第3話 タイムスリップの目的

「タイムリープ」

 というものを考えていると、結構面白いという考えが頭に浮かぶ。

「タイムパラドックス」

 というものへの解決手段という考え方で見てみると、

「同じ時代に、同じ次元で、自分というものが存在できない」

 というのが、タイムパラドックスである。

 この考えは、実は、

「タイムパラドックス」

 というよりも、

「ドッペルゲンガー」

 という考え方に対しての発想でもある。

 というのが、

「同じ時間の、同じ次元に、もう一人の自分が存在している」

 という発想である。

 そして、もう一つドッペルゲンガーで言われているのは、

「ドッペルゲンガーというものを見ると、近い将来、死ぬ運命にある」

 ということであった。

 その話は、ある意味、信憑性がある。

 というのは、

「今までに、何人もの著名人が、ドッペルゲンガーと見たということで、死んでいた」

 という話があるからだ。

 一人有名な人として、

「芥川龍之介」

 の話があるが、これは、彼の担当編集者が来た時、机の上に、書きかけの原稿があったという。

 それを、編集者の人が見ようとした時、芥川龍之介が、急に怒り出して、その原稿を、破って捨てたというのである。

 そして、次の日に、本人は自殺をしていたが、前の日に目の前で破り散らした原稿が、きちんと出来上がっていて、机の上に置いてあった。

 というような話であった。

 話としては、

「昨日、原稿を破りちぎった人が、実はドッペルゲンガーではないか?」

 ということであったのだ。

 そもそも、ドッペルゲンガーというのは、いろいろ言われているようだ。

 たとえば、

「これは脳の病気なので、普通にその病気が悪化して死に至った」

 ということであったりというのが一番信憑性があるのかも知れないが、その中に、タイムパラドックスという意味で、

「同じ時間の同じ世界に、存在してはいけないもう一人がいることに、本人が気づいた時、パラドックスに対しての罰のようなものがあり、どちらの存在もこの世から消してしまった」

 という考え方である。

 ドッペルゲンガーというものは、あくまでも、

「本人であり、この世に三人はいるといわれる、そっくりさんというわけではない」

 ということであった。

 だから、ドッペルゲンガーというのは、

「本人の行動範囲以外には現れない」

 ということになる。

 ただ、この発想は、どこかで聞いたものに似ていないだろうか。

 そう、

「自分というものに、憑依する」

 という、

「タイムリープ」

 の発想ではないだろうか?

