第4話 お釈迦様と閻魔様

「タイムスリップをなぜ引き起こすのか?」

 ということに関しては、いろいろ言われているようだが、

「それだけ、いろいろな理由が考えられるからではないか?」

 といえるのかも知れない。

 しかし、逆に、

「タイムリープ」

 という問題になると、今度は逆に、一つにまとまるのだ。

 それは、

「タイムループ」

 に関しても同じことで、どのように解釈すればいいのかを考えると、出てくる答えは面白いものとなるといえるかも知れない。

「タイムリープ」

 という考えが、どこから出てきたのかというと、

「昔の、あの時に戻って、その瞬間からやり直すことができれば」

 という時間のことをいうのだろう。

 それは、あくまでも、時間が戻るということだけではなく、

「自分の今の意識を持ったまま」

 ということで、

「結果を知っている」

 という意味では、

「これ以上、卑怯で、インチキなことはないだろう」

 と言われるかも知れないが、それでも、

「その時からやり直したい」

 と思うのは、

「結果さえ知っていれば、その時の行動とまったく逆のことをすればいい」

 ということになるのだろうか?

 ただ、実際には、そんなにうまくいくのだろうか?

 というのも、あくまでも、まわりには、不自然さを与えないというのが、大前提ではないだろうか。

 なぜなら、

「自分が正反対のことをしたとしても、まわりが、自分の記憶と寸分狂わない行動をしてくれてこその、正反対の行動だ」

 ということになるのではないか。

 というのも、

「少しでも違う行動をとられると、記憶と違う行動を自分がしても、まわりまでが違えば、出てくる答えは、その瞬間から変わっているわけなので、それは許されない」

 ということであれば、

「俺が違う行動をしても、相手の態度が変わらない行動をしなければいけない」

 ということになるのだ。

 もう一つ言えば、

「それがどれほど昔のことなのか分からないが、その時の行動を隅々まで覚えているなど、できることなのだろうか?」

 ということである。

 下手をすれば、数分前のことを覚えているか?

 というと覚えていないだろう。

 しかも、今から思えば、

「あの時が、人生のターニングポイントだったのではないか?」

 と思ったとしても、あの瞬間はどうだったのだろう?

