第2話 タイムリープ

「タイム〇〇」

 というと、一番に思いつくのが、

「タイムスリップ」

 というものだ。

 しかし、それ以外にも、

「あの頃に戻れたらな?」

 であったり、

「あの時を、もう一度やり直したい」

 という願望のようなものがあり、そんなものがあるのかも知れないという考えも無きにしも非ずであった。

 それが、

「タイムリープ」

 であり、

「タイムループ」

 だったりする。

 元々、タイムスリップにしても、SF小説から出てきたのであろうが、

「火のないところに煙は立たず」

 ということで、ひょっとすると、過去に事例があったのかも知れない。

「浦島太郎」

 など、完全に、タイムスリップといえるのではないだろうか?

 タイムスリップというと、一番ポピュラーで分かりやすいものだといえるだろう。

「タイムマシン」

 や、

「ワームホール」

 という考え方も、タイムスリップから出てきたからである。

 それが、そのまま、考えられるようになったのであろう。

 タイムスリップという発想は、

「タイムパラドックス」

 というものが裏に潜んでいるといってもいいだろう。

「タイムパラドックス」

 というのは、過去に行った時の問題のことである。

 そこには、考え方として、

「パラレルワールド」

 という発想が広がっていることであった。

「パラレルワールド」

  というのは、

「次の瞬間には、無数の可能性が潜んでいる」

 という考え方で、人間は、それを無意識に行動しているので、意識することもなく、

「瞬間瞬間を乗り切っている」

 といってもいいだろう。

 ということはどういうことなのかというと、

「無数にある可能性の中で、自分が過去に戻ることで、その歴史を変えてしまったら、どうなるか?」

 という発想である。

 同じ時代の人が変えたとしても、それは、結局未来には、自分が知っている世界になるということになるのだ。

「要するに、未来から来た人間が、その時の状況を変えたとすれば、その先に待っている世界は、どうなっているか分からない」

 ということである。

 ただ、一つ疑問なのは、

「誰かが過去に戻って。歴史を変えると、次の瞬間からの歴史は、すべてが変わってしまう」

 と考えられているわけだが、その変わってしまった歴史を、誰も意識していないということになるのだろうか?

 そこから以降の歴史が、すべて、畳をひっくり返したかのような

「大どんでん返し」

 となるのだから、時系列で動いている歴史が、その意識までも、

「その前がどうだったのか?」

 ということを、無意識に、辻褄が合うようになっているということであろうか?

 それが、自分だけではなく、その時代に生きている人すべてにおいてのことであり、時間軸にいる、そのすべての人物にまで、その影響を及ぼすということになるのである。

 それこそ、いくつもの道があり、その道に関係のある人、いや、動物や植物を含めてに対しても、辻褄が合うという意識を植え付け、しかも、

「何もなかったかのような意識になる」

 ということであるから、

「過去に戻って歴史を変える」

 ということが、

「どれほどのエネルギーとなるのか?」

 ということになるのだ。

 だから、

「歴史を変えると、ビックバンが起こり、世界が破滅する」

 とまで大げさとも思える学説を、当たり前のように唱える学者もいるのだろう。

 何しろ、その影響が計り知れないのだから、それも当たり前のことだといっても過言ではないだろう。

 また、時間軸というものがあったとして、その時間軸が、どれほどの壁として存在していて、それがいくつなのか?

 と考えると、

「その時々で、自分が何人もそこにいて、自分だけではなく、自分にかかわっている人がたくさんいる」

 ということになるのだった。

 そういう意味でいくと、

「1分前に戻る」

 と考えたとして、そこまでに、

「いくつの壁があって、何人の自分、そして自分にかかわっている人がいるというのか?」

 と考える。

 これはあくまでも、

「自分を中心にした時間軸」

 であるが、その間に、それまでかかわっていなかった人が、かかわってくるという可能性も十分にあり、逆に、かかわっていた人間がかかわらなくなったという可能性もある。

 もっと言えば、

「生まれた人もいるだろうし、死んだ人もいる」

 ということになるわけだ。

 そこまで考えてくると、もう一つの疑問がわいてくる。

 それは、

「自分にかかわりのない思っている世界は、本当に同じ世界に存在している」

 といえるのであろうか?

