第6話 宗教と洗脳

 今の新興宗教というのを見てみれば、

「どれほど、宗教における、洗脳というものが、いかに人々の心を打ち、盲目にしてしまうか?」

 ということになるであろう。

 そして、

「宣教師というものが、どれほど恐ろしく、自国を亡国にしてしまうか?」

 ということが分かってか、戦国時代から、

「キリスト教の布教を禁止した」

 ということが結構あった。

 そのとどめが、

「江戸幕府による、鎖国政策だ」

 といってもいいだろう。

 これに関しては、

「江戸幕府のファインプレーだ」

 といってもいい。

 キリスト教を受け入れたり、禁止したりというように、二転三転したのは、何といっても、

「海外貿易」

 というものが、引っかかってくるからだ、

「キリスト教を禁止すると、海外貿易ができなくなる」

 ということで、金儲けの最大の災害となる。

 それと、

「キリスト教の教え」

 とを天秤にかけ、

「ギリギリのところで、その問題を考えていたことであろう」

 というのが、問題だったのだ。

 宗教というのは、どうしても、

「来世で」

 あるいは、

「あの世で、幸せになれる」

 という発想である。

 だから、

「この世でいい行動をとっていれば」

 という条件でということである。

 これは、

「クモの糸」

 のような、

「天国と地獄」

 という発想と同じことであろう。

 ただ、あの話は、辻褄の合わないことが多すぎる。やはり、発想として、

「生きている時代が違う」

 ということになるのだろうか。

 とにかく宗教は、一言でいえば、

「来世に救いを求める」

 といってもいいだろう。

 だから、この世で答えが見つかるわけもなく、

「この世を犠牲にする」

 という発想になるのだ。

 しかし、もし、生まれ変わって来世になった場合、どうなるというのだ?

 そもそも、来世という発想がいる人が本当にいるのだろうか?

 というのは、

「前世の記憶のある人が、どこにいるというのか?」

 ということである。

 つまりは、

「生まれ変わって来世になったとして、前世の記憶がないわけだから、生まれ変わって幸せになれたとして、それを本人が自覚できるわけではない」

 ということだ。

 要するに、

「自分が誰の来世か分からない。そして、自分の前世が誰だったのか分からない」

 ということであり、いくらこの世でいいことをして、来世で幸せになったとして、それを誰が証明してくれるというのだろうか?

 宗教の教えで、

「天国で神や仏になれる人間なんて、ほぼいない」

 という状態であれば、せめて、この世でいいことをした報いがあるとすれば、

「地獄に行かずに済む」

 あるいは、

「人間に生まれ変われる」

 というくらいのことである。

 もし、生まれ変わるのではなく、あの世にいると考えた時。

「天国にもいけず、地獄にいくわけではない」

 となると、

「じゃあ、一体、どこに行くのだろう?」

 ということになる。

「あの世で、生まれ変わることもできず、天国にもいけず、暗い世界に、永遠に閉じ込められる」

 ということになるのか?

 そんなことを考えると、

「地獄と何が違うのだ?」

 ということになるだろう。

 また、

「人間に生まれ変われる」

 ということになったとしよう。

 こちらも、

「人間に生まれ変わって、幸せなのか?」

 と考えたとしよう。

 結局、誰に生まれ変われるのかどうか分からない。

 ひょっとして、前世よりも、もっとひどい状態で生まれてくるかも知れない。

 さらに、

「生まれてきた時代が、戦争中の国で生まれるかも知れないし、独裁国家で生まれ、自由も何もなく、さらには、食べるものもない」

 という時代に生まれてくるかも知れない。

「独裁者の身の上に生まれてきて、将来は、国王への道が確定している家に生まれてくるかも知れないが、それが幸せだといえるのだろうか?」

 最初から道は決まっていて、自由も何もない。

 しかも、実際に独裁者となった場合、

「時代が急変し、クーデターが起こったりすれば、処刑されてしまう」

 という運命が待っているといってもいいだろう。

 人間というのは、生まれてくる自由はないのだ。

「誰から生まれてくるか?」

「どの時代に生まれてくるか?」

 など、要するに、

「人間は生まれながらに、不平等なのだ」

 ということである。

 よく、自由というものを振りかざす発想をする人間が、

「人間は生まれながらに平等だ」

 などというやつがいるが、

 そんなものはまやかしであり、現実ではありえないことだ。

 それこそ、

「気休め」

 であり、

「宗教による洗脳だ」

 といってもいいだろう。

 だから、

「人間に生まれてきたから、幸せだ」

 などとは決して言えないだろう。

「じゃあ、動物に生まれた方がよかった」

 というのか?

