第4話 危機

その頃、健太は自分の教育者としての才能に感嘆していた。講義はうまく進み、学生も楽しそうに聞いてくれていた。しかし、少し学生がそわそわし始めたので、時計を見てみると授業終了時間を10分もオーバーしていた。


「おっと、ちょっと時間を過ぎてしまったね。まあ、サービスということで。それじゃあ、今日はこの辺で」


健太は講義を締めくくると、急ぎ足で壇上を降りた。健太は、心の中で安堵のため息をついていた。あとは、研究室に戻って、コーヒーを飲んでいればいいはずだった。


「先生!」


ドキッとするような可愛い声に、健太は振り向いた。声の主は、最前列で聞いていた、利発そうなショートカットの女子学生だった。


「さて、私の名前は何でしょう」


女子学生は、そう言った。健太は別の意味でどきっとした。学生の名前など、知るはずもなかった。


「いや…」


健太は困り果てた。


「やっぱりね。先生は先生じゃないのね」


女子学生は、悪戯っぽく笑った。数人のスーツの男が、健太の方を見ている。


「何を言ってるんだい?僕は、ここにいるじゃないか」


「だって、先生は、絶対に授業時間をオーバーしたりしないもの」


健太は、全身から汗が噴き出すのを感じた。スーツの男たちが浮き足立ち始めた。


「今日は、特別だよ。さっきも言ったろ、サービスサービス」


女子学生は、しばらく黙っていたが、にっこりしてこう言った。


「私、自信があるの。あなたが、先生じゃないって。あのね..」


女子学生は笑い始めた。健太は、どうしていいか分からなかった。


「あのね、だってね、あなたと、先生って、お尻の形が違うの」


スーツの男のうちの一人が、校舎を飛び出していった。健太は、呆然と立ち尽くすだけだった。スーツの男が2人、無表情で健太に歩み寄ってきた。時計は、1時15分を回っていた。




その頃、翔太は研究所内への侵入に成功していた。入り口にある指紋によるIDチェックは、予想どおり、簡単に突破できた。村山からの手紙についていた指紋を採取し、特殊フィルムに印刷して持ってきたのだ。


研究所の中は、何となく落ち着かない雰囲気になっていた。研究員の数が、机に比べて少なく、どこか別の場所に出かけているようだった。残っている研究員も、忙しそうに歩き回っていた。


「あの、すみません。村山さんはいらっしゃいますか」


研究員の一人を呼び止めてそういうと、


「主任はここには居ません」


と、あしらわれてしまった。どうしようもないので、扉のそばに立って、部屋の様子をうかがっていた。


それとなく計器を観察しているうちに、翔太は大変なことに気づいた。発電量を表しているインジケータが、通常の許容範囲を20%もオーバーしているのだ。今の段階では決定的な危険には至っていないが、今後の推移によっては、危険水準を超える恐れがあった。


翔太は目立たないように、窓の外をのぞいたりしながら、インジケータを定期的にチェックしていた。それは、不定期に上下動を繰り返してはいるが、トレンドとしては、確実に上昇傾向を示していた。発電量が、可逆的な処置が可能な最終水準に近づきつつあった。


「だめだ。何をやっているんだ。発電機を切断するんだ!」


思わず、翔太は叫んでしまった。


「誰ですかあなたは!?」


若い研究員が、うろたえた目で翔太の方を見た。


「横浜工大の新海だ。このままでは、施設自体が修復不能のダメージを被るぞ」


新海翔太の名前は、研究者の間では知られていた。翔太を見る研究員達の目が変わった。


「どうすればいいんですか?」


「緊急スイッチはないのか?」


「緊急スイッチは、主任の許可がないと操作できません!鍵も主任が持っています!」


「村山はどこだ!?」


「H棟です!向こうの発電施設です!」


「俺が連れてくる!」


翔太はそう叫んで、研究室を出ようとした。その時だった。


「ああ!」


悲鳴ともつかない声が上がった。


「どうした?」


翔太が振り向くと、研究者全員が青ざめた表情をしていた。


「可逆停止ラインを超えました...もう、緊急停止スイッチは使えません」


翔太は深く息をした。沈黙が研究室を満たしていた。


「制御不能な加速か」


翔太はつぶやいた。研究員は、翔太の冷静な把握能力に驚くと共に、最悪の事態に絶句した。


「制御不能な加速」とは、ネズミ力発電所の宿命とも言える、最も恐ろしい、しかし、比較的容易に起こりうる事態であった。端的に言えば、それは、数万匹のネズミが回している巨大な回し車のスピードが上がり続け、回し車を含む発電施設が破壊されるまで止めることができなくなるという、恐ろしい事態だった。


もし、ネズミ達の能力が一定であるとすれば(理論上、ネズミ力発電は、ネズミの均一性を前提にしている)、制御不能な加速が起こる可能性は無い。


しかし、現実には、ネズミの能力には5〜7%程度のばらつきがある。ネズミ達が回している回し車のスピードが一定以上になると、体力的に劣る弱いネズミがついていけなくなり、恐怖を感じてパニックを起こす。パニックを起こしたネズミは死にものぐるいになり、今度は通常の能力130%〜160%程度の速いスピードで回し車を回し始める。


こうして、回し車の速度が加速を始めると、ついていけなくなってパニックを起こすネズミの数が正規分布に従って急速に多くなり、ついに、回し車の速度は制御不能な速さに達するのだ。


採算を考えない試験的なネズミ力発電においては、回し車の速度をそれほど上げる必要がないため、こうした事故は起こらない。しかし、実用を考えると、どうしてもネズミの能力の95%以上のスピードで回し車を回す必要があった。この95%が、ネズミ力発電の臨界点と呼ばれているのだ。


翔太の直感的な把握によれば、臨界点を超えた水準での連続運転を行いながら、実用段階で重要となる各種データをサンプリングしているうちに、この制御不能の加速が起きたと思われるのだ。昨日、今日と、大量のネズミが沖で上がったのも、体力的に限界に達したネズミが、回し車の遠心力で飛ばされて、普段は入るはずのない冷却水のパイプに入り、海へと流れ出したと考えれば説明が付いた。


「やるだけやってみよう」


翔太はつぶやいた。


「全員、逃げた方がいい。もう、ここにいてもできることはない。あとは、俺と村山でなんとかする」


14時11分、NEZDACの職員全員に退去命令が出された。

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