 というのも、

「二つとも、明らかに制限がある」

 ということになるからである。

 ドッペルゲンガーという言葉は、中世の終わりことから言われているようだが、知っている人と知らない人の差が激しいようだ。

 どうやら、アニメやゲーム好きの人は結構知っているようで、そういうものとは縁遠く、研究室にばかりいる人間には、不思議で仕方がなかった。

 ただ、ドッペルゲンガーというのが、

「本来はどういう意味か?」

 ということをしっかり分かっている人は少ないだろう。

 アニメにしても、ゲームにしても、そのストーリーの幅を広げるということで使用しているという場合が多いからであろう。

 実際に、話を聞いてみると、

「アニメで見ただけだからな」

 というだけである。

 そういう意味では、

「戦国シミュレーションゲーム」

 というのも、そうである。

 どうしても、戦国武将というと、人気が高い武将は、ある程度決まってくる。

 実績を兼ね備えた武将であったり、三英傑などは別にすると、大きく分けると、

「真田信繁」

 と、

「伊達政宗」

 とに分かれることであろう。

 それも、出てくるキャラクターはあくまでもイメージで、実際の肖像画とは似ても似つかない

「格好いい武将」

 として描かれている。

 二人とも、肖像画では、そんなに特徴があるわけではない。

 知らない人が見ると、

「好々爺」

 に見えるかも知れない。

 真田の場合は、まだまだ45歳という、これからという年齢で、

「大阪の陣」

 にて果てているので、そこまで年を取ってはいないが、それにしては、肖像画には、どこか優しさがにじみ出ている気がしていた。

 伊達政宗の場合は、もっと先まで生きているので、それこそ、

「好々爺」

 なのかも知れない・

 確かに、

「やり働き」

 もすごかったのだろうが、そこまで歴史に残っているわけではないのに、二人が注目されたのは、逸話からであろうか。

 伊達政宗のように、

「独眼竜」

 という異名が、そのイメージを突出させ、真田の場合は、幼児期から、青年期までのほとんどを、

「人質」

 として過ごしていて、

「昌幸の息子」

 ということでしかなかったのだが、大阪の陣にての、

「真田丸の戦い」

 あるいは、最後に家康に対しての、的中突破という活躍にて、

「日の本一のつわもの」

 と言われ、その活躍を印象付けたところで、討ち死にするという人生が、心を打ったのかも知れない。

 そんな二人を、

「ゲームなどでは、思い切りと言ってもいいくらいに美化している」

 だから、若い連中の中には、

「そっくりではないまでも、あれが、二人なんだ」

 と思い込んでいる人もいたりするのではないだろうか。

 他の武将も相当美化しているのだが、二人の人気にはかなわないことであろう。

 ただ、実際に、

「肖像画が残っているからといって、写真ではないのだから、本当にその人にそっくりなのか?」

 と聞かれれば、曖昧なところがあるといってもいいだろう。

 なぜなら、

「時代を代表する人物」

 ということなのだろうから、いろいろなところに肖像画が残っているのも必至で、

「そのどれもが似ている」

 というわけではない。

 確かに、似ている写真や銅像も多いが、書き手によって絵のタッチが違うのはあたり雨のことで、今のように、写真を撮って、それを元に描くということができるわけではないのだ。

 そんなことを考えていると、

「雰囲気は伝わるが、実像がつかめない」 

 というのも、当たり前ということになるのだった。

 実際に、最近のように、歴史に対しての研究が続けば、

「今までの常識が非常識」

 ということも多くなっている。

 たとえば戦のやり方であったり、実際の戦の内容など、今まで言われてきたことが、

「実際にはありえないことだ」

 ということも実際にあるであろう。

 例えば、

「長篠・設楽原の合戦」

 にて、織田信長が使った、

「鉄砲の三弾うち」

 などというのも、怪しいということになる。

 それぞれに、技量も鉄砲の質も違うのに、合わせたように、連射など、できるわけがないということである。

「あれは、単純に、兵が多い方が勝った」

 という、

「数の理論による勝利だ」

 と言われるようになった。

 また、同じ信長で、

「戦国三大奇襲の一つ」

 と言われる、

「桶狭間の合戦」

 において、

「上から下に降りて行った」

 というのも、実は逆だったという話である。

「実際に見たわけでもないので、どこまで本当か分からない」

 ともいえるが、

「歴史書などというものは、書いた方に都合よく書かれていることが多いので、どこまでが本当のことなのか、そもそもが怪しいということになる」

 ということである。

 よく、そんな時代に、

「タイムスリップする」

 という小説やマンガがあるが、その手の話は山ほどある。

 それだけでは、話としては、少し甘い。だとすると、そこからのバリエーションが大切であろう。

 当然、タイムスリップした先がまず問題になるのであって、その時代を、残っている資料を元に、

「史実」

 とされていることにかぶせるようにして話を進める。

 つまりは、

「タイムパラドックスが起こらないように、神経を遣って、時代を生き抜く」

 という考え方であったり、

 あるいは、

「史実に敢えて逆らう」

 という形で、

「その時代がすでに、狂いかけているのであれば、元に戻すということをせずに、その人が天下人でなければ、その人が天下を取れるように、動いてあげる」

 ということである。

 何しろ、自分は、歴史を知っているのだから、これほど力強いことはないだろう。

 しかし、知っているといっても、

「学校で習っただけ」

 という歴史であり、それこそ、戦国武将の一生を、数行で表しただけのことである。もっと言えば、数人の名前が書かれていて、

「……などという、戦国武将たちが、群雄割拠した時代であった」

 などと、

「その他大勢」

 で描かれているだけだったというのも、大いにあるだろう。

 ただ、最近の歴史は、それこそ、ゲームで興味を持つので、少しは、独学で勉強することが多くなった。

「学校で教えないような知識をもっているのだから、俺はすべてを知っているんだ」

 というような、おかしな認識を持っている人というのも少なくないだろう。

 そんなやつが、中途半端な知識で、歴史をその通りにしようとするのだから、それこそ、

「歴史に対しての冒涜である」

 といってもいいのではないか。

 それを思うと、

「歴史を変える」

 ということが、実に簡単にできてしまうのか?

