第8話 ふたりの母 ④

 私は学校に到着すると、保健室に走った。何事もない普通の小学校。下校している子供たち、挨拶に応える先生。


 何事も、ない。


-違う!うるまに張った結界を誰かが壊そうとしている!急がなきゃ!


 私がうるまに張ったのは、うるま自身を守ると同時に、怪異が触れれば私に伝わる術を入れた結界だった。そしてうるまは、優梨先生と保健室のそばにいる。しかし今のところ、学校にはなんの異常もない。


-何もない、おかしい。


 だが、保健室に向かう廊下に出たとき、何かの壁に当たる感触があった。だが、廊下には誰もいない。見た目はただの廊下だ。


-これ、結界!!


 私は瞬間的に霊気を高め、両手のひらを見えない結界に押し当てた。

「感じる!こんなもので!!」

 私は結界を突き破り、前につんのめる。と、子供たちの、先生たちの、様々な小学校の喧噪が消え、薄暗い空間に放り出された。


 そこに、優梨先生とうるまがいた。


「うるま!優梨先生!」

「おかあさん!」


 優梨先生はうるまを胸に抱いて怪異の瘴気に耐えている。

 その背中には、何匹もの子鬼が群がっている。

 優梨先生の顔がゆがむ。そしてしっかりと握りしめた拳で、肩口からのぞき込む子鬼の鼻面を殴りつける。子鬼は一瞬ひるむがすぐにその腕を伸ばし、うるまを掴もうとしている。


「優梨先生、先生にはこれが見えるのね?」

「は、はい、少しだけ。でも、こんなにたくさんでは私にはもう」


-優梨先生、やっぱりあなたには力がある。それも結構な力持ちよ。


 私は優梨先生とうるまをかばうように瘴気に立ち塞がり、その出所を探る。


-あそこだわ。瘴気の出所。


 そこは、保健室だった。その閉まっているはずの扉から、濃い瘴気と共に子鬼がぞろぞろと這い出てくる。

 私は素早く優梨先生の背後に回り込むと、両手の平を顔の前で合わせ、息を吹き込みながら霊力を練り上げる。その手のひらを先生の背中に打ち付けた。


「はいっ!!」


 その瞬間、両手のひらから霊気が吹き出し、爆発的に盛り上がる。その霊気は優梨先生の背中に取り憑いた子鬼を一瞬で霧散させ、更に優梨先生とうるまを包み込み、巨大な結界を形作った。


-よし、これでひとまず。


 私はその勢いそのままに、自分の体にも霊気を纏わせ、保健室に向き直った。

 子鬼はまだぞろぞろと出てくる。赤鬼とか青鬼ではない。数種類の絵の具を中途に混ぜ合わせたような色。鮮やかさは微塵もない、暗い、不快な色。

 目はあるべき場所に無い。ただ、頭から生えた角のようなものが辛うじて鬼と呼べる特徴だ。


-こいつらは相手じゃない。


 私は大きく両手を広げ、そして顔の前で合わせた。それは神殿に向かう柏手のように。


 パンっ!!


 体に纏わせた霊気は音と共に前方に飛び、目の前まで迫っていた子鬼共を霧散させる。私はその隙に保健室の扉を開け、中に飛び込んだ。


 うぐっ!!


 体が入り口に押し戻される。保健室は濃い瘴気の塊に埋め尽くされている。保健室の奥に溜まった一層濃い瘴気から、今まさに子鬼が這い出しているところだ。

 私は霊気を限界まで広げ、瘴気の元から出てくる子鬼を押さえた。


-あとは、あの本体を。


 瘴気は子鬼を出さなくなった分本体に集まり、更に濃く凝縮されていく。その中におぼろげに見えるのは、保険教諭の斉藤先生だった。

 机に突っ伏している斉藤先生は、瘴気を自分に取り込んでいるように見える。


-子鬼ではなく、自分が出るつもりか。


 斉藤先生は突っ伏していた顔をぐるりと回し、私を見た。その目は人のものではない。白目は充血しているのに、黒目は白く濁っている。


-死んだ魚。


 瞬間的にそう思った。

 斉藤先生は頭を上げ、上から吊られ、引っ張られるように立ち上がった。まるで重力に逆らうように。肌は青白く変色し、だらりと下げた両腕をゆらゆらとする様は、首を吊られているようだった。

 前に見たときは華奢な女性だと思ったが、その白衣の胸元は、はち切れそうに膨らんでいる。その膨らみは、腹まで垂れ下がっているようだ。


-こいつ、そうか。チーノウヤ乳の親か。


 チーノウヤ、それは“乳の親”という怪異だ。チーノウヤは子供に強い執着を持っている。伝承では、幼くして亡くなった子供を墓の中で育てる怪異、あるいは子供を愛するあまり、生きている子供を水や墓に引きずり込む怪異とも伝えられている。

