第9話 願いの中
さて、とエデは一息ついた。エデが懐から出して弄ぶのは鋭利な短刀。私に突きつけられるはずだった刃が、手慣れた調子でくるくる回る。
「
「ええ、承知しています」
エデはローブを深く被って、藍色の髪と瞳を隠す。リタニア宗主ともなれば、一人で出歩くのも一苦労のようだ。……もしかすると、この国ではそんな警戒も必要ないのかもしれないけれど。
「エデさま、最後にもう一つだけ聞かせてください」
「なに?」
「オルファさんと一緒にいるという願いは、叶いましたか?」
側から見れば、エデの想いは果たされていない。
エデはリタニア宗主で、オルファは異国の一般人。堂々と尋ねることもできないから、今のようにローブで顔を隠している。一緒にいる、という言葉だけを捉えれば、むしろ現状は離れ離れと表現してもいいだろう。
けれどエデはにこりと、無邪気な子供を思わせる楽しげな笑顔を浮かべた。
「ええ、散々あちこち駆けずり回って、苦労した甲斐はあったわ」
エデの後について、数日ぶりにオルファの家を訪ねる。森のそば、人里離れた僻地の小さな家は空っぽで鍵もかかっていなかった。
「外出中、でしょうか」
「……はあ、まったくもう。タイミング悪いんだから。そこ、座ってて」
エデは勝手知ったるとばかりに──いや、事実ここはエデの家にも等しいらしい。しまわれていた調理器具を迷わず取り出すと、持参していた茶葉で飲み物を作っていく。
お湯が沸いて茶が淹れられ、聖女手ずからのもてなしを受ける。状況の奇妙さがどうにも居心地悪くて、けれどこの振る舞いがエデの素顔なのだと察せられた。
だってエデの横顔には、緊張も怒りも憎しみもない。その表情は私たちと同じように、満ち足りた日常を過ごす時の顔だったのだから。
エデは茶を淹れても卓に座らない。道中で買ってきた食材を使って、手慣れた調子で食事を作っていく。
匂いが満ちる。初めて訪れた時は人の気配を感じなかった家に食事の匂いが満ちて、着々とごくありふれた食卓が整えられる。
そんな中、ガチャリと扉が開けられた。視線を向ければ、そこにあったのは全身を泥だらけにしたオルファの裸体。
「…………え?」
「エデ、おかえりなさい! ──あら、あなたは……」
「ただいま、オルファ。話は後でするから、身体を洗って服を着て。ご飯はそれから」
オルファは頭の先から爪先まで泥まみれにしていた。当然、赤髪も黒く汚れているが、それでも漂う気品は圧巻というべきか、それとも裸体が神話画を連想させるからか。
ともかく、何故か裸で帰ってきた元貴族令嬢の姿を見てもカップを取り落とさなかった私は褒められてもいいのではなかろうか。
だが、オルファとエデにとってこのやりとりは日常茶飯事らしい。私というイレギュラーがいる程度では、二人の日常は崩れていない。
オルファは言われた通りに身体を流しに向かった。エデはため息をつきながら、手際よく作っていた料理をテーブルに並べていく。
「ごめんなさい、言い忘れてた。あいつのことは野猿と思えばいいから」
「せめて野生児と言ってあげてください」
身も蓋もない表現に思わず言葉をこぼす。いや、確かに適切なのかもしれないが、憧れている英雄を堂々と猿呼ばわりする度胸は私にはない。
エデはくすりと笑って、オルファが外に置いていったカゴを回収する。大きなカゴには森で採取してきたらしい野草や果実、芋虫がたっぷりと──芋虫?
「その、エデさま。この芋虫は」
「食用。あいつの好物なのよ。あなたは食べられる?」
「ええ、味は好きです」
見た目はともかく。食べたことはあっても、私は子供の頃から家にこもって読書と空想遊びにふけるような人生を送っていたから、うごめく芋虫は見慣れない。
呆気に取られているうちに、衣服を着てすっかり身綺麗になったオルファが戻ってきた。オルファはエデの肩に抱きついて、そわそわと鍋の中を見ている。
「エデ、今日はどれだけ食べていい?」
「十分作ってるから焦らないの。それとね、オルファ。彼女にあたしたちの話を教えたわ」
「……あら」
きょとんと、赤色の瞳が私を見つめる。以前はすげなく私を拒絶していた目が、今日は興味深げな色に染まっていた。それほどまでに、オルファの中でエデの存在は大きいのだろう。
「初めてね。エデが誰かを気にいるなんて」
「一生に一度くらいはね。この子、あんたのファンなんだって」
「それは……ごめんなさい、失望したでしょう?」
オルファは微笑みを絶やさないまま、申し訳なさそうに視線を落とす。その言葉は、私にとってあまりにも想定外な、不意を突いてくるものだった。
「失望? どうして私が?」
「だって私、あなたたちが思うような英雄じゃないもの。私がザザと戦ったのは、あなたたちを助けたかったからじゃない。エデの笑顔が見たかっただけの、ただの私欲だから」
歴史に名を残すべき偉人は、当然のようにそんな言葉を告げた。
自分が戦ったのは私利私欲なのだと、エデとまったく同じことを言う。それがなんだかおかしくて、私の口元はつい緩んでいた。涙腺以外は鉄のようだと時たま言われる私には、実に珍しい表情なのだと自覚できるほどに。
「オルファさん。あなたから見た真実と、私から見た真実は違います。私は属国民──生まれながらの奴隷階級でした。けれどあなたとエデさまの私利私欲のおかげで、今の自由がやってきた」
テキストを使って生きること。好奇心の赴くままに動くこと。それが私にとって、望むことすら愚かしかった奇跡だということに、彼女たちはきっと気付いていない。
「あなたたちにとっての事実がどうであれ、私たち属国民が剣奴令嬢に救われた事実は変わらない。だから、あなたが何を言おうがオルファ・テレジアは私の救いなんです」
「……ふふ、私の言葉を利用するなんて悪い人」
「これでも言語でご飯を食べていますから」
「まったく。そう言われたら、こっちも何も言い返せないわね」
エデはそう言いながら、テーブルの中央に最後の皿を乗せる。オルファは山盛りの森の幸に目を輝かせると、しとやかな仕草で食事を始めた。
それからはご相伴に預かる、ゆったりとした時間だった。
オルファとエデは普段通りといった雰囲気で言葉を交わして、私は時折かけられる問いに答える。
こっそりと二人の横顔を窺う。オルファとエデの顔に浮かんでいるのは英雄や聖女といった役割から解放されたような、ごく普通の女性の笑顔。血濡れた道を強制された剣奴と殺し屋が叶えた願いの光景。
私は一人、ゆっくりと酸素を腹の奥底に落としていく。
この平穏を乱すことへの躊躇いは大きい。本音の半分は、今のまま時間を過ごしたがっている。
けれど私は記者で作家だ。言葉を紡がなければ生きていけない手合いだ。だから声は止められない。
二人の平穏を乱す敵として、命を落としても構わない。この望みを告げずに生き延びる人生など、すべてが塵芥だ。
「……一つ、お願いしたいことがあります」
赤と藍。二色の瞳が私を見つめる。
「私を、あなたたちの断罪に使ってほしい」
と、告げた瞬間、藍の瞳が凍った。
温度の通わない瞳が私に向けられる。瞬きの刹那に鋭利な白刃がきらめいて、私の首筋まっすぐに向けられていた。
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