第2話 封印の記憶 ②
真夏の沖縄じゃ、夜の8時前でも空にはまだ明るさが残ってる、薄暮っていう時間だね。
この季節になると、私はある家族のことを思い出すんだよ。
その家族に出会った頃、私は高校生だった。でもこの話をするにはまず、私が中学生の頃まで遡らなきゃならない。
あの頃、そうだな、中学生の頃っていうのは、体も心も、あらゆることが成長する時期だったね。君もそうだったんじゃないか?
そう問いかける安座真さんの瞳はとても優しげで、でも僕の瞳をまっすぐ見つめていて、僕は眼が離せない。
僕は安座真さんの話を聞く、というより、安座真さんの話に引き込まれていった。
中学の頃、私は沖縄の地元で剣道の道場に通っていたんだ。それまでに経験があったわけじゃないし、別に強くなりたかったわけでもなかったんだけどね。ただ、試合はもちろん稽古でも感じる張り詰めた空気感や、道場に入る瞬間、言い知れないどこかに入っていくような感覚が好きだったんだ。
道場は一般に開かれていたから、いろいろな人がいたよ。小学生が多かったけど、中学生や高校生、社会人もいた。私はその中でも初心者だったからね、小学生に教えてもらうこともあったな。強くなるのが目的ではなかった私にとって、そんな事もとても楽しかった。
そんなある日、稽古の順番を待っていた私に話しかけてきたのは、比嘉さんだった。道場でも一、二を争う実力者だったよ。
その頃比嘉さんは三十代だったか。私とは歳が離れていたし、そもそも私は超が付く初心者だったからね、稽古をつけてもらうどころか話したこともなかった。言わば、憧れの先輩、といったところだ。
「安座真君、だったね」
「は!はい比嘉さん!安座真です!」
比嘉さんはなぜか私の名前を知っていた。
そのときの私は、驚きと緊張のあまり声が裏返ってたと思うよ。
「そんなに怖いのかな?俺って」
そう言った比嘉さんの目は、とても優しげだった。
「い、いえ!すごい人だと知ってますし!お話しするのも初めてなので!」
「いいよいいよ、そんなに緊張しないで、私の方はね、君が入ったときからちゃんと知ってるから」
「あ、ありがとうございます!」
「だからいいって、そんなに緊張しないで。それよりさ、ちょっとだけ僕と稽古してみないか?」
「え?」
意外な申し出に、私は驚いた。
「それはちょっと、僕は嬉しいですけど、僕なんかじゃ比嘉さんの稽古の方が・・」
「大丈夫、それより僕の方が君と稽古したいんだから、気にしないで」
道場では強い人にお願いして、何人かまとめて稽古をつけてもらうこともある。でもこれは比嘉さんと私、一対一の稽古だ。私に断る理由なんてなかった。
「はい!ありがとうございます!ぜひお願いします!」
「そうだな、まず掛かり稽古からいくか!」
「はい!」
掛かり稽古というのは、二人が元立ちと掛かる側に分かれて行う稽古だ。
元立ちは、掛かる側に対して打ち込む隙を作る、そして掛かる側はその隙を見逃さず全力で打ち込む。気力も瞬発力も必要な厳しい稽古だ。
まず私が掛かる側だった。比嘉さんは私に打ち込ませるよう、ここだぞ、と言うように隙を作る。その瞬間、私はそこを目がけて全力で打ち込む。でも比嘉さんはその全力の竹刀を全て軽々と打ち払った。
次は私が元立ちだ。
私はもちろん打ち込む隙を作るのだが、比嘉さんの打ち込みはその隙とほぼ同時、それどころか私がどこかに隙を作ろうと思った瞬間、正にその場所を寸分違わず打ち抜くようだった。
実力の差とはこういうものか、これほどまで違うものかって、当時は思ったね。
そこまで話すと、安座真さんは少しの間を置いた。
「隙を作ろうとした所に、それが分かっていたように打ち込んでくるなんて、剣道の実力者ってそんなにすごいんですか?」
その間を使って、僕は素朴な疑問を投げ掛けてみた。
「うん、そういうことは確かにある。でも比嘉さんの速さはちょっと、人間離れしていたね」
そう話す安座真さんの眼は、どこか楽しそうだった。
「でもな、そこからが大変だったんだよ」
安座真さんは少し目を伏せたが、すぐ僕に向き直って話を続けた。
「よ-し安座真君、掛かり稽古はこれくらいにしよう!さぁ次は、試合稽古といくか!」
余裕の比嘉さんに対して、私は掛かり稽古だけで息が上がっていたが、それでも試合稽古に臨む気力はあった。
試合稽古はもちろん本当の試合じゃない。お互いが常に気合いを張り詰めて、正しい姿勢を保ちながら打ち合う、模範試合のようなものだ。しかし稽古とはいえ勝敗をつけるのだから、厳しい稽古になるのは分かっていた。
