第3話 潜入

「兄さん、こんな時間に呼び出して何だい?」


玄関を入るとすぐに、新海健太しんかい けんた(39歳)はそう言った。バイクのヘルメットを脱ぐと、下駄箱の上に置いた。時計は午前1時を回っていた。


「ごめんなさいね。いつも翔太さんが無理を言って」


翔太の妻の美咲みさき(33歳)が健太を出迎えた。


「いや、いいんだけどね。美咲ちゃんも大変だね。兄さんは、全く何を考えてるんだか」


健太は、玄関に腰を下ろしてシューズを脱ぐとそう言った。


「でも、いつ見てもそっくりね。間違えちゃいそうだわ」


美咲は笑った。健太は、昔から翔太と似ていたのだが、35歳を過ぎて、ますます二人はそっくりになっていた。


「間違えて欲しいですね。たまには」


健太は半分本気の冗談を言った。


「それは困るぞ」


翔太が、応接間からそう言った。


「間違えないわよ。見分けるポイントがあるもの」


美咲が笑った。


翔太は健太に、状況を整理して手短に伝えた。


「ネズミ漏れ?」


健太が叫びそうになったのを、翔太が抑えた。盗聴されている可能性があった。


「そうだ。これ以上は言えんが、これまでのお遊びとは訳が違う」


翔太の組んだ両手が微かに震えているのを、健太は見逃さなかった。


「分かった。で、また、大学で講義をすればいいんだね。兄さんの代わりに」


健太は過去2度、翔太になりすまして、大学で講義をしたことがあった。しかし、1度目は翔太と美咲の結婚5周年のヨーロッパ旅行のためだったし、もう1度に至っては、いまだに翔太が理由を明かさない、訳の分からない「所用」のためだった。


「ただし、手を抜くこと。お前は張り切りすぎるからな」


翔太がつけ加えた。


午前10時、健太は、ジーンズにジャケットという、翔太のお決まりのスタイルで車に乗って大学に向かった。何台かの車が、「翔太」を追って大学へ向かうのが、カーテンの陰から見えた。その30分後、翔太はバイクで若狭湾沿いの寒村へと出発した。バックミラーで後ろを確認したが、どうやらマークされていないようだった。


「健太、うまくやれよ」


翔太はつぶやいた。


健太はうまくやっていた。11時25分、2時限目の授業が始まると、健太は2年ぶりに大講義室の壇上に上った。相変わらず翔太の授業は人気があり、200人前後の学生が講義を聴いていた。部屋を見渡すと、後ろの扉の陰に、数人の男が立っていた。健太は動揺したが、深く息をして、気持ちを落ち着けた。健太を疑ってかかる学生はいなかった。ただ、最前列で聞いている利発そうな女子学生の視線が気になった。


「いやー、この前静岡に学会に行ったんだけどね、なんと、プログラムから僕の発表が消えてたんだよ」


健太は、翔太に言われたとおりのせりふで講義を開始した。扉の陰の男たちが、驚いて「翔太」の方を振り向いた。


「発表しようとしたのは、水洗便所発電という研究で、全国数千万世帯の水洗トイレに水力発電器をつけたら、長野県の電力の30%をまかなえるという...」


学生がどっと笑った。


その頃、翔太は時速250kmで北陸自動車道を北上していた。翔太は学生時代、健太に刺激されて大型2輪の免許を取り、2028年に設定された速度制限解除のライセンスも取得していた。12時23分、翔太は敦賀ICを降りた。


村山が送ってきた手紙の住所を頼りに海岸沿いの道路を走ると、巨大なコンクリートの建造物が目に入った。浅い海岸の地形から、造船所ではないことは確認できた。送電用の鉄塔の大きさから見ても、それが、発電施設であることは間違いなかった。


高い鉄柵が張られた門の前を、翔太はゆっくりと横切った。銅でできたプレートには、「後藤重工業特殊金属研究所」と書いてあった。警備員は1名。監視カメラは電源が切られていた。


翔太はいったん最寄りの駅まで行くと、スーツに着替え、タクシーに乗り込んだ。


「NEZD...いや、後藤重工業の研究所まで」


翔太は、60歳過ぎの運転手にそう言った。


「ねずって、お客さん。ネズミかい?」


運転手は言った。翔太はドキッとした。


「ネズミがどうかしたんですか?」


冷静な声で聞き返した。


「なんだい、知らないのかい?昨日、今日と、朝の漁で大量のネズミが上がってんだよ。みんなで、あの研究所が原因じゃないかって、噂してんだよ」


「そうなんですか。じゃあ、ちょっと聞いておきますよ。友人がいるもので、今日、来てみたんですがね」


「お願いしたいねえ。わしらには何が起こってるんだか、かいもく見当がつかない」


翔太は正門の前でタクシーを降りると、真っ直ぐ警備員のいる受付へと向かった。


「どうも、こんにちは。奥村電子の篠原と申しますが、村山さんと打ち合わせをすることになっているんですが」


翔太はそう言いながら、自分のアドリブの才能に驚嘆していた。もし、新海翔太の名前がチェックリストとして回っていれば、本名を名乗ることは危険だった。


「はいはい。少々お待ちください。一応、電話をかけますから」


穏和な老警備員は、そう言って内線を取った。少々警備員を甘く見ていた。やはり、警備員たるもの、来訪者の身分の確認程度は欠かさないらしい。もし、村山に面会を断られたら、本名を名乗るしかなかった。沈黙が長く感じられた。


「だめですね。誰も出ませんわ」


警備員は、そう言った。


「そうですか。午後3時の列車で、東京に戻らなければならないので、急ぎたいのですが...」


「そうですなあ。しかたないですね。どうぞ通ってください。あんたを信用しますよ」


警備員は、人の良さそうな笑顔で、そう言った。


「申し訳ありません。お言葉に甘えます」


翔太はそう言って、深々と頭を下げると、研究所の建物へと歩き出した。13時01分、新海翔太は、NEZDACの敷地内へと進入した。

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