附子とプリンと保健室 ③物理の課題を何とかしないといけない

 あたしの名は鴫野亜実しぎのつぐみ、御堂藤学園高等部一年H組、部活は文芸部に籍をおいている。

 その日あたしは用があって昼休みに部室を訪れたわけだが、予想通り三年生但馬一輝たじまかずき先輩の「附子ぶし」の御高説を賜ることになった。

 詳細は端寄る。前章を読み飛ばしたけれど知りたい人は前章の「狂言『附子ぶす』を語る但馬先輩」を読めば良い。

 但馬先輩のうんちくを聞くために昼休みの貴重な時間を使って部室に来たわけではないのだ。あたしはそれを思い出したのだが、もう時間がなくなっていた。

「但馬先輩、物理に詳しいですか?」

「もののことわりを語らせたら僕の右に出るものはないよ」

 あ、ヤバい。但馬先輩が「僕」と自称したら蘊蓄うんちくが始まるのだ。まだ「俺」の方が対処がしやすい。あたしは後悔し始めていた。

「物理がわからないのだな?」

「まあ、そうなんですけど、もういいです。時間もなくなりましたし」

「放課後があるじゃないか」

「風邪をうつされるのがヤなので、だから、もういいです」

「そうか、それは残念だ」但馬先輩はそう言い終わるなり大きなくしゃみをした。飛沫が飛び散る。マスクぐらいしろよ、熊男。


 話は少しさかのぼる。あたしは保健委員をしている関係で、ときどき保健室を訪れる。そしてそこで憧れの槇村雪菜まきむらせつな先輩に出くわすことがあるのだ。

 雪菜先輩は三年生。保健委員であり、部活は文芸部でしかも部長だ。

 あたしは雪菜先輩がいるから文芸部に入部した。

 しかし雪菜先輩が部室にいたのははじめのうちだけで、今やすっかりレアキャラになっている。ほとんど幽霊部員と言っても良い。

 雪菜先輩に会おうと思ったら保健室に行く方が確実だ。

 そして今日の二限と三限の間の長休みに保健室を訪れたら雪菜先輩がいた。

 あたしは嬉しくなって雑談をしているうちにふと物理の課題のことを思い出した。

 うちの学校は一流の進学校でもないくせにやたらと課題やら宿題を出す。ひとりではこなしきれない量だ。物理の先生もそうだった。

 あたしたちは何人かのグループを作っていくつもの科目の宿題を分担することにした。そしてこともあろうか、あたしが物理を担当する羽目になったのだ。あたしはそれを思い出した。

「槇村さん、物理を教えてください」あたしは槇村雪菜先輩に教えを乞うた。

「うふふ」雪菜先輩は微笑んだ。

 それは一見癒しの微笑だが、いたずら心が湧き上がった時にも見られることをあたしは知っていた。そして今がその時なのだ。

「私は文系だから物理はわからないわ。一年生の頃のことはすっかり忘れてしまっているし」

 時に雪菜先輩はお婆さんになるようだ。都合が良すぎる。

「但馬くんに訊いたらいかがかしら? 彼は理系なのよ」

「そうだったような気がします」

 文芸部だが但馬先輩は理系志望だ。本当に心から志望しているのかは知らないが、理系の選択科目をとっていると聞いたことがある。

「彼のことだから、それはもう懇切丁寧に教えてくれるわよ」それがイヤなんですけど。

 雪菜先輩はとても楽しそうに笑った。

 こうなったら但馬先輩に教わるしかないのか。

 あたしは高等部入学生で、この学園に頼りにできる先輩がいない。部活は文芸部のみだし、コミュ障だから友人も少ないのだ。

 自分だけの物理の宿題なら適当にやって、わかりませんでしたでも良いが、同じグループの者があたしの解答を期待しているのなら何らかの結果を用意しなければならない。だから憂鬱だったのだ。


 少し期待したあたしがバカだった。熊男(しばらく熊男と呼んでやる。どうせ心の中の叫びだ)はどうでも良い蘊蓄を語りたがる上に風邪をひいている。だからあたしはとりあえず今日のところは諦めることにした。

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