 だが、本来は自分の子供を死んでも守ろうとする、悲しい母親の執念が生んだマジムンだ。


-こいつは母性愛の塊、それなら。


 私は両手をチーノウヤに向けて開き、言葉を掛けながら近づいた。


「あんた、チーノウヤだね。どこで子供を亡くしたの?悲しかったねぇ。辛かったねぇ。だから子供がたくさんいる小学校に来て、みんなに好かれてる保健室の斉藤先生に取り憑いたんだねぇ」


 チーノウヤは私を見ながら苦しげに口を開け、何かを伝えようとしている。


「たくさん子供がいるから、あんたの力はこんなに強いのかい?でもねぇ、このままじゃ、あんたが大好きな子供たち、みんな死んじゃうよ?それでいいのかい?」


 パクパクと口を動かすチーノウヤだが、声は出てこない。いや、絞り出すような声が、少しだけ聞こえてきた。


「・・・が・・・・ち・・・・が・・・」

「なんだい?聞いてあげるよ」


 もう少しだ、私の両手をチーノウヤの乳房に当てて、ありったけの霊気を入れれば、それで終わる。乳房は母親の慈愛の象徴、斉藤先生に取り憑いているチーノウヤの力の源だ。

 あと少し、私は瘴気に押されながらも歩を進め、あとほんの少しのところまで、両手のひらが胸に届く距離まで進んだ。

 その時、苦しげだったチーノウヤの声が、保健室に響いた。


「ちがうわ!この間抜け!!」

 その声は、男の声だった。


-こいつっ!チーノウヤじゃ、ない?


 斉藤先生の胸元まで届いていた私の両手を、斉藤先生は掴み、強く引いて乳房の上に置いた。


「どら!お前の力、入れてみろ!!」


-っ!やってやる!!


 私は両手のひらを合わせ、そして指を組み合わせて複雑な印を結ぶ。私の体を包んでいた霊気は一瞬のうちに膨れ上がり、そして手先に収束した。


「どぅあーーっ!!」


 魂魄の気合いと共に、収束した霊気は斉藤先生の乳房に突き刺さる。

 斉藤先生を包んでいた瘴気は、体を貫く霊気と共に霧散した。


「や、やった?」


 斉藤先生は確かにチーノウヤに取り憑かれていた。そして今の一撃でチーノウヤは祓われた、はずだ。

 俯いていた斉藤先生の顔がゆっくりと上がる。その目は、保険教諭、斉藤先生の目だった。


「・・わ、わたしは?」

「やったわ。斉藤先生、大丈夫?」

「は、は!」


 斉藤先生の目は、私の後ろに釘付けだ。私は背後にいやな気を感じて振り向く。

 そこには、うるまを抱えた優梨先生がいた。チーノウヤの両腕が、優梨先生の胸元に入り込もうとしている。


「だ、だめよ!優梨先生!がんばって!!」


 優梨先生はかなりの霊力を持っている。それに子供を守ろうとする気持ちは人一倍強い。責任感もある。その優梨先生が心を奪われないように必死の抵抗をみせる。だが、それも続かない。

 優梨先生の胸が異様に膨れ上がってきた。


「だめだ、チーノウヤになる」


-でもおかしい、さっきので祓えないなんて、チーノウヤなのに、強すぎる。


 優梨先生はついにがくっとうなだれ、そして上げた顔、その目は、死んだ魚の目だった。

 優梨先生の手がうるまの首に回る。優梨先生を見上げるうるまの目にみるみる涙が溜まる。


「あーーー!かあさん!あーーーーー!ゆうりせんせいーー!!」


 必死に叫ぶうるま。その時、うるまの体はまばゆい光に包まれ、優梨先生の体からチーノウヤを吹き飛ばした。


「はっ!!わたし、いまなにを」


 正気に戻った優梨先生は、うるまの首に回した手を離し、本能的にうるまを抱きしめた。

 うるまの体を包んでいた光はすでになく、泣きじゃくっている。

 私はつかの間ホッとした。うるまが自力でチーノウヤを祓ったのか。


-だけど、強すぎる力を使えば、うるまは・・


 考える間、隙が生まれた。私は後ろから巨大な瘴気に包まれた。

「うぐっ!!」

 とっさに印を結び、霊気を高めて抵抗するが、すでに瘴気の塊が胸に入り込んでいる。くるしい、胸が締め付けられる、うるまの姿が愛おしい、自分のものにしたい。

 違う違う!うるまは私の息子、可愛い私の宝物、お前のものじゃ、ない!


「な、舐めるな!!チーノウヤごとき!!」


 私は印を結んだまま手を広げ、高まった霊気を両手のひらに集中、自分の胸に叩き込んだ。

「あーーー!!あーーーーー!!」

 私から離れた瘴気が黒い塊に結晶していく。それは人の姿。それは、女に見えた。


-チーノウヤ、今度こそ、やったか。


 私は目の前の女に集中し、霊気を練り上げる。


-ここで決める!!




つづく

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