 確かに、かかわっていなかった人が、かかわってくるのだから、

「最初から同じ世界だった」

 といってもいいだろう。

 しかし、

「自分の世界」

 と思っている世界だからこそ、うまくいっていると言えないのだろうか?

 あまりにも同じ時代の世界が大きくなると、そこに、時間軸という可能性を含む、

「無限も世界」

 が広がっているとすれば。その果てしなさは、とんでもないことになる。

「じゃあ、この世界は誰が作ったというのか?」

 ということになるのだが、

「一つの時代を作った者」

 と、

「時間軸を作った者」

 というものが違っているとすれば、それをうまく組み合わせるのが難しいと考えた時、

「一つの時代」

 という世界と、

「時間軸」

 という世界とでは、まったく違う世界なのだと考えるのが、たぶん、今の世界を説明するのに、一番納得がいくことなのかも知れない。

 だから、

「我々は、一つの時代に対しての、平面的な発想は思いつくが。そこに時間軸というものを考えた時、過去は思い出せても、そこは平面でしかなく。未来に至っては。まったく分からない」

 ということになるのだろう。

 なぜなら、

「過去は変えられないが、未来は変えられる」

 という考えがあるからに違いない。

 そう思うことで、未来に思いを馳せたり、自分の人生を託すということができるのだ。

 そういう意味では。

「未来というのは、人間、あるいは、それを意識している生物に、平等に与えられているものなのかもしれない」

 といえるだろう。

 ただ、

「人間は、生まれながらに平等だ」

 といっている人がいるが、果たしてそうなのだろうか?

 つまりは、

「人間は、生まれることを選べない」

 といえるのではないだろうか?

「どこの誰の間に生まれた」

 ということで、半ばその人の運命が決まってしまうということも往々にしてあるというものだ。

 それは、

「いつの時代の、dこの国」

 ということでも決まってくるというもので、

「日本であっても、江戸時代などは、士農工商という身分制度に分かれていて。結婚はおろか、職業選択の自由もない」

 といえるだろう。

「百姓に生まれれば、死ぬまで、いや、末代まで百姓だ」

 ということである。

 世界でも、古代などは、奴隷制度があり、それが、

「当たり前」

 のような時代があった。

 映画などでは、奴隷の気持ちを描くようなものがあったが、本当に、昔の奴隷に、自分たちの立場をおかしいと思うような発想があったのかどうか、難しいところである。

 映画などにするなら、

「奴隷制度はいけないこと」

 というような定義がなくて、奴隷というのを描くのであれば、

「この時代には、当たり前に行われていたことだ」

 ということを、キチンと理解している人が見ないと、その常識というものが、どこかおかしな時間軸となってしまうのではないだろうか。

 実際に、奴隷制度に関係のない、ただ歴史というものを描くだけの、

「ドキュメンタリー映画」

 という様相を呈していれば、

「奴隷一人一人の考えをそこに織り込むことは、時代背景を正確に描けないかもしれない」

 ということになる。

 それであれば、

「奴隷制度反対」

 という立場から、描く作品にしないといけないということになるだろう。

 一つ、頭に浮かんでくる発想として、

「古代エジプトなどは、奴隷を使って、ファラオと呼ばれる王朝を支えてきた」

 といえるだろう。

 特に、映画などで見る光景は、

「奴隷がムチでしばかれて、青あざを作りながらでも、倒れるまでこき使われる」

 ということであった。

 その奴隷たちというのは、たぶん、

「戦争を行って、負けた国の人民などではないのだろうか?」

 と思われているが、実際に、

「奴隷という種族がいて、彼らが、奴隷という立場を甘んじて守ってきた」

 という発想はおかしいであろうか?

 確かに、今の民主主義の時代であれば、

「奴隷のような差別はいけない」

 と言われているが、どうなのだろう?

