第8話 聖女エデの断罪
エデは山の茂みに潜んで、戦場を観察していた。エデの首にはリタニア信者の証である首飾りが下げられている。
「ふう……」
今日もオルファは戦場に乱入して、ザザと王国の両者に混乱をもたらしている。とはいえ、オルファが戦い始めて二日が経てば、王国も恐怖を飲み込んで、戦いを優位に運び出していた。
エデは強く、首飾りを握り締める。信仰は四年前のあの日に捨てたから、利用することに躊躇いはない。エデの心を乱すのは、これまで犯してきた殺人の数々。
一度だけ目を閉じて記憶に埋もれる。
殺した人たちの、最期の姿。贖罪などできるはずがない。そもそもこれからの行動だって、オルファと共にあるための布石をばら撒くための打算と私欲そのものだ。
「私は……
報いなら後でいくらでも。
地獄に落ちるのは知っている。
だから今は、オルファと一緒にいられる未来を。オルファが平穏に暮らせる未来を求めよう。
どうしてオルファと共にいることを望んでいるのか、やっとわかった。
オルファはすべてを諦めていた心を溶かしてくれた。血で穢れていなかった自分を知っているのに「エデが欲しい」と迷いなく告げてくれた。
その言葉に答えたい。今の自分は枢機卿の手駒ではない。オルファ・テレジアのエデなのだから。
エデは深呼吸を終えると、戦場の只中に飛び出していく。目指すのは負傷者が倒れたままにされている場所。
「──大丈夫!?」
「っ……君、は」
倒れるザザ兵の傍らに膝をつく。王国の攻撃にやられたようで負傷は大きかった。意識もはっきりしていないらしいが、今すぐ死に至る傷ではない。今、処置を施せばまだ間に合う。
エデは村から持ち出した医薬品を広げながら、兵士の問いかけに迷いなく答える。
「エデよ。あたしはリタニアの信徒として、あなたたちを助けたいの」
名乗りと首飾り。危険も所属国も顧みない救命活動。リタニアが説く、分け隔てない救済を体現する行動。
誰が見ても、絶望あふれる戦場に現れたエデは、理想を思い描いたような救い手だった。
◆
「あたしが人を助けたのは、リタニアが無視できないほどの影響力を手に入れるのに一番手っ取り早かったから。ただそれだけよ──って、なんで泣いてるの?」
「ああ、すみません。感動すると勝手に涙が流れてしまうたちでして」
「泣きながら平然と喋ってるのもちょっと不気味ね……」
そう言われても、流れてくるものは止められない。子供の頃から物語を読むたびに──つまりは毎日のように泣いているものだから、知り合いたちは私が泣いていても、いつものことだと気にも留めなくなっている。
涙は私にとって便利なバロメーターだ。自作の物語で涙が流れるなら、それは満足いく出来ということだし、雫の一滴も溢れないなら、さらに改良しなくてはいけない証拠。そして、オルファとエデの過去を聞いた私の瞳は、とめどなく涙を流し続けている。
「エデさま。一つ尋ねたいのですが、リタニアの宗主になる未来は想定していたことだったのですか?」
「いいえ、まったく。話した通り、あたしの行動は全部が私利私欲よ。オルファと一緒にいられる未来が欲しかっただけだから、リタニアの罪を暴いた後に残される信者のことなんて考えていなかった」
エデは小さく吐息を落として、茶で唇を湿らせる。これまでの不愉快さを表す勝ち気な表情とも、オルファのことを語る楽しげな表情とも違う、複雑な感情が見え隠れする仕草だった。
「でも、ね。リタニアを託されてしまったから、放り出すのも癪で」
「託された?」
「お父さま。戦期リタニアの、最後の枢機卿の一人に」
何の躊躇いもなく、エデは「お父さま」と口にした。その声に、己を殺し屋に仕立て上げた男に対する悪感情は見えない。
エデは口元を持ち上げる。不快そうで、けれどそれだけとは思えない。先ほどの複雑そうな仕草は、枢機卿への思いが由来なのだと察せられた。
「もう七年前か。あたしはザザへの侵攻支援の真実を問い糺すと主張してリタニア中枢に乗り込んだ。で、そしたらびっくり。教皇と枢機卿たちが殺されてたのよ」
「……え? いえ、私はリタニアには詳しくないのですが、当時の指導者たちは大半がザザに亡命したのでは?」
「枢機卿たちの手駒程度ならね。トップたちはとっくの昔に、お父さまに毒殺されたわ」
淡々と、エデは語る。皆が清廉な指導者と信じる断罪の聖女は、一体どれほどの血と死を浴びてきたのか。彼女が歩んできたのはきっと、私程度の想像では及ばないほどに血塗られた道。
「……お父さまはリタニアという概念に仕えていた。リタニアの所業が露わになって、今の体制はもう終わりだと判断すると、次のリタニアの障害になる権力者たちを排除したの。そうしてあたしに枢機卿たちからの委任状を渡して、腹立つくらい良い顔しながら毒を飲んで死んだわ」
「委任状……エデさまがリタニアを率いるための、何よりの後ろ盾」
「そういうこと。国家元首たちからの依頼の効力も大きかったけれどね、聖職者たちを黙らせられたのは委任状のおかげ」
殺しや孤児の売買といったことも行なっていたリタニアだ。むしろ、裏の顔を知らない聖職者の方が少なかったのではないだろうか。
そこにやってきて、瞬く間に宗主の座に収まったのは、かつてリタニアに売られた孤児の一人。当時の聖職者たちは気が気でなかっただろう。
リタニアの罪を暴いた断罪の聖女。いいやそれは、終わった過去の話ではなく。
「……あなたがリタニアの宗主であること。それこそが、リタニアへの断罪になっている」
「惜しい。半分だけ正解」
「半分?」
首を傾げると、エデは楽しげに微笑んでいた。皮肉と楽しさと、両方が入り混じった笑顔に促されて考える。
「あたしがリタニアの宗主なんてものをやっているのは、放り出すのが癪だから。でも、それだけじゃない。あたしにもメリットがあるから、柄にもないことを続けている」
断罪の聖女エデ。彼女の行動原理は、オルファ・テレジアと共にありたいという一つの願い。
そもそも私がこうしてエデの話を聞いているのは、エデこそが剣奴令嬢というオルファの通り名を広めた張本人だったからだ。
オルファの来歴は本当なら祖国に隠され、消えるはずだった。けれどエデによって、オルファは剣奴に堕とされた貴族令嬢という事実は誰もが知るものになっている。
かつてコロシアムでオルファに与えられた藍色髪の少女。女性に成長した今でも、容姿が劇的に変化していることはないだろう。
藍色髪のエデが断罪の聖女として台頭したとき、かつてコロシアムで顛末を見ていた人間は真実を悟ったはずだ。一人でも悟れば、いつしか噂は流れていく。
噂が流れれば、誰もが突きつけられる。忘れようとしても忘れられなくなる。断罪の聖女の呼び名だけで、過去はコロシアムを知る人間の脳裏に蘇る。
まだ幼い公爵令嬢の死を、愉快な見せ物として望んだ事実。
あまりにも悪趣味で残忍な、自分自身の心の奥底。
「──あなたが表舞台に立っていること。ただそれだけで、かつてオルファ・テレジアを貶めた人間は己の罪を忘れられない。それが、あなたの断罪」
エデは口元を緩めて、微笑みながら頷く。
これが聖女の断罪。それはエデの中で、どこまでも深く固く紡がれた、オルファへの想いゆえに。
茶を一口だけ飲む。勝手に流れる涙がしょっぱかった。
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