(5)英語の授業

一限目の英語の授業が始まった。

講師は、宮沢洋一(50歳:東京大学文学部卒)である。

テキストは、今日突然、原書のまま配布されたヘンリー・デイヴィッド・ソローの大著「森の生活」。

(森での暮らしと大自然の素晴らしさを新鮮な感覚で綴った、文学史上に輝く名著)


講師宮沢洋一は、その一説を原文で読み、日本語訳をそのまま生徒に求めた。

しかし、誰も手をあげる生徒はいない。

(クラス委員長、成績優秀な伊藤恵美も、ためらっている)


講師宮沢洋一は、強圧的で、陰険、しつこいタイプの人間だった。

「こんなレベルの低い生徒は教師生活で初めてだ」

「本当に誰も訳せないのか?」

「何故、こんな簡単な文が読めない?」

「そうであるならば、全員の評価を下げることになるが、それでいいのか?」


クラス委員長伊藤恵美が、立ちあがった。

「宮沢先生、これほどの長い英文です」

「しかも、今日渡されて、予習も全員出来ていません」

「少しは、時間をいただきたく思います」

(目には悔し涙を浮かべている)


しかし、講師宮沢洋一は、横を向いた。

「クラス委員長、そんなことを言っていいのか?」

「お前、やる気があるのか?」

「女性だろうが、涙を流そうが、俺は減点する時は、減点するぞ」

「そもそも、こんなに、やる気がないクラス委員長を初めて見た」


伊藤恵美が、悔しくて唇を噛んだ時だった。

立花隼人が、立ちあがった。

(講師宮沢洋一を厳しい目で見た)


講師宮沢洋一も、反射的に身構えた。

「何だ、立花、文句でもあるのか?」


立花隼人は、冷静な(冷酷かもしれない)目である。

「宮沢講師、質問があります」

(厳しい口調、宮沢講師は、押されて声が出せない)

立花隼人は続けた。

「先ほどのは、英語のつもりですか?」

「冗談ですよね、カタカナの羅列としか聞こえませんでした、まるで記号のようなもの」

「少なくとも、ソローの英語ではないですし、アメリカでも、イギリスでも、誰も英語とは聞きません」

「かといって、フランス風、ドイツ風、ロシア風、ベトナム風、インド風、中国風の英語でもない」

「本当に、そんな読み方で、名誉ある武蔵野学園の英語講師なのですか?」


顏を真っ赤にして、固まってしまった宮沢講師を蔑むように見下し、立花隼人は、同じ一説を原文で読みあげた。

(講師宮沢洋一のカタカナ羅列とは、天と地ほど違う)

(見事なソローの出身地、マサチューセッツの切れのある英語で、生徒たちは目を輝かせて聴き入った)


立花隼人は、原文を美しい発音で読み終え、訳を始めた。

「我々人間が、真剣に、自分自身と自分の歩むべき道を見出そうとするのは、森の中で道に迷った時である」

「すなわち、世界を見失うことによって始めて、我々は、ようやく自分が今どこにいるのかを知ろうと思い始める」

「そして、まさにこの時、自分を取り囲む様々な関係の無限の広がりに、我々は気づくのである」


(生徒からは、期せずして大きな拍手がおきた)

「いい文ね、読みたくなった」

「さすが・・・スタンフォード首席」

「宮沢先生より、立花君に教えてもらいたいな」


立花隼人は、(生徒たちのヒソヒソ声を笑顔で抑え)、真っ青な顏の宮沢講師に迫った。

「今の読み方と日本語訳でも、評価を下げたいのですか?」

「それとも、先ほどの宮沢講師のカタカナ羅列は冗談で、もっと上手に読めて、訳もできると?」

「名誉ある武蔵野学園の講師なら簡単ですよね、浅学菲才な私たちに模範をお示し願います」


宮沢講師は、ガクガクと震えながら、教室を出て行ってしまった。

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