 分かっているだけで、人類の歴史の中で、

「奴隷であったり、国民を搾取する」

 というような政治が行われてきたという時代がどれだけあったというのか、古代から脈々と続いてきていて、

「民主化」

 と呼ばれるようになった時代とすれば、

「フランス革命」

 であったり、アメリカの、

「南北戦争」

 などというのがその代表例であり、それだって、一番古くても、300年くらい前ではないか。

 実際にそれ以降を近世といっているので、近世以降に出てきた民主主義という考え方が、

「自由平等博愛」

 というフランス共和制というものであっただろう。

 しかし、実際に、その理想通りに行ったであろうか?

 というのも、

「戦争は相変わらずなくなるわけではない」

 しかも、どんどん、兵器も開発され、

「大量殺戮の時代」

 に入っていったではないか。

 中には、そんな時代を予見していた人も中にはいる。

 日本の中でも、石原莞爾のように、世界は、いずれ、

「各地方で、各国の、戦争による予選が行われ、その勝者が、大陸ごとの代表として、トーナメントを行い。残った二大超大国が、世紀末のような戦争を起こし、勝ち残った国により復興が行われ、恒久平和が訪れる」

 という考えとして、

「世界最終戦争論」

 という書物を発刊したという事実もあるくらいである。

 だから、彼の中で、

「最後に残る超大国というのは、日本とアメリカ

 という考えである。

 だから、その思想に則って、満州事変を引き起こし、

「ソ連へのけん制」

 を行ったのだ。

 もちろん、満州事変というものには、

「他に、数々の、日本にとって、やむを得ない事情」

 というものがあったということであるが、そもそも、

「ソ連をけん制しておいて、その間に軍備を整え、いずれやってくる、日米の一騎打ちに備える」

 という計画だったのだ。

 しかし、歴史は、そうもいかず。中国大陸進出という派閥が強くなったことで、当初の計画が狂ってしまい、結果として、

「日米決戦」

 という形に近くはなるのだが、実際には、描いた青写真とはまったく違うものとなったのだ。

 そもそも、

「資源に乏しい日本が、資源の豊富な国に侵攻する」

 というのも、ある意味、

「アメリカに引きずりだされた」

 という意味合いもあり、

 結果として突入してしまった、

「日米戦」

 も、当初の計画通り、

「最初の連戦連勝の間に、アメリカ国民の反戦機運を高めて、うまいところで講和に持ち込む」

 ということしか勝ち目がないということが分かっていながら、

 結果として。

「国民やマスゴミの声には勝てなかった」

 ということで、

「戦争を辞めることができなかった」

 というのが、本当のところであろう。

 この戦争も、日本の大義というのは、

「東アジアの、植民地にされて苦しんでいる国を解放し、東アジアに、アジアとしての新秩序を打ち立てる」

 という名分があったのだ。

 詭弁かも知れないが、実際に、

「東アジアは、欧米列強に、植民地として食い物にされている」

 ということだったのだ。

 それを解放し、

「大東亜共栄圏」

 というものを打ち立てる。

 というのが、日本という国の、戦争目的だった。

 これほど、れっきとした大義名分がどこにあるというのだろう?

 しかし、日本は、

「真珠湾攻撃」

 の際のこと、

「宣戦布告が、攻撃開始から遅れてしまった」

 ということで、

「だまし討ちだ」

 と言われるが、

「それこそ詭弁だ」

 といえるのではないだろうか?

 というのも、あの戦争は、

「アメリカが、ヨーロッパの戦争に参戦するため、議会の戦争への参加の理解を得るために、日本に攻撃させた」

 ということも分かっているではないか。

 いや、そもそも、国際法では、

「宣戦布告がなくても、最後通牒と呼ばれる。相手国が、絶対に従えない条件を出してきたり、実際に、外交官などを、国外追放したり、相手の国に駐留している大使や公使というものを相手国から退去させれば、それは宣戦布告と同じだ」

 ということになっているのだ。

 そういう意味で、アメリカが出してきた、いわゆる、

「ハルノート」

 と呼ばれる、

「日本を、明治維新以前の状態に戻す」

 という絶対に受け入れられない条件を出してきたことで、それが最後通牒のはずではないかといえるだろう。

 それを誰も何もいわず、あくまでも、

「宣戦布告よりも、少しだけ遅かったというのを、国内への宣伝として、だまし討ちなどと言われるのだから、本当であれば、とんでもない話だ」

 ということになるのではないだろうか。

 それを考えると、

「国際法」

 というのも、一つの基準でしかなく。その時々で、解釈が違ったり、下手をすれば、

「マスコミや世論によって、捻じ曲げられる」

 ということになるのではないだろうか?