 後になって、

「あの時がターニングポイントだったんだ」

 ということが分かるのであって、その時に分かっているのであれば、その時点で、何とかしようとしていたはずだ。

 しかも、その時の行動が正しかったのかどうか、少なからずの時間が経っていないと、その答えが分かるはずもない。

 時間の経過というのは、

「必ず、答えは一番最後にあるもので、しかも、それが、その時の答えだったということに、いつも気づくとは限らない」

 というものだ。

 気づいたとしても、「それが本当に答えだったということが、自分の中であっても、確定するということがいえるのは、いつのことであろうか。

 それを考えると、

「人生などというものは、何が正解だったのかというのは、死ななければ分からない」

 といっても過言ではないかも知れない。

 そんなことを考えていると、

「あの時が、ターニングポイントだった」

 というのが、思い浮かぶだけすごいだろう。

 一生懸命に考えても、本当にそこにたどり着けるかというだけで、大変な労力ではないだろうか。

 しかも、

「それが正しかったんだ」

 という証明に、本当になるのかどうか、怪しいものである。

 そもそも、人間は、

「いつ死ぬか?」

 ということが分かっていない。

 だから、禅問答の言い方であるが、

「死ぬまで生きる」

 という言い方しかないのだった。

 この言葉は、一見矛盾しているようで、実に的を得ている。

 この世の中では、

「的を得ているようで、実は、そうでもない」

 というのが多いが、このように、

「的外れに見えるが、実は的を得ている」

 という方が、よほどしっかりと分かっていることであって、

「それだけ、過去に戻るといっても、どこに戻るのか?」

 ということを分かることは難しいのかも知れない。

 本当に、

「この時がターニングポイントだった」

 ということが分かったとしても、

「その時代に戻ったとしても、どのように対応していいのか?」

 ということが分かるのだろうか。

 何といっても、その間が離れていればいいるほど、たくさんの経験をしてきて、時代も進んでいるのだ。

 まだ、レコードやカセットテープが主流で、CDなどもない時代で、ビデオ全盛期だったとすれば、まず頭をその時代に戻す必要がある。

 たとえば、未来で自分が結婚していて、その人と、ちょうどこの時代に出会うのだったということを思いだしてみると、

「どうして、俺のターニングポイントがこの時代だったのか?」

 ということもおぼろげに分かってくる。

 そもそも、タイムリープをした場合。

「こちらも何かの制限や制約がある」

 と考えた場合、

「どうして、この時代に来たのか?」

 という肝心な記憶が抜け落ちているというのは、十分に考えられる。

「ここから自分で、見つけるのだ」

 ということになると、

「そもそも、自分の中の歴史のターニングポイントだ」

 ということが分かっているとしても、戻ってくれば、そのターニングポイントが分からなくなっている。

 一種の、

「記憶喪失の状態だ」

 ということであろう。

 そうすることで、自分が、タイムリープしたという事実を忘れてしまうということも考えられないだろうか、

「この時に、一つの現象の理屈を立てることができる」

 と考える。

 その現象が何なのかということを考えると、

「デジャブではないか?」

 と思うのだ。

「初めて行ったり見たりしたはずなのに、それがいつだったのかということを忘れてしまっている」

 ということだ。

 普通なら、過去のことであれば、

「初めていったはずなのに」

 ということを感じることはそうないだろう。

 しかし、それが未来であれば、記憶にないのは当たり前、時系列からいうと、辻褄が合わないからだ。

 しかし、意識だけをもって過去に行き、自分に憑依するのだから、記憶にないというのも当たり前のことで、意識だけが、

「見たことがある」

 ということで、感じるのであった。

 そもそも、意識が最初にきて、記憶がよみがえってくるということになるのであれば、問題ないのだ。

 それが過去のことだということであれば、理屈に合うことであり、時系列としての矛盾から、

「意識だけをもって」

 ということで、記憶がないのが、

「タイムリープ」

 だということになれば、

「自分たちは、無意識のうちに、タイムリープをしたことがあるのかも知れない」

 と考えるのは、突飛な発想であろうか?

 ただそう思うと、

「デジャブという現象も、説明がつく」

 と考えられるのではないだろうか?

 それを思うと、

「タイムリープ」

 というものは、

「いろいろなことの、矛盾や問題点を解決するために、考えられたものではないか?」

 という考え方である。

 そもそもの

「タイムリープが解決できる」

 という発想は、

「タイムパラドックス」

 であった。

 そして、

「そのタイムパラドックスが原因ではないか?」

 と言われることである。

「ドッペルゲンガー」

 というものの解決策として、まるで、

「三段論法」

 という考え方のように、扱えることとして、

「タイムリープがあるのではないか?」

 と考えるのは、無理もないことだといえるだろう。

 つまりは、

「同一空間の同一時間。つまり、同一次元で、まったく同じ人間が、それぞれに存在している」

 というのが、いわゆるドッペルゲンガーである。

 これは、

「タイムスリップ」

 というものを可能だとしてしまうと、人間が、過去に行った瞬間に、考えられる問題だということになる。

 もちろん、これが、5分前くらいだということであれば、

「まったく同じ人間」

 ということで、どちらも意識することだろう。

 しかし、これが、数十年前、つまりは、成人した男が、自分の子供の頃の時代に戻ったとして、そこで、もし、

「出会った」

 ということになれば、

「相手が自分だということは、まず分からないだろうが、大人の自分なら、分かるかも知れない」

 ということになる。

「分かるかも知れない」

 というのは、何といっても自分である。

 自分というものは、写真を撮ったり、鏡に映すなどの媒体を通してしか分からないので、子供の頃に、自分の顔を意識していたということは、普通にないだろう。

 特に子供であればなおさらのことだ。

 だからこそ、自分の姿を分かるはずもないといえるだろう。

 そう思うので、普通であれば、

「出会ったとしても、意識することはないはずだ」

 ということになるだろう。

 だとすると、この場合には、

「タイムパラドックス」

 が起こるということはない。

 と思えばいいのだろうか?

 確かに。お互いに、意識することもなく、記憶も片方には曖昧で、片方には、そんなものあるわけはないということになるのだ。

 それを考えると、

「タイムパラドックス」

 というものも、曖昧で、信憑性がないものだ、

 ということで、さらには、

「ある誰かに対してだけ、都合よくできているものではないか」

 といえるだろう。

 特に、時間というのは、

「無限の可能性」

 というものと密接に結びついていて。

「それだけの無限大を考え萎えればいけないのであれば、それこそ、時間というものを、皆に平等だ」

 ということにしてしまうと、それこそ、矛盾だらけになってしまうだろう。

 そうなると、

「どこかで歯止めをきかせる」

 あるいは、

「なるべく、平等にする」

 ということを考えると、

「タイムパラドックス自体を、矛盾のないという形で、逃げ道としての、都合のよさというものである必要があるのではないだろうか?」

 とそんなことを考えていると、

「その解決法としてのクッションとして、タイムリープというものが存在していると考えるのは、これこそ、都合のよさということになるのではないだろうか?」

 さて、そこから生まれてくる考え方として、

「タイムパラドックス」

 というのを、

「ドッペルゲンガーと切り離す」

 という考え方から見ると、

「タイムリープ:

 というものがその解決法になるという理屈は、一応、正当性があるように思うのだった。

 そのため、

「タイムリープ」

 というものには、少々の、甘い仕掛けのような考え方を持たせる必要があるのではないか?