試合稽古が始まると、比嘉さんは正面に構えほとんど動かない。でも、面の中から私を見つめる目は、まるで私を射貫くようだ。
これでは私の方から仕掛けるしかない。だけど私が仕掛けると、比嘉さんは一歩、いや、半歩動いたかどうか、という間合いで竹刀を避けた。
打っても打っても比嘉さんは避ける。かといって私が止まると、比嘉さんはわずか数歩、滑るように近づいて私の間合いに入ってくる。
その恐ろしい速度と叩きつけるような気合だけで私は圧倒された。
私はもう、比嘉さんを自分の間合いから押し返すために、ひたすら打ち込み続けるしかなかった。
道場にキュッキュッと響く私の足音、二人の竹刀が競り合い、そして気合を込めた一撃。しかし、その全ては虚しく空を切った。
私の息ははぁはぁと上がり、もう立っているのもやっと。
そしてようやく、比嘉さんは次々と私の隙に打ち込んできた。まるで私がふらふらになるのを待っていたかのように。
さっきまでの間合いを詰めるだけだった比嘉さんとは別人だった。
しかしその打ち込みは軽く、そしてどれも間一髪決まらない。
いや、決めようと思えば一瞬なんだと、私には分かっていた。
比嘉さんはわざと一本を決めず、ふらふらの私を更に追い込んでいるんだ。
「なんで、どうしてこんなことを」
私は面の中でつぶやいた。
「比嘉さんは、僕をいたぶってるのか?」
頭に巻いた手ぬぐいから汗が流れて眼に入る。痛い。視界がぼやける。
もう息もできない。苦しい。
「もう限界だ」
そう感じた瞬間だった。
私の目が比嘉さんの隣に何かを捉えた。
比嘉さんの隣に確かにいる、比嘉さんではないもの。
それは、人の形をした白い影だった。
それが何なのか、私に考える余裕はなかった。ただ本能が、それを打てと言っていた。
「ぃやあ---っ!!」
裂ぱくの気合を込めたその一撃は、白い影を真っ二つに切り裂いた。
「やった!」
一瞬、比嘉さんの姿が私の視界から消えた。次の瞬間私が感じたのは、私の脳天に振り降ろされた竹刀の衝撃だった。
真っ二つに切り裂かれた。私はそう思った。
目の前が真っ暗になった。次に私の眼が捉えたのは、煌々とした道場の照明だった。私は尻もちをついて、天を仰いでいたんだ。
どうやら一瞬気を失ったようだ。そんな私の腕を引いて立ち上がらせてくれたのは、他でもない比嘉さんだった。
そしてまだ荒い息づかいの私に、比嘉さんは言ったんだ。
誰にも聞こえないような小さな声で「何が見えた?」って。
その質問に答えるだけの気力は、もう残ってはいなかった。
すっと、気が遠くなった。そして今度は本当に、気を失ったんだよ。
その日の帰り、比嘉さんは私を車で送ってくれてね、そして車中、私に話をしてくれたんだ。
「安座真君、今日は悪かったね」
「いえ、ものすごい練習になったと思います。ありがとうございました」
それは本心だった。道場でも有数の実力者に、最後は本気の面をもらったんだから。
「君のことは、道場に入った時から知っている。私は最初そう言ったね。でもなぜ初心者の君のことを私が気に掛けていたか、分かるかな?」
「いえ、僕は確かに初心者だし、稽古は好きですけど全然強くならないし、どうしてなんですか?」
ふふっと、比嘉さんは笑い、僕の質問に答えてくれた。
「君は道場に入るとき辺りを見渡して、なにかを探すだろ?」
「あ、はい」
それは本当のことだった。道場に入るとき、何か薄い膜を破って異世界に迷い込んだような感覚になる。それがどこから来るのか、なぜ感じるのか、いつも探していたんだ。
でもそれが見つかる事はなく、いつしかそれは、自分の癖みたいなものと思っていた。
「僕はね、君が何かを探していることも、それが何なのかも知ってるんだよ。それで今日はね、それが何なのか、君に見せてあげようと思ったんだ。そのために君を限界まで」
「あ、あの白い」
私は比嘉さんの言葉を遮って言いかけて、そしてすぐに口をつぐんだ。自分自身では、それは限界を超えた自分が見た幻覚だと、そう思っていた。
でも比嘉さんは、その言葉を待っていたかのように言った。
「そう、それだよ」
比嘉さんにそう言われて私は初めて、あの白い影が幻覚ではなかったと知ったんだ。
「あれって、いったい」
「あれはね・・」
それ以来、比嘉さんに教えてもらったあれは、私にとって日常になった。
あれが見えたとき、そして比嘉さんが脳天に打ち込んだ一撃のその瞬間から、私には日常になったんだ。
安座真さんはそこまで話すと、また少し間を置いた。
つづく
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