2-1
「じゃあ、お前にとっての幸せって何なんだ?」
「そうじゃの。おぬし等の“眼”を借りず、我自身のこの眼で世界を見て回れれば、それは幸せかもしれんの」
今からおよそ千年前のある夏の日。我が主とその従者は、そんな言葉を交わしていた。
▼▼▼
「―――カァ?」
「目覚めたかの」
自分がこの世に生を受けたとき、最初に目にしたのは空の如く澄んだ青の眼だった。
「お主は我が力を分けた半身。どうか我が翼となり、我の暇を埋めて楽しませてくれ。話し相手が欲しいとずっと思っていてな」
「ガアァ、カァ」
―――承知しました。我が主よ。
「おや、人の言葉は話せるはずだが?」
「カァ?―――失礼しました、我が主。生まれて間もないせいでまだ身体の感覚が覚束ないようで」
「よいよい。今の其方は赤子も同然。許してつかわす」
「寛大な御心に感謝を」
「時に其方、自身の名は認識できておるか?」
「はい。余の名は—――」
▲▲▲
主の屋敷の庭園。そこに生えている一本松が自分のお気に入りの場所だった。主からのご用命がないときにはこの木の枝に止まり、良く晴れた麗らかな日差しの下で微睡むことが密かな楽しみなのだが。
「おーい、そら。今いいかー?」
「………」
よく通る威勢のいい声に忌々しく振り向くと、屋敷の縁側からこちらを呼ぶ一人の男の姿があった。水色の着物を着て腰に刀を下げている。
自分は主様によって創られた特別で高貴な存在。しかし見た目だけを見ればそこらにいる鴉と変わらない。何も反応しなければ、鳥違いだったと思うだろうと判断して無視を決め込んだのだが。
「とうっ」
「クカァッ!?」
堅過ぎず柔らかすぎない何かが自分の頭部にぶつかり、その勢いのまま自分は木の根元まで落下してしまう。
「何をする無礼者!余を誰だと心得て」
「いや、お前が返事しないもんだから聞こえてないのかと」
「聞こえとるわ!余は気持ちよく昼寝を楽しんでおったというのに邪魔をしおって」
憤りと共に視線を向けた先には、左目結膜部分が我が主と同じ青に澄んだ男―――
数ヵ月前にこの屋敷に我が主の護衛の任で朝廷から派遣されてきた武士。聞くところによれば以前公務で主が宮中に出向いた際、主の暗殺を試みたどこぞの下手人を返り討ちにしたことで主様から気に入られて呼ばれたのだという。
「なんじゃ。昼間から騒々しい」
凛とした声が庭園に響く。見れば豪華絢爛な衣装を身に纏ったこの世のものとは思えぬ至高の美しさを持つ女性がこちらに近づいていた。
「っ、主様」
「“昼間から騒々しい”って、まるで夜なら気兼ねなく騒いでいいみたいな口ぶりだな、
もう一人の神の血を引く、この国を統べる帝とは対照的に、代々人民の支配や政を好まないことから民衆に主の存在はほとんど認知されていないが、血統とその身に宿る人智を超えた“力”ゆえにこうして朝廷のお膝元で管理下に置かれている。
「阿呆。そこまでの深い意味はないわ。なんぞ二人で楽しいことをしているのなら我も混ぜよ。退屈しておったところじゃ」
「そうか。そらにお手玉を投げて遊んでいたんだがお前もするか?」
「我の眷属に対して何をしとるんじゃお主はっ!!」
間髪入れず主の鋭い張り手が海李の後頭部を引っ叩いた。
「いてっ!冗談だ、別にそんな趣味の悪い遊びをしてたわけじゃない。ちょっとそらに用があって声をかけてただけだ。なぁそら?」
「お手玉を余に投げつけてきたのは本当であろうが」
意趣返しに主様に叩かれたばかりの後頭部を多少強めに嘴で突いてやった。
「あたたたっ!だから悪かったってーの!」
自分はこの軽薄な男のことをあまり良くは思っていなかった。主の命を守ってくれたことには素直に感謝しているが、それと人としての相性が合うかどうかは別の話。好き嫌いというより、自分はこの男とは根底から分かりあうことはできない。そう自分の直感がひっきりなしに告げるのだ。
何より、自分が気に食わなかったのは。
「でだ。話の腰が折れちまったが、今度また休暇で何日か留守にする。だからその間刹夏の面倒を見てやってくれってそらに連絡したかったんだ」