 ということであるが、これも、ハッキリと、

「人間に生まれてくるのとどちらがいいのか?」

 ということ比較はできない気がする。

 確かに、動物の世界では、

「弱肉強食」

 の真っただ中に置かれるが、幸か不幸か、動物には感情がない(と言われている)。

 つまりは、

「もし、自分よりも強いやつに食われたとしても、感情がないので、恐怖を感じたとしても、本能からで、あっという間の出来事ではないだろうか」

 といえる。

 だが、人間の場合は、死を目の前にすると、

「死への恐怖」

 だけではなく、死ぬということへの感情がいっぱい出てくる。

「ここで人生が終わってしまうのか。あれもしたかった、これもしたかった」

 などという感情があるのだ。

 詩を迎えた時こそ、

「感情などなければ楽になれるのに」

 という人間に生まれたことを後悔することになるだろう。

 しかし、もっといえば、

「だから、宗教に入信するんじゃないか」

 ということになるのだろう。

 結局、

「人間というのは、弱い動物なので、宗教にすがるしかない」

 ということになるのであろう。

 それが、

「洗脳」

 であるということを分かっていない。

 ただ、洗脳する側の宗教に、

「何の得があるというのか?」

 ということも考えさせられる。

 確かに、

「信者を増やす」

 ということが一番の目的だということであろうが、

「じゃあ、信者を増やして、それが何になる?」

 ということを考えた時、

「それこそ、今の世界的なテロ集団を思うと、恐ろしいという発想でしかない」

 といっていいだろう。

 あいつらは、

「自分たちの目的のためには、死をも恐れない」

 ということで、

「自爆テロ」

 を平気でやるのだ。

 つまり、教祖というか、上層部は、命令するだけで、信者に対して、

「来世で幸せになる」

 とでも言って、

「彼らの純粋な気持ちを犠牲に使って、自分たちの保身であったり、利権を守ろうとしているだけなのだ」

 といえるだろう。

 だが、前述のような発想が少しでもあれば、

「自爆テロ」

 というものを自分が行っても、結局何も変わらないということに、気づかないのだろう。

 やられた国は、当然、報復に出るだろう。

 自国が空爆などをされて、それに敵うわけもなく、結果、自爆テロを行った人たちの家族が、

「報復」

 という形で、犠牲になりかねない。

 そうなったとして、

「自爆テロ」

 を命じた連中が補償をしてくれるわけもない、

 そもそも、保証できるわけもなく、

「死んだ人間が生き返るわけもないのだ」

 完全に、犬死ということであり、だから、自国が、幸せになれるわけでもない。

「泥沼の戦闘状態が、永遠に続く」

 という未来が待っているだけである。

 来世というものに、希望を持ったところで、分かるはずのない未来の世界」

 これこそ、まやかしといってもいいだろう。

 どこをどうとっても、

「未来や来世に救いを求めることが幸せだというのだろうか?」

 何といっても、

「見えてくるはずのないもの」

 それが、来世なのである。

「見えないのをいいことに、来世というものを解こうとしているのだろうが、見えないことがどういうことなのかということを、洗脳によって考えられないようにしているのだろうか?」

 だから、

「死を恐れずに戦う」

 という集団が出来上がるのだろう。

 かつての、大日本帝国は、そうではない。

「天皇を敬い、自分たちが神の国に生まれた」

 という洗脳を確かに受けているだろうが、宗教のように、

「来世に救いを求める」

 ということをしているわけではない。

 基本的には、

「愛国心」

 そして、家族への愛情というものが強かったのではないだろうか。

 そういう意味で、

「国民は皆、天皇の子供」

 といってもいい発想で、

「大日本帝国という国は、一つの大きな家族であり、家族の安全を守るのは、自分たちの役目だ」

 ということで、

「死を恐れずに戦う」

 ということだったのだろう。

 とはいえ、

「死が怖くない人間などいるわけはない」

 どうしても、大東亜戦争というと、

「カミカゼ」

 と呼ばれる特攻隊の存在や、昔からの、武士道による、

「ハラキリ」

 という発想から、欧米諸国には、信じがたい時代になっているといってもいいだろう。

 それを考えると、

「さすがに、最後は、特攻であったり、玉砕」

 などという、

「生き残ってはいけない」

 という風習があったのだが、最後は、狂喜乱舞と言った精神状態だったのかも知れない。

 人間というのは、究極である

「死」

 というものを目の前に迎えると、考えられないような発想になったりするということになるのであろう。

「人間というものは、どんな時代を生きるということで、その運命を、数奇なものとして、考えざるを得ない」

 といえるであろう。

 だが、これは、あくまでも極端な例であり、

「自爆テロ」

 などの宗教団体であったり、

「カミカゼ」

 という、

「大日本帝国末期:

 というのは、

「常軌を逸した」

 という状態だったといっても過言ではないだろう。


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