 つまり、

「少々の矛盾には目をつぶる」

 ということである。

 そうじゃないと、そもそも、最初から、

「タイムリープというのは、矛盾だらけだ」

 ということになってしまうのではないかと感じるのであった。

「タイムリープ」

 というのが、今の時代において、小説で書かれるようになったのは、

「タイムリープというものを主題にした、SF小説」

 というよりも、

「タイムリープというのは、あくまでも、手段として使うだけで、ストーリー性を生かさなければ、面白いものにはならない」

 という発想である、

 だから、恋愛ものであったり、青春小説の中で、

「バリエーションを組み立てる」

 ということで考えられる、一つのエッセンスとしての、

「隠し味」

 というものがきいているのが、

「タイムリープだ」

 という考え方である。

 もっと言えば、このタイムリープというものは、

「自分というものに入り込んでしまうのだ」

 ということであるので、

「時間に関係のないところでの、矛盾」

 というものが考えられるようになるといえるのではないだろうか。

 というのは、一つの考え方として、

「タイムリープ」

 によって、

「その時代にいた自分は、どうなってしまうのだ?」

 ということである。

「過去から来た自分が入り込むことで、魂として、さまようことになるのか?」

 あるいは、

「そのまま入り込んで、一人の中に、二重の性格が生まれることになるのか?」

 ということである。

 前者であれば、これは少し考えにくいだろう。

 その魂がさまようということは、宗教的に考えれば、ありえないことであり、許されない。

 普通に考えても許されないと思うのは、

「人間というものが、無意識に、誰もが宗教を、心のどこかでも信じている」

 ということになるのだろう。

 そんなことを考えていると、

「やはり、後者の方が信憑性はある」

 と感じるのであるし、しかも、

「ここでもう一つ、別の理屈が証明できるのではないか?」

 ということであった。

 というのが、

「多重人格」

 というものだ。

 二重人格というものであれば、ほとんどの人が、

「自分は二重人格ではないか?」

 と感じているのではないかと思うほど、結構な確率で、人の心に潜んでいるといってもいいだろう。

「二重人格」

 というものにも種類があるようで。それだけ、皆が自覚するのも分からなくもないというものだ。

 小説で、

「二重人格」

 として有名な、

「ジキル博士とハイド氏」

 という話もそうである。

 この場合は、薬によって覚醒させられたものだということであるが、さすがにここまでひどい二重人格というのは、そう簡単にいるわけではないだろう。

 特に、

「ハイド氏」

 というのは、普段から、

「ジキル博士」

 の陰に隠れて。表に出てくることはない。

 しかし、ひとたび出てきてしまうと、その性格のきつさというものがどういうことかというのは、

「ハイド氏にしか分からない」

 ということだ。

 あまりにも性格がかけ離れているから、お互いに知ることがなかったということかも知れない。

 薬の覚醒によって、ハイド氏が表に出てきて、いわゆる、

「悪の限りを尽くす」

 といってもいいかも知れない。

 この二人ほどではないが、

「まったく正反対の性格」

 というのが、あるのは普通だろう。

 小説として、描くには、この、

「ジキルとハイド」

 くらいに、両極端で、あとから出てきた方が、犯罪だろうがなんだろうが、犯すということを考えると、その深みというものが分かってくるというものだ。

 だが、

「二重人格」

 という問題は、現代でもないわけではない。

 裏に潜んだ性格が、ひどい人間だ。

 ということが当たり前のようになっている。

 もっとも、逆に、普段は表に出ているのがひどい性格で、裏には、

「虫一つ殺せない」

 というやつが潜んでいるのかも知れない。

 そういえば、前述の、

「芥川龍之介」

 の小説に。

「クモの糸」

 というものがあるが、

 これは、

「一人の男が、どうしようのないワルだということで、地獄で苦しんでいたが、お釈迦様が、苦しんでいる中のその男の過去を見た時、動物を助けたというエピソードから、天国に誘おうと、クモの糸を垂らした時、男は、自分が助かろうとして、必死に上っていくが、よく見ると、後ろから他の人たちもどんどん上ってくるではないか、男は助かりたい一心で、自分の後ろを糸を切った。しかし、それを見たお釈迦様が、この男の本性を見たことで、その男の糸を切り、地獄に叩き落した」

