2-2

 霊山への旅が始まって数日。夏はまさに盛りを迎えており、外界に慣れていない主のことを考えれば野宿をするのも少々考えものな時期に入っていたが。

「海李よ~、これはなんだ~?」

「はぁ」

 盛大に溜息を溢す海李の視線の先には、通りがかった市の出店の品物の数々に目を輝かせる我が主の姿があった。

「なぁそら。俺達って一応お忍びの旅をしてるはずだよな」

「………一応はな」

 お忍びの旅である以上自分も人前で気軽に言葉を話すことができないので、海李の肩に止まった状態で小声で答えた。

「あのお転婆姫を見てどう思う。今どんな気持ちだ眷属として」

「まぁ………、良いではないか。ずっと都を離れられなかった主様にとっては、ああしてご自身の眼に映す物すべてが輝いて見えるのも無理はない」

 それに、と続けた。

「お前が言ったことではないか。主様の“夏探し”の旅だと」

「それとこれとはまた別問題というかだな」

「男だろう。一度口にしたことには最後まで責任を持つことだな」

 それだけ告げて自分は海李の肩から飛び立った。

「あっ、そらお前!刹夏の面倒を俺に押しつける気かっ!」

「斥候として主の行く道の安全を確かめるのも眷属の務めでな」

 そう口にしたときには既に自分の身は高高度に位置しており、おそらくその声は海李には届いていなかったことだろう。

 主が外の世界を初めて体験するのと同じように、自分もまたこうして外で自由に羽を伸ばせる機会はこれまでほとんどなかった。小さな身体に受ける風が心地良い。こうして遥か高みの薄群青を背にして、地上に広がる町並みや人の群れ、雄大な自然が織りなす風景を眺めることに内心病みつきになっている。

 ―――改めて、こうして世界を見渡してみると、美しいものだな。

 ―――この世界はどこまでも広く、青く、美しい。

 主や海李とは見える世界の色が異なるとはいえ、自分だけがこの高みからの景色を眺めることができるという事実に、ほんの少しだけ後ろめたさも感じる。主に限ってはその気になれば海李と同じように視界を共有することもできるが、自身で言っていたように直接自分の目では見られないという意味ではやはりこの光景は自分だけのものなのだ。

 自分だけがこの世界の美しさを正しく知っていて、二人には知る術がない。

 そのことを申し訳なく思うのと同時に、主が同じように世界の美しさを知ることのできるよう努めるのが自身の役目だと、そう自分に言い聞かせる日々だった。


「ん?」

 市の先の安全を確かめ、主の気配を頼りに市へ戻って来たとき。視線の先にはとある出店の前で何かを物珍しそうに眺める主と、その傍らで頭を抱える海李の姿があった。

「カアァ」

「お、ようやく戻ってきたな、そら。ちょうどいいところに」

 海李の肩に止まると、当の海李は救いを求める眼差しをこちらに寄越してきた。

「一体どうしたというんだ」

「いや、刹夏のやつが“あれ”にひどくご執心のようでな」

「あれ?」

 海李の指差す先、主の背中の向こうにはよく手入れされた刀や甲冑といった鉄製の武具が地面に並べられている。おそらくここは戦場で使用され、命を落とし主のいなくなった武器や防具を商う店なのだろう。

 主が眺めていたのはその中の一点、黒銀に鈍く輝く扇状の何か、というより扇だった。鉄製の。俗に鉄扇と呼ばれる護身用の武器だろう。都である程度の階級のものであれば所持している者も多いはずだが、基本屋敷に籠もりきりの主には当然縁のない代物だ。こうして目にするのも初めてのことだろう。

「店主、少しこれを持たせてもらってもよいか?」

「えぇ、構わねぇですぜ」

 主は店主に確認をとると徐にそれを手に取り、扇を広げたり閉じたり、軽く振るなどしてから小さく「うむ」と呟いた。

「海李よ、我はこれが気に入った。路銀を寄越すがいいぞ」

「そんなものを買うための金はない」

「何を申すか、都を発つときに潤沢に用意していたはずであろう」

「忘れてるかもしれないから一応言っとくが、目的地の霊山に着いた後はいつ都に戻れるか分からないんだぞ。向こうで生活の安全が保障されるとはいえ、無駄遣いはしないに越したことないだろ。第一、鉄扇なんて欲しけりゃ今度都に戻ってからでももっと上等のものが手に入る」