「お主は我の守護が任であろうに。職務放棄とは嘆かわしいの」
「守護役と言ったってたまには休まなきゃいざって時に守りが務まらない。俺のいない間にも部下たちが屋敷を警備してくれるからまず問題は起こらんよ」
「まぁよいわ。それで、此度の休暇はどこへ行くというのだ?」
「近江の方へ行こうと思ってる」
「近江か、確か巨大な湖のある土地だと聞いているな。さぞ風光明媚な場所なのだろう」
「そうらしいな。俺もきちんと見て回ったことはないが」
「息災でな。我もその“眼”を通して楽しませてもらうとしよう」
主は海李の持つ左の青い“眼”を見ながらそう言った。
海李は主と“視界”を共有している。片方だけ結膜部分が薄い青に染まった眼がその証。物心ついた頃より朝廷に管理され、公務以外で屋敷を離れることのできない主様は、この男と御自らの視界を共有することで屋敷にいながらにして外の世界を見ることができる。
本来であればその役目は自分が担うはずだったのだが。
―――「ううむ、これはしまった。鴉と人とでは見える景色が違うのか。些か精巧に創りすぎてしまったの」
鴉という器を与えられてしまったがゆえに、自分の見える色は人が見るそれとは異なるものであったらしい。“眼”の話題が上がるたび、自分の役目をこのいけ好かない男に奪われてしまったような気分がしてどうにも不快な心地だった。
「“これ”のおかげで、用を足すときや湯浴みをするときにもいちいち視線を意識するようになっちまった。考えようによっちゃ刹夏のその力って覗きには最適だよな。俺の方から刹夏の視界は見えないのが無念でならんよ」
「主人に対して何という言い草じゃ、この無礼者めっ」
「とか言って、実は俺の裸とかうっかり見たことあるんじゃないのか?この不埒者め~」
「な、何を申すかっ!」
海李が歯を見せて意地の悪い笑みを浮かべながら主の頬を指先でつつく仕草をとると、主は分かりやすく赤面して狼狽しだした。 さすがの自分も眷属としてこれ以上の無礼は看過できない。
「海李、主様に対して口が過ぎるぞ」
「だぁ、はいはい。悪かった、ちょっと揶揄い過ぎたよ。でも実際凄いよなぁ刹夏は。そらみたいに言葉を話す鴉を生み出したり、俺と視界を共有したり。実際に目の当たりにしてみると噂に聞いていた以上の神業だな」
「どんな噂を聞いたのかは知らぬが、できることよりできぬことの方が多い。我の代にもなると人の血が濃くなってしまって、祖である神の血はだいぶ薄れてしまっているからな」
「それでも凄い。前にも言ったと思うが、その気になればこんな屋敷なんて一人で抜け出してどこへだって行けるんじゃないのか?」
「出来ぬ。我はほとんど人と変わらぬよ。人目に映らぬようにすることも、まして翼を生やして空を飛ぶことなど出来はせぬ」
「そうか。でもいつかはお前にも知るときが来るはずだ」
「知る?何をじゃ?」
主がきょとんとした顔をして首を傾げる。
それに対して海李が得意げに答えた。
「本当の“夏”ってやつをさ」
「また訳の分からんことを」
呆れるように笑みを浮かべた主は視線をゆっくりと空に向ける。季節は初夏。眩しそうに目を細めたその表情はどこか憂いを帯びているように見えた。
***
***
***
夜。月明かりが照らす屋敷の縁側に、主様と二人で並んで腰かけていた。昼間の夏の熱気もこの時間帯には落ち着いていて、僅かに涼を含んだ夜風が心地良い。
「のう、そら」
「はい、何でございましょうか」
「お主には翼がある。その気になればどこへなりとも自由に飛んでいけるというのに。暇乞いのために其方を縛りつける我の存在が疎ましいと思うたことはないかの」
「そのようなこと、思うたことなどありませぬ。余は主様の眷属。眷属とは常に主の御傍でお仕えするものです」
「そうか。我は誠に、良き忠臣を持ったものよ」
「勿体ないお言葉です」
「我は、この屋敷と宮中以外の世界を知らぬ。世界とは、どんなものなのだろうか。面白いのか、つまらぬのか。美しいのか、醜いのか」
「―――あの海李という男を通じて、外の世界はご覧になられているのでは?」