 そんな時代の、

「二つの世界大戦」

 において、

「ヨーロッパなどの、宗主国」

 というのは、

「アジアの植民地から、強制的に兵を連れてきて、戦争に参加させたところもあるのではないか」

 もちろん、すべての国がそうだとは言わないが、植民地というのは、こういう使い方もできるということだ。

 それを思えば、

「日本が、朝鮮人を無理矢理兵隊であったり、徴用工に使ったなどというのは、本当のことなのか怪しいものだ」

 少なくとも、

「アジアに新秩序を築く」

 という明確なスローガンがあるのだから、朝鮮や他の国から、

「日本と一緒にアングロサクソンと戦おう」

 という組織があってもいいはずだ。

 それを、まるで、

「日本に侵略された」

 といっているのは、どこまでが本当なのかと思う。

 下手をすると、それこそ、

「無限の可能性のある人によって捏造された」

 いや、

「その人にとっては真実だ」

 という発想を考えると、これこそが、

「パラレルワールドなのではないか?」

 といえるだろう。

 ただ、そうなると、

「パラレルワールド」

 というものの範囲が分からなくなる。

 つまりは、

「同じ時代の同じ次元であっても、パラレルワールドというものが開けていて、それが一つの世界を形成しているのかも知れない」

 と思うと、心理学的に、恐ろしい発想が出てきた。

 それが、

「カプグラ症候群」

 と呼ばれるもので、少し、

「陰謀論的な発想になる」

 といってもいいかも知れない。

「カプグラ症候群」

 というのは、

「悪の秘密結社によって、自分の近しい人。つまりは、家族であったり、恋人であったりが、別の人間に入れ替えられている」

 という発想である。

 あくまでも、

「精神疾患」

 というものによる思い込みが、この症候群の正体だと言われているが、まさにその通りだといってもいいかも知れない。

「悪の秘密結社」

 ということで、特撮やアニメの題材になりやすいが、これを、

「SF的な発想で考えてみると、意外と面白いことになるのではないか?」

 と言えるのではないだろうか?

 というのも、

「実際に、カプグラ症候群を使ったマンガなどが結構あるようで、どこかの国の国家元首が、悪の手先になっていて、独裁者になっている」

 という発想であるのだ。

「または、宇宙人が。人間そっくりに化けることで、人間社会に入り込み、その人が悪さをすることで、人間の信頼関係というものを、ズタズタにしようということも考えられていた」