 ということを思い知ることになるかも知れない。

 ただ、以前見た映画の中で、戦国時代にタイムスリップした連中が、何かの部隊であり、彼らの持っている兵器を使って、

「天下を取ろう」

 という野心をもってしまったのだった。

 もちろん、歴史的な知識もあり、

「タイムパラドックスの恐ろしさ」

 というものを分かっているのであったが、

 考えてみると、

「俺たちが、この時代にいるのは、当然のように、何かの理由があるからだ」

 と考えたとしても、それは無理もないことだ。

 ということになれば、その理由は別として、自分たちが、天下を取ったとしてもそれは無理もないことで、それが、

「歴史が出した答え」

 なのかも知れないと、都合のいい考え方をしてしまうのだろう。

 歴史というのは、

「時間に左右されるドキュメント」

 といってもいいだろう。

「リアルなのだから、当然、時間の流れが同じであり、それは、今の自分と平行線を描いている」

 といってもいいだろう。

 しかし、それは考えてみれば、当たり前のことであり、ただ、一つ言えることは、

「交わることのないのが、平行線だ」

 ということになるのであろう。

 だから、

「タイムスリップでもしない限り、別の時代にはいけない」

 ということであり、

「同じ次元に、同一人物がいてはいけない」

 という、

「ドッペルゲンガー」

 というものを、

「摩訶不思議なもの」

 ということになるのだろう。

 その映画で見た内容は、

「主人公は、タイムパラドックス」

 というものを理解もしていて、だからこそ、自分たちが、この時代に存在していることを憂いていて、これからの行動に対して。

「どうしたらいいのか?」

 と考えていた。

 そして得た答えは、

「歴史が、俺たちをこの時代に呼んだのだとすれば、何をやっても、それは運命でしかないんだ」

 と考えると、

「ここで何もしないということこそ、歴史に対しての冒涜で、これが俺たちの運命というものなのだ」

 という結論に達した。

「何をしても、それは運命だということであれば、自分の気持ちに素直になるだけだ」

 ということで、彼らは、天下取りにまい進するのだった。

 実際に彼らは、

「兵器の威力」

 を最大限に生かし、次々に隣国を席巻し、侵略を開始する。

 もちろん、電光石火の力があり、そうしなければいけない理由があったのだ。

 というのは、

「兵器には限りがある」

 ということだ。

 何といっても、

「現代の兵器」

 というのは、無限ではない。

 なぜならば、

「兵器というのが、燃料を使って動くものだ」

 ということだからである。

 この時代に、

「燃料となるものがあったとしても、それを兵器に利用できるノウハウがあるわけでもなければ、その道具すらない」

 ということになり、結果として、

「最後には、ただの鉄くず」

 と、兵器が化してしまうということになるであろう。

「弾薬だって尽きることだし」

 ということで、

「弾薬が尽きた時、自分たちが、この時代の武器で戦うことができるか?」

 ということであったが、そもそも、歴史が、自分たちに何をさせようか?

 と考えると、

「そこには、自分たちが分からない、何かの暗躍があるに違いない」

 と感じるのだった。

 このような映画は、実際には、複数政策されていた。

 それぞれに微妙に時代も違っていて、ストーリーも違っている。

 一つは、

「その時代に、いなければいけない武将が存在していない」

 ということが、主人公に分かってくると、主人公は、歴史というものが、俺たちに、

「その武将になって、歴史に名を遺せ」

 ということを言っていると感じた。

 しかし、その武将は、群雄割拠の中での大大名であったが、史実としては、

「天下を取った」

 というわけではない。

 それでも、この時代に自分たちを越させたということは?

 ということで、

「これは、歴史を変えるチャンスだ」

 ということになった。

 この時点で、主人公には、

「タイムパラドックス」

 というものを犯す恐怖感覚はマヒしていた。

「俺たちが、歴史を切り開く」

 という、前向きにしか見ていないのだ。

 だが、これは、

「前向き」

 というよりも、もっといえば、

「前のめり」

 だといってもいいだろう。

 そんな時代にやってきた彼らは、本当に天下が取れるのだろうか?

 実際には、彼らがどうなったのかというと、

「いよいよ、これから、天下取りに向けての、初陣を飾ろう」

 としてその時に、彼らは、忽然と消えてしまう。

 それは相手の武将が戦をしようとして、大将の、

「かかれ」

 という言葉とともに、突っ込んでいったにも関わらず、そこには何もなかった」

 というオチである。

 では、いなくなった彼らはどうなったのか?