「分からんやつよの。万一我がこの旅の道中で賊に襲われたときのことを考えれば、身を守る物の一つや二つ持っておくに越したことはないであろう?」

「そうなったときのために俺が傍にいるんだがな」

「ぐぬぬ………」

「他に言いたいことはないか?ないならもうとっとと行くぞ。そら、市を出た先の道は特に問題なかったか?」

「ガアァ」

「そうか、じゃあ―――」

「いーやーじゃー!我はこれがほーしーいーのーじゃー!!!」

「カァッ!?」

 突然大声で子供のような駄々を叫ぶ主に、道行く人々が一斉にこちらを注視するのが背中越しにも分かった。

「だあぁ、もう分かった分かった!買ってやるから大人しくしてくれ、恥ずかしいだろうが!」

 海李が店主に決して安くはない額を支払うと、自分達はその場から逃げるようにして市を出た。

 振り返って市が見えなくなるほどの距離まで歩いた頃には既に空の色は茜色に染まっていた。昼間の暑さも和らぎ、どこかの空から他の鴉の鳴き声が聞こえる。

「ふふん」

 主は歩きながら店で買った鉄扇を眺め、時折開いては機嫌良さそうに扇いで笑みを浮かべている。

「まったく、このお転婆姫にはかなわんな」

「何を言うか、お主が最初に申したことであろう。“夏探し”の旅だと」

「そのごつい鉄扇のどこに夏を感じたっていうんだよ」

「夏と言えば扇子の時期であろ?」

「普通の扇子ならもう持ってるだろうが」

「固いことを言うでないわ。えいっ」

 そう言って主が手にした鉄扇で海李の肩を軽く叩いた。

「いててててっ!ちょ、馬鹿、やめろやめろやめろ!」

 その後も何事かを言い合う二人の背中を少し後ろから眺めながら、自分は密かに“この夏がどうか終わりませんように”などと荒唐無稽な願いを胸の内に秘めていた。

 主にとっても自分にとっても、こんなに自由で愉快な日々は初めてだった。


***


 あくる日の晩。その日のうちに次の町までたどり着くことのできなかった自分たちは道中の山の麓で火を囲み、野宿をしていた。主は既に横になって休んでおり、自分と海李だけが依然目を覚ましている。

「刹夏もこうして黙っていれば可愛げがあるんだがな」

「たわけ。主様はいついかなる時も麗しいわ。就寝中とはいえ、余の前でそのような非礼は許さん」

「へぇへぇ。お前は本当に忠誠心の強い鴉だな。武士に向いてるんじゃないか?」

「あいにく棒切れを振り回すような野蛮な真似は好かんのでな」

「鉄扇を楽しそうに振り回すどこぞの主様もか?」

「………それとこれとは話が別だ。そんなことより、お前もそろそろ休んだらどうなんだ」

「俺は護衛だ。主君が休んでいる間は見張りが必要だろう」

「とはいえ身体に障るだろう」

「気にするな、こんなことは慣れてる」

「戦か?」

「あぁ」

 海李は事もなげに答えて焚火に新たな薪をくべる。昼間は青く澄んでいる眼が今だけは赤く揺れていた。

 自分はこの男が刀を抜いて誰かと戦うところを一度も見たことがない。おそらく主様も、以前宮中で賊に襲われたときを除けばほとんどないだろう。

 自分も主に創られた眷属ではあるが、正直人より小さな鴉の身ではできることなどそう多くはない。この旅においても、二人が行く道の安全確認と話し相手程度の役割しか果たせていないことには多少の引け目を感じていた。

 ―――いっそ余も人の姿で創られていたなら、この男と同じように、身を以て主様のお役に立つことができたのやもしれぬな。

 心中に留めたとはいえ主の意向、まして自身の出生と存在そのものに異を唱えるような考えが過ったことに内心自己嫌悪を覚えた。

 代わりに。

「―――このようなこと、眷属である余が口にするのは主様への不敬と捉えられてもおかしくはないが」

「?」

「主様は、お前との旅を楽しんでおられるご様子。そのことには、余も感謝している。ありがとう」

「なんだよ改まって。今晩は雨でも降ってくるんじゃないか?」

「主様の眷属である余が、礼儀を弁えないはずがない。どこぞの不敬な輩とは違うのだ」

「なんか俺を見て言ってないか?」

「礼のついでだ」

「?」

 主を起こさないよう静かに翼をはためかせて、手近な木の枝に飛び乗った。

「少しでも休んでおけ。見張りくらいなら余にも務まろう」

「………そうか。なら、お言葉に甘えるとしようか」

 海李はそう言って背後にあった岩に背中を預け、腕を組んで目を瞑った。人なら横になった方がより良い休息がとれるのではないかとも思ったが、敵襲があったときにいつでも動けるようにということなのだろう。

