逢魔が時に、出逢うもの

ひゃくねこ

第1話 封印の記憶 ①

 小さい頃、僕は弱虫だった。

 記憶の中の僕は、いつだって母の胸に顔をうずめている。


 僕は泣いていて、何かに怯えている。でも、いったい何に怯えていたのかは覚えていない。

 いや、本当は思い出したくないのかもしれない。

 でも、そんなときに必ず母が言っていたあの言葉だけは、今もはっきり覚えている。


「アンマークートゥ、アンマークートゥ、おかあさんのことだけ見ておきなさい、おかあさんが、すぐにいなくするからね」


 母がそんなことを言ったのは、きっと何かがいたからだ。


 幼い僕の、その後ろに。



 部活を終えた僕が誰もいない教室に戻ったのは、夕方と言うにはもう遅い時刻だった。

 薄暗い真夏の教室は、まだムッとする空気を溜め込んでいる。


「ちょっと、そこの君」


 そこの君、と声を掛けられても、即座に自分のことだと思う人はいない。

大方の人は、呼ばれたのが自分だとは、あえて思わないようにするだろう。

 僕もそういう大方の一人だ。教室には僕ひとりしかいないのだが。


「君、君だよ」


 その声が、もう一度教室に響いた。

 大きな声ではないが、太くてよく通る声。


「驚かせたようだね、申し訳ない。ちょっと君と話がしたくてね」


 少し驚いている僕の心を見透かしたように話し掛けてきたのは、剣道部の監督をしている安座真あざまさんだった。

 安座真さんには体育館でも時々会うことがある。でも先生ではないから、普段は別に仕事をしているんだろう。


 僕の通う学校はスポ-ツの有名校だが、中でも剣道部は強い。県大会では毎年上位、全国大会にも出ているし、全国制覇だって一度や二度ではなかったはずだ。

 そんな部の監督なのだから、安座真さんの指導はもちろん厳しい。だけどこの人は、剣道部の連中にとても慕われているようだ。本当に優秀な指導者っていうのは、きっとこういう人なんだろう。

 でも剣道部の監督が僕になんの用がある?


 安座真さんは沖縄出身らしい。

 僕もそうだ。小さい頃は沖縄に住んでいたのを覚えている。

 でもそれが僕を呼び止める理由だとはとても思えない。

 思わぬことに、僕は少し慌てていた。


「少しね、話しても大丈夫かな?」

「えっと、別に構わないですけど」


 安座真さんの口調は優しい。僕は少し安心したが、安座真さんが僕なんかと何を話したいのか、それは見当がつかなかった。


「実はね、君が部活に入った頃からずっと君のこと見てるんだけど、卓球部だよね」

 僕の返事を待たずに、安座真さんは続ける。

「君、剣道部に来ないか?」

「えっ! 剣道部、ですか?」

 あまりに唐突なその申し出に、僕は動揺を隠せなかった。


 安座真さんは卓球部から僕を引き抜くつもりなのか?


 確かに卓球部は剣道部みたいに全国大会常連ってわけではない。でも県大会では常に上位に入っているし、僕は1年ながら卓球部の中心選手だ。

「いや、それはお断りします」

 即座に断った僕の顔色を見て、安座真さんも即座に諦めたようだ。

「ん!やっぱダメか!!」

 そう言う安座真さんの顔は残念そうでも悔しそうでもなく、逆に嬉しそうだった。


 少しの間、笑みを浮かべて僕を見ていた安座真さんは、急に真面目な顔をしてまた口を開いた。

「だろうと思ったよ。君が卓球部で活躍しているのはもちろん知ってるんだ。でももし君が剣道部に来てくれれば話が早いなと思ってね、イチかバチか聞いてみたって訳さ」


-イチかバチかってなんだよ。今更剣道なんて、僕がやるわけないって分かってて言ってるんじゃないか、いい加減だな。

 僕は心の中で毒づいた。


「うん、本当に悪かった。じゃあ今、話をさせてもらうよ」

 安座真さんは僕の考えを読んだように続けた。

「今から聞いてもらう話っていうのはね、剣道とはあまり関係ないんだ。でも剣道部に来てもらうより、ずっと大事な話なんだよ」


 そう言いながら、もし剣道部に来てくれればすごく嬉しかったけどね、といたずらっぽく笑う安座真さんは、僕の心を確かに掴んでいた。


「分かりました。それでその、お話ってなんでしょう?」


 そして安座真さんの話は始まった。




つづく

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