 という。

 その発想は、

「自ら手を下さなくても、人間は、疑心暗鬼と猜疑心から、勝手に戦争を起こして、勝手に滅んでいく」

 という考え方からであった。

「なるほど、その通りだ」

 と納得してしまう自分が怖いくらいではないだろうか。

 それだけ、人間というのは、

「分かりやすい生き物で、宇宙からの侵略に対しては、まったう手も足もでないということで、宇宙からの正義の味方というものを創造する」

 ということがあり、それこそが、

「大人気になる」

 というのは、実に皮肉なことだといえるだろう。

「日本が悪くない」

 といっているわけではなく。

「日本が悪いというのであれば、他の国に、責任というものはないのか?」

 という平等という発想から考えると、かなり歪んだ歴史だといってもいいだろう。

 それこそ、

「勝てば官軍」

 負けた国は、従うしかない。

 これが、

「自由、平等、博愛」

 とスローガンとする、

「民主主義国家」

 が行っているのだ。

 やはり、

「勝てば官軍」

 ということで、

「大東亜戦争」

 という言葉を使わないということになり、今でも、

「日本は属国だ」

 という意識を政治家が持っているのだから、

「日本の将来は真っ暗だ」

 と言われても、無理もないことであろう。

 そんなことを考えると、

「過去のどこかで、歴史が変わる」

 というターニングポイントがあったのだろうと思う。

 しかし、ターニングポイントというのは、

「パラレルワールド」

 という発想を考えると、

「無数にある」

 といってもいいだろう。

 これは、何も日本にこだわることはない。

「世界全体」

 という発想でもいいし、前述のような。

「一人の人間のかかわっている世界」

 といってもいいだろう。

 しかし、その一人の人間がかかわっている世界というと、必ず、誰か他の人が絡むと、

「重複している」

 というところがあるだろう。

 その世界は、

「自分とは関係のない世界」

 ということで、何しろ、自分が、その人を知らないからであろう。

 しかし、果たしてそうだろうか?

 知らないというだけで、

「何もかかわっていない」

 と言い切れるのだろうが?

 そこで考えられるのは、パラレルワールドで、ごく近いところにあるパラレルワールドでは、完全にその人とかかわっているのかも知れないのだ。

 今の時代を見ているのは、正直。

「その人の目でしかない」

 と考えると、

「見ているものがすべて、真実だ」

 といってもいいのだろうか?

 そんなことを考えてみると、

「かかわっていると思っていることが、どこまで本当なのか?」

 誰に分かるというのか。

 少なくとも、

「自分の目が信じられない」

 と考えると、疑心暗鬼になり、結局。

「カプグラ症候群」

 などという発想を、信じられないと思いながらも、知らず知らずに興味をもって見てしまうのではないだろうか。

「タイムスリップ」

 というものが、

「何かのアイテム、それがタイムマシンであったり、ワームホールのようなものを使って、タイムトラベルをする」

 ということになる。

「タイムマシン」

 というものが、人間が作り出した機械であるのに対し、

「ワームホール」

 というのは、人間の意志にかかわらず、認知しない場所に突然現れて、タイムトラベルと行うものとなるのだ。

 だから、どこに現れるか、実際に正体不明と言われるものだ。

 しかも、いつも同じ場所にあるというわけではなく、小説などでは、

「月や天体の影響で、決まった時に、決まったところに現れる」

 と言われているが、その法則は誰にも分からない。

「分かっていれば、もっと詳しく、タイムスリップというものが解明されているかも知れない」

 といえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「タイムスリップというのは、あくまでも、アイテムによるものでしかない」

 といえるだろう。

 その点、タイムリープというのは、

「人間の都合に深くかかわっている」

 かのように思われる。

「タイムリープ」

 という発想は、

「あの時代のあの時に戻って、やり直したい」

 という願望から考えられたものではないだろうか?

 実際に、

「人間が創造した発想」

 というよりも、

「都合よく考えた、想像」

 といってもいいだろう。

 いや、

「想像というよりも、妄想に近いのかも知れない」

 だから、実際に根拠があって、考えられたことなのか、怪しいものだと思う。そもそも、タイムリープには、どこかおかしなところが結構あるような気がして仕方がないのであった。

 というのも、タイムリープというのは、

「過去の自分に憑依する」

 というもので、理屈上、

「自分が生きていた時代でしかありえない」

 というわけである。

「生まれる前は、当然あり得ない」

 ということであり、都合よくできている。

 というのは、そもそも、この

「タイムリープ」

 という考えは、

「タイムパラドックス」

 に対しての挑戦的な発想だといえるのではないか。

 それも、

「タイムパラドックスに対しての挑戦という意味から考えられたことなのか?」

 あるいは、

「過去に戻ってやり直したい」

 と考えた時、その解決方法がたまたま。

「タイムパラドックスに対する挑戦」

 ということだということになっただけの、本当に、

「都合のいい」

 という発想にすぎないということではないだろうか?

 それを思うと、

「タイムリープというものが、、本当に都合よくできている」

 といってもいいだろう。


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