 という話であった。

 よくよく考えると、この話も、おかしなところが多い。

「どうして、お釈迦様が、この男だけを助けようと思ったのか?」

 ということ。

 そして何よりも、大きな問題として、

「現在の法律に照らし合わせて考えた時。違法性阻却の事由ということで、緊急避難というものがある」

 ということであるが、それは、

「救命ボートで店員オーバーで、誰かがくれば、皆が死んでしまうのが分かっている場合、あとから来た人を見殺しにしても、それは罪にならない」

 というものであった。

 しかし、お釈迦様は、

「自分で助けようとしたくせに、いくら失望したからといって、いきなり糸を切るというのは、理不尽ではないか?」

 と思うのは、ひどいことであろうか>

 それを考えると、

「二重人格性で、悪の部分が少しでもあると、天国には上げられない」

 という戒めのようなものがあるのではないか?

 ということを考えると、お釈迦様がその男を助けようとしたのは、衝動的な考えで、本当であれば、もっとちゃんとリサーチする必要があるということで、このお話は、

「お釈迦様の勇み足」

 という話だったということで、肩をつけるわけにはいかないのだろうか?

 と考えることもできるだろう。

 ただ、この話が、

「奥深いものだ」

 ということは分かっているので、もっと深く見ないといけないということになるのであろう。

「クモの糸」

 という話であるが、これは、もう一つ少し気になっているところとして、

「普通は、極悪人なのだが、何かの動物を助けた」

 ということだけで、

「なぜ、天国に行けるのだろうか?」

 ということである。

 ただ、偶然、

「お釈迦様がその光景を見つけたということで、その男を助けようと思ったのだ」

 ということなのであれば、少し、疑問が浮かぶのだ。

 確かに、

「その男のすべてを調べたうえで、それで、分かったことであるとすれば、百歩譲って分からなくもない」

 とはいうが、

「一人の人間の一生を、すべて見てこようとすると、その男の生きてきた時間をすべて見なければいけない」

 ということは、その男が、20歳だったとすれば、

「休憩を含めずに、20年という歳月を見続けることができるのか?」

 ということであり、

「お釈迦様だからできる」

 と言われてしまうと、逆らえないのだが、それではあまりにも都合のいいことではないだろうか?」

 しかも、その行為が、

「一つだけいいこと」

 というが、お釈迦様に、人間社会の、善悪が分かるということであろうか?

 少なくとも、善悪を裁くことができる権利を持っているのは、

「閻魔大王」

 ではないか。

 閻魔大王がその権利を持っていて、それこそ、

「生殺与奪の権利」

 ということで、その男が、

「悪だ」

 ということで裁いて、地獄に落としたということである。

 ということであるならば、

「天国と地獄」

 というところの力関係は分からないが、今回のお釈迦様の行動というのは、

「閻魔大王という存在を、真向から否定する」

 といってもいい、

「越権行為だ」

 といえるのではないだろうか?

 しかも、一度は助けようとしたくせに、人間世界では、

「一法性阻却の事由」

 の一つである、

「緊急避難」

 として、罪に問われないということなのに、お釈迦様は、容赦なく、男を元の地獄に叩き落したわけだ。

 この行為は、

「一度持ち上げておいて、わざと叩き落した」

 ということになるのではないか?

 この話は、中学生の頃に見たので、

「お釈迦様のような聖人君子の判断なのだから、当たり前だ」

 と思い込まされてしまったことで、大人になって考えると、

「これは洗脳ではないか?」

 とも考えるのであった。

 そういう意味で、子供の頃のおとぎ話などの、教育上の物語というのは、

「洗脳」

 であったり、政治的な、

「プロパガンダ」

 ではないか?

 といってもいいのではないだろうか?

 もちろん、話としては、

「架空の話」

 であるから、賛否両論あってもいいのだろうが、一つ言えることは、

「閻魔大王に対しての。越権行為であり、尊厳を犯した」

 ということで、いくらお釈迦様だといっても、いいころだとは言えない。

 もっと、正直に言ってしまえば、

「結局、お釈迦様の見る目がなかったということをごまかすために、地獄に再度叩き落した」

 ということであり、本来であれば、お釈迦様の行為は、もし、成功して天国に引き上げていたとすれば、

「逃亡ほう助」

 だといえるだろう。

 何といっても、

「地獄の方には、何も言わずに、自分で勝手に判断し、あの男を助けてやろう」

 と考えたことが招いたという。いってみれば、

「迷惑行為」

 であり、しかも悪いことに、そのために、

「まわりを巻き込んだ」

 ということである。

 これを正しいといっていいものなのだろうか?

