第一章「何かの予兆」

「帝国」

「槍騎兵が行進する!修道院の屋根まで燃える火を!」


裏路地に見知った男の声が木霊する。


「エルドレン、幾ら何でも飲み過ぎだ。声を小さくしろ。」


嫌悪を示す声も見知った男のだ。


そうだな。紹介を忘れていた。

注意を受けている人間はエルドレン・ブラウンという人間だ。

帝国元帥の地位を受けて置きながらあのザマだ。

元々飲んだくれだったから仕方ないが....

注意している人間はアルベルト・カルヴァンスク。

陸軍大臣だ。素性は全く知らない。彼奴のプライベートを見たことがある人間は居るのか?


「申し遅れたが、今喋ってる人間はラインハルト・ザイツィンガーと覚えておいてくれ。

俺は諜報...要はスパイ活動をやってる。

この国の諜報を束ねているのは勿論...おっと、これ以上は言ってはいけない決まりだ...」


モスコーヴィエン家の当主が変わって直ぐ、全土で貴族特権撤廃の動きが激しくなった。

上層が貴族主義的なのもあって、改革は頭打ちとなり、農奴の夢は潰えた。

しかし、士官学校を卒業してから将校になった者の多くはそうではなかった。代表的な人間としてアルベルト・カルヴァンスク、エルドレン・ブラウン、レオンハルト・クラインシュミットの三人が居る。

彼等は貴族特権の排除だけでなく、貴族も農奴も関係無く戦う「総力戦」を支持した。

彼等が居る限り、改革の炎は潰えることがない。

犠牲の果てに勝つのは悪魔か?はたまたタルタロスの番人か?

「まぁ...こんな所だ。実際現状どっちに付くってのは難しい。正直な話、俺は観戦を決め込みたいが、そうは問屋が卸さんだろう。

明日、帝国議会にて今後の戦略を始め、多くの内容の議論がされる。お前も来ればいい。”イーゴリ”」

イーゴリは静かに視察の任務を思い出しながら、無言で部屋の隅に立っていた。ラインハルトの話を聞いているものの、感情を交えず冷静に観察している自分がいた。彼にとって、この会話は単なる任務の一部であり、決して親しい間柄ではなかった。エルドレンやアルベルトがいないことに、少しだけ安堵の気配を感じていた。


「明日の会議、何を話すつもりだ?」ラインハルトが問いかける。彼の声には挑戦的な響きがあった。


イーゴリは一瞬考え込み、視線を窓の外に向けた。部屋の中にただよう緊張感が、彼の心を少しずつ重くしていく。決して良い方向に進んでいるとは思えないこの状況に、彼は心底うんざりしていた。


「俺が来た理由は分かっているだろう?」イーゴリは低い声で言った。部屋の空気がさらに硬直するのを感じながら、続けた。「俺はただ、現状を見極めに来ただけだ。どちらに転んでも俺が関わることはない。」


ラインハルトは少し驚いた顔を見せ、そして眉をひそめた。「何言ってるんだ、イーゴリ。お前だって、帝国の未来に関わる立場だろう。どんな選択をしようと、お前も無関係ではいられない。」


イーゴリは軽く肩をすくめた。「関わりたくはない。ただの視察だ。」彼は少し目を閉じ、再び顔を上げた。「帝国の行く先に興味はない。あとは、お前たちがどうにかするんだろう。」


ラインハルトは一瞬黙り込み、イーゴリの目をじっと見つめていた。その目には何かを探るような冷徹さが宿っている。


「お前がそんな風に言うなら、帝国の将来に対しての覚悟はできてるってことだな。」ラインハルトは最後に言った。どこか挑発的であり、同時に本気で心配しているような口調でもあった。


イーゴリは無言で頷くと、改めて窓の外に目を向けた。外の夜の街並みが静かに広がり、まるでこの部屋の中で繰り広げられている会話が、現実から切り離されているかのような錯覚を与える。


「そうだ、覚悟はできている。」イーゴリはそのまま静かに呟いた。「だが、無駄な犠牲だけは払いたくない。改革が本当に実現可能だと信じる者だけが、未来を切り開くんだ。」


ラインハルトはその言葉に一瞬立ち止まり、そして少しだけ苦笑いを浮かべた。「お前、まだそんなこと言ってるのか。改革は既に遅い。総力戦が始まってからじゃ、もう手遅れだ。」


「総力戦?俺はその考えが嫌いだ。」イーゴリは軽く唇を噛み、拳を握りしめた。「戦争は全てを変えるものじゃない。最終的に残るのはただの疲弊だ。」


ラインハルトは再び黙り込んだ。その表情には決して表に出さないものがあることを、イーゴリは敏感に感じ取った。


「まあ、結局は明日だな。」ラインハルトがため息をつくと、言葉を続けた。「お前がどう動くかなんて、決められるのはお前だけだ。だが、どんな選択をしようと、何かしらの結果が出ることは間違いない。」


イーゴリはもう一度、視線を外の街並みに戻した。帝国の未来は、もう誰の手にも負えない場所まで来ているのかもしれない。だが、それを自分一人の力でどうにかできるとは到底思えなかった。ここで何を決めようと、彼一人の力では到底どうにもならないことを、痛感していた。


「俺のやるべきことはただ一つ。」イーゴリは静かに言った。「その時が来るまで、どんな結果であれ、この視察を終わらせるだけだ。」


ラインハルトは微かに笑いながら、軽く肩をすくめた。「お前は本当に、無駄に決断を避ける奴だな。」

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