 タイムスリップしたのだろうことは、当たり前に分かったのだが、その先をその映画は映していない。

「何をさせようとしたのか?」

 ということは、曖昧になってしまったが、少なくとも、

「彼らが存在した」

 ということは事実なのだろう。

 ただ、それが、歴史書に書かれることなのかどうか分からないし、歴史が、どういう答えを出したのか分からないが、現代において、

「その本を読み終わったその時に見たニュース」

 において、

「本日、歴史評論家の博士から、重大発表がありました」

 ということで話題になったのだが、それが、

「とてもこの時代にあったとは思えない。大量の武器弾薬が見つかりました」

 ということであった。

 そして、その発見の中で、

「使用された事実はありませんが、明らかに、現代の兵器であり、製造年月日が、21世紀になっている」

 ということだったのだ。

 さすがに、製造年月日までは、マスコミは発表していない。それを公表してしまうと、パニックになってしまうということであり、もう一つ、

「自衛隊の中で、武器弾薬と一緒に、一つの部隊が、忽然と消えてしまった」

 ということもあり、そちらも、

「最重要機密」

 ということにされたのだった。

 自分たちが知っている自衛隊の、一つの部隊が消えてしまったというのは、とても大きなことだ。

「一つの部会で、何かクーデターでも起こそうというのか?」

 という不穏な空気に包まれたことで、これを発表でもしてしまうと、一気に、国内は、大パニックに陥り、諸外国に分かると、それこそ、日本が、

「バチルスを放ったようなものだ」

 ということになる。

「バチルス」

 というのは、細菌のことで、

「最近は、世界的なパンデミックが起こったことで、シャレにならないが、その時は、パンデミックになっていなかったので、バチルスという言葉を使っていたのだ」

 ということであった。

 そんなことを考えていると、

「彼らが最終的にどこに行ったのか?」

 ということも気になるが、

「それは、彼らが歴史を変えようとしたことに対しての、戒め」

 ということなのか?

 ということが問題だった。

 もし、

「戒め」

 だということになれば、

「なぜゆえに、彼らをこの時代に呼んだというのか? まさか、何かの間違いだった」

 というのは、許されないだろう」

 というのは、

「絶対的な力のある者ほど、その自覚や行動はしっかりしていないといけない」

 という。

「ただ、間違えてしまった」

 などというのは、許されることではない。

「ちょっとしたミスが、世界を滅亡させることだってあるわけで、それは、ある程度までの力、その人の一言で、世界を滅ぼせるだけの力を有する必要があるということになるのではないだろうか?」

 そんなことを考えていると、

「辻褄というものを、必ずどこかで合わせようとするのが、歴史というものだ」

 ということで、

「歴史が出す答えは、時として、理不尽で、歴史も結局は、自分のことしか考えていない」

 ということだろう。

 人一人の個人としての、

「答え」

 と、

「歴史という全体を司取っていて、しかも、時代を飛び越えて辻褄が合っていないといけない」

 という立場のものの、

「答え」

 であれば、その先にあるものが、どんな答えを出そうとするのか、そこが問題だといってもいいだろう。

 自分たちが探している、

「答え」

 これは、

「真実なのだろうか?」

 それとも、

「事実なのだろうか?」

 ということである。

 事実というものは、必ず一つであるが、真実は、その原因と結果を考えると、

「決して一つだといえるものではない」

 ということである。

 この場合は、少なくとも、

「真実か事実のどちらかを示しているのだろう。

 ということになるのだった。

 もう一つの歴史映画は、

「史実としては、自分たちの側が負けてしまうということが伝えられているが、その前夜に飛び出したのだ」

 ということであった。

「歴史というものは、絶対に変えてはいけない」

 と思っている人がいる反面、部隊の隊長は、悩んでいた。

「歴史を変えてでも、祖国を守るか」

 それとも、

「歴史が変わってしまうということを、許されないことだ」

 ということで、

「静観するしかない」

 ということを取るかを考えたが、結局、

「祖国を救う」

 という結論になった。

 実際に、戦争が始まろうとしているところで、

「いざ、出陣」

 というところで、いきなり、艦が爆発してしまった。

 何が起こったのか分からなかったが、部隊すべてが、破壊されていく。

 どうやら、

「歴史を変えてはいけない」

 と考えている連中が、クーデターを起こしたようで、結果、

「歴史が変わることもなく、彼らは、その時代で全員、死んでしまうということになるのだ」

 ここで生き残った人がいてはならない。

「今度の事件の生き証人が残ることになるからだ」

 これも、ある意味、

「タイムパラドックスに逆らう」

 ということになるのではないだろうか?

 と、映画を見ている人は思っただろう。

 少なくとも、結末に思いを馳せている人は、それぞれの考えを持っているのだろうが、それぞれの考えであっても、最後には、その理屈にあっている終わり方が、実にセンセーショナルなものであったのだ。


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