いでいる。いや、凪いでいるというよりも、恐怖も戸惑いも嫌悪も混乱も全てを怒りが塗りつぶしてしまったせいで、その怒りが引くのに合わせて妙に冷静になってしまった、という感じ。

 あたしは、腕を組んであたしを見下ろしている男を睨み据える。

「……ほんとうに、食べたらあたしを守ってくれるんでしょうね」

 吐き捨てれば、端正に整った男の顔いっぱいにいやらしい笑みが広がる。

「俺は約束を破らないよ。君が約束を破らない限り」

 くそったれ。もう一回死んじまえ。と心の中で目の前の幽霊にありったけの罵詈雑言を投げつけて、あたしは男の身体を通り抜けて転がっているフライパンを拾い上げた。

 肉を拾って皿に移すと、真っ白い皿が黒い煤でべたりと汚れた。焦げ臭い匂いが一面に立ち込めている。

「あ〜あ、こんなに焦げてしまった。……しょうがないから新しく焼き直してもいいよ。地面にも落ちちゃってるし特別に許可してあげる」

 男の声を無視して皿を目の前に持ち上げれば、焦げた匂いの中に甘く芳しい肉の香りが混ざっている。胸が悪くて気持ち悪くて嫌悪でいっぱいで、それでも身体は正直だ。目の前にある栄養に、食材に、美味しそうな肉に、途端に反応をしめす。

 口いっぱいに溢れた唾液が口の端から顎を伝い滴った。これを食べれば栄養になる、腹が満たされる、生き延びられる、と心を置き去りにして身体が歓喜の叫びを上げているのが分かる。分かってしまう。

「……いただきます」

 言うと、男は意外そうな顔をした。あたしだって意外だ。こんな言葉を言うつもりなんて毛頭無かった。でも、口をついて出てしまった。

 あたしは自嘲気味に笑みを漏らす。今まで生きてきた中でこんなに『いただきます』と言うに相応しいシチュエーションに遭遇したことがあっただろうか。今のあたしは、きっとこの国の誰よりも『いただきます』という言葉の重さを知っている。

 心の準備だとか、覚悟を決める時間だとか、そういった『何か』が必要かと思ったがそんなものは全く必要なかった。食べると決めたつぎの瞬間、あたしの身体は嬉々として塩も何もふらずに目の前の肉片にかぶりついた。

 最初に舌を刺したのは強烈な苦味。当たり前だ。これだけ焦がしたのだから。少し遅れて、強烈な甘みと旨味が口いっぱいに広がり脳味噌を突き抜ける。思わず喉から呻き声が漏れる。夢中で肉片を咀嚼し、少し固いそれを飲み下した。

「うう……」

 口の中に残る肉の味。それはとても甘美で、美味しくて、だから、余計に。

「おえ、う、あ、ああぁ……!」

 あたしはその場に蹲って嘔吐く。喉の奥に手を突っ込んで、ささくれだった指で喉奥をついた。爪でひっかき、掻き回す。

「ううぅ……あ、いや……あ……!」

 口からは唾液と、胃液と、僅かな肉の欠片。そして血液が滴っただけだった。

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