「うむ。見てはいる。とても興味深い。行ったことのない町並みや人の群れ、緑溢れる山道にどこまでも続く青き水面も」
一度言葉を区切った主が徐に自分の身体を持ち上げて膝枕の上に置いた。自分の背を優しく撫でてくれる手つきがどこまでも心地よかった。
「じゃがの。“眼”を通して見れば見るほど分からなくなっていくのじゃ。他人の眼で見るのと我自身の眼で見るのとでは見える景色や心持ちも違うのではないかとな」
「それは」
他人の“眼”を見ることのできない自分には、主のその気持ちはとても推し量ることができなかった。
しかし、主が心の底で外の世界への憧憬を抱いていることは分かる。
「僭越ながら、主様。主様は今後も、この地に留まり続けるおつもりなのですか」
「なんじゃ。お主も海李と同じようなことを言うの」
主が呆れたように笑った。あの男がこの屋敷に護衛の任でやってきてからというもの、海李のことになると主はよく笑う。あの男が来るまではその表情は日々寂寞の色に染まっていたというのに。
「そら。我はの、人が好きなのじゃ。どんな形であれ、我のような存在であっても必要としてくれる者たちがいる。そういう者たちの期待を裏切りたくないのだ。それが力ある者の務めよ」
「―――敬服いたします」
主のその慈悲を尊いと感じた。だが、主が人に応えるというのなら、その主には誰が応えるというのだろう。誰が心の隙間を埋めるというのだろう。
主にも、幸せになる権利はあるはずなのに。
「今宵も月が眩しいの」
主は天高く輝く白き都に静かに手を伸ばし、無念そうに空を掴む。決して届かないものに焦がれるようなその姿に、自分はどうすることもできない己の無力さを痛感するほかなかった。
***
「主様の転居だと?」
その話はある日突如として海李から伝えられた。
「あぁ、急遽決まったんだ。お前も聞いてるだろ。先日宮中でまた刹夏が間者に狙われた。幸い大事には至らなかったが、こうも連続して起こるとなると、裏で糸を引いている存在がいると考えた方がいい。だもんで、黒幕が明るみになるまでは、この朝廷のお膝元に留まっているのは危険だと帝が判断されたんだ」
そう語る海李の表情はいつになく張りつめていた。普段護衛として主の傍に居る分、主君が二度も狙われたとあってはさしものこの男も深刻に受け止めざるを得ないということなのだろう。
「話は分かった。して、転居先はどこになるのだ?」
「都からずっと南方の霊山にある寺院だ。霊験あらたかな土地らしくてな、事が落ち着くまでは霊山の結界内で蟄居するようにとのご用命だ」
「まったく、かの御方も心配性なことよの」
そこに話に上がっていた当の本人が姿を現した。妙に機嫌の良さそうな顔つきをされている。
「とか言って、本当は内心喜んでるんだろ。顔に出てるぞ」
「そ、そんなことは断じてないわっ!」
「まぁ、無理もないか」
「?どういうことなのですか?」
事情が呑み込めない自分が確認すると、主様に促された海李が説明してくれた。
「霊山までの道行きは、追っ手の目を欺くため平民を装い最少人数での移動になる。刹夏を
「無論、そらも我と同行することになろう。つまり、我ら三人の足で霊山までの旅路を往くのだ」
「それは、なんとも」
「よかったな刹夏。念願の自分の足で行く旅じゃないか。」
「ふん。道中せいぜい我から目を離さぬことだ。お主を置いて一人で行ってしまうかもしれぬぞ」
「一人で道に迷わず目的地まで行けるならの話だがな」
「馬鹿にするではないわっ」
そんなやり取りを眺めつつ、自分もこの件については海李と同様に喜ばしく思っていた。一時的なこととは言え、ようやく我が主の切なる願いを天が聞き届けてくれたのだと。
明朝。平民の姿に身をやつし、旅支度を整えた主と海李とともに自分たちは都を発った。
「さぁ行こう、刹夏。お前がまだ知らない、“夏探し”の旅だ」
「うむ。期待しておるぞ」
こうして二人と一羽の夏の旅が始まった。
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