 ―――職務には忠実、いや、主様への忠義心は本物のようだな。

 この旅を通して、多少、この男に対する自分の評価も変わってきていた。


***

 

 翌日のこと。険しい山道を登っていた途中で主様が突然立ち止まり、興奮しながらある方向を指差して海李に問いかけた。

「海李よ!あそこに見えるのがもしや海か!?」

「ん?あぁ。もう海が見えるところまで来ていたんだな。そうだよ、あれが海だ。どうだ、綺麗だろう?」

「以前からお主の“眼”を通して知ってはいたが、改めて我自身の眼で見るとなんと雄大なことか………」

 主はその場に立ち尽くして呆然とその景色を見つめている。普段から青く澄んだ双眸が、今日はいつにも増して美しく見えた。

「のう、どうして海は青いのだ?」

「透明な水が、空の青を映しているからだ」

「では、どうして空は青いのかの」

「え?うぅん、そう言われるとどうしてだろうな。そら、お前知ってるか?」

「主様。恐れながら、余もその理由は分かりかねます。ですが」

「?」

「余は主様の授けてくださった翼を以って知っております。空に満ちるあの“青”は、どこまでも無限に広がっているのです。どこまでもどこまでも」

「そうか、聞けば聞くほど、誠に不思議なものよの。神の血を引く我にも空が青い理由は分からん。それ以外にも、例えば、あの海の向こうには何があるのか。人という種が何故この世で繁栄を築くことになったのか。神とは何なのか。この世界には、一介の人の身では理解の及ばない事象や理が数多くある。さしずめ、世界の神秘とでも呼ぼうか」

 どこか遠い目で空と海を繋ぐ青の境界線を眺める主は続けた。

「だが世界とは、なんと美しいことよの」

 主が視線を遥か彼方から近場の木々や名前も知らぬ草花、足元の地面に転がるどこにでもある小石、傍らに浮かぶ自分、そして目の前で自身を見る海李へと移していく。その眼差しはどこまでも続く空のように、果てしない慈愛に満ちていた。

「我は、この世界がとても愛おしい」

「―――そうか」

 和やかな空気に気が緩んでいたその時、近くの草むらで何かが動く音がした。

 反射的に海李が腰の刀に手をかけ、主が懐から鉄扇を取り出したのもつかの間。

「………」

 草むらから顔を出したのは無垢な瞳でこちらを見る小さな山猫だった。

「っ、やれやれ」

「ふぅ、人騒がせなものよの」

「―――なぁ刹夏、一ついいか?」

「なんじゃ、申してみよ」

 すると海李が徐に主のすぐ傍まで近づくと、かつてないほど顔を主のご尊顔に寄せた。

「な、なんじゃ?」

「あぁ、実はずっとお前に言いたかったことがあるんだが」

「っ………」

「―――肩の上に毛虫がいるぞ」

「へ?―――うわあああぁぁぁっ!?」

 主様は自身の右肩を見るや否や慌てふためき、乱暴に肩を払って虫を落とした。

「さっきから気付かずにずっと悦に浸ってるもんだからなかなか言い出せなかったんだが」

「ぼーっと見とらんで早う教えんかっ!」

「いてっ!」

 手にした鉄扇で主が海李の頭を勢いよく叩く。ゴツという鈍い音がしてさすがに少し海李の身を慮ったが、虫に気付けていなかったのは自分もそうなので主の矛先が自分に向かないようとりあえず静観を決め込むことにした。

 ———“我は、この世界がとても愛おしい”。

 先刻主が告げた言葉に、自分は内心で筆舌に尽くしがたい喜びを覚えていた。主がずっと焦がれていた外の世界を知り、その美しさと尊さを肌身を通して実感されていることに、ただただ感極まっていた。


 ———そうか、これが夏か。

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