 お釈迦様が、いかに偉いのか分からないのと、

「現実社会を中心に話しているから、偏見のような目で見てしまっている」

 といってしまえば、それまでなのだろう。

 しかし、あの話を、

「いい話だ」

 ということで見ているとすれば、果たして、そこに、

「思い込みや偏見がない」

 といってもいいのではないか?

「お釈迦様は天国の主だから、えらいんだ」

 そして、

「閻魔大王は地獄の主だから、恐ろしくて、悪なんだ」

 と考えている人がいるとすれば、それこそ、大きな偏見ではないかと思うのだった。

 だとすれば、

「警察署に勤めているのは、皆、聖人君子で、刑務所などで勤務している人間が、まるで地獄の番人のような人なのか?」

 ということである。

 このお話を、正面から見ると、

「地獄の番人は、皆鬼だということを思いこまされているので、刑務所の人間が、皆鬼だといっているようなものだ」

 といえるのではないだろうか。

 これこそ、

「職業だけで人間を見ている」

 ということであり、

「善悪を裁く閻魔大王に、迫力があって、威圧感があるから、悪ではないか?」

 と思うとすれば、この世での、

「反社会主義勢力のドン」

 と呼ばれる人に対しての偏見が多いということになるのではないか?

 それを思うと、閻魔大王や、お釈迦様というものは、

「職業として見るべきで、それぞれの受け持った仕事をすることで、世の中が回っているのだ」

 と考えると、このお話に出てくる、お釈迦様の行為は、

「越権でしかない」

 ということだ。

 そもそも、話の作り方が、

「語り手がいて。その人にしゃべらせている」

 という感覚なので、明らかな、

「お釈迦様びいき」

 といってもいいだろう。

 そういう

「クモの糸」

 のような話をみていると、どこか気になるのだった

 それは、内容云々というよりも、その話を聞けば聞くほど、何か、

「思い出しそうで思い出せない」

 という感覚に陥るのであった。

 それこそ、

「デジャブ」

 というような感覚で、

「思い出せそうなことなんだけど、思い出せない」

 という感覚であった。

 普段であれば、

「夢で見たことだったのかな?」

 という感覚になるのだが、そういうわけではなかったのだ。

 というのも、

「夢というよりも、リアルな感覚があり、しかも、本当に、過去にあった出来事という感覚になるのだった」

 というのも、

「今の時代とは、違う世界」

 という意識であった。

 今の時代と違うとすれば、それは時代であるはずなのに、

「世界」

 と感じるということは、

「世界と時間というものを、同じ感覚で見ているということだろうか?」

 と感じるのだが、それが、どういうことなのか?

 ということを感じるのだとすると、それが、

「夢でもあり、リアルでもある」

 つまり、真実だと感じたのだ。

 よく、テレビ番組などで、

「真実は一つ」

 といっているが、あれを、分かっていて言っているのだとすれば、素晴らしいが、

「分からずに言っているのであれば、黙っていてほしい」

 と感じるのだ。

 というのは、

「真実は、事実ではない」

 ということである。

 確かに、事実というものは一つであり、真実は、その事実というものが、重なって出来上がったものを真実というのだとすれば、その事実というものが、

「一歩違っていれば、どちらに転んだか、分からない」

 と言われるように、そこには、

「運命」

 というものがあって、その

「いたずら」

 によって、発揮される力というものが、真実ではないか?

 と考えれば、

「本当に真実というものが一つだというのであれば、運命というものはないわけであって、可能性も一つだといってもいいということになる」

 もっといえば、

「真実が一つだということになれば、運命も存在しないことになり、パラレルワールドもありえない」

 ということになると、

「事実の重なりが真実だ」

 という根本的な発想がなくなることになり、時間という概念すら、消えてしまいそうに感じるのだ。

 だから、

「真実というものがなるべく一つだ」

 ということになるような世界を作りたいでのであれば、この世なら、欺瞞やウソをなくさなければならない。

「ウソというものや、欺瞞がなくなれば、真実は本当に一つなのかも知れない」

 といえるだろう。

 そんな時代において、

「昔のことを覚えている」

 といっても、

「本当に古いことであるのは間違いない」

 と思うのだが、明らかに、大人になってからのことなので、そんなに古いわけはない。

 と思うのだ。


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