24 最終確認

 朝の陽光を受けて、雪に覆われた峰々はさんぜんと輝き、シルフィアは革手袋をした両手に白く息を吐いた。見上げれば目の醒めるような蒼。雲一つない空には鷹が円を描いて舞っている。


 前を行く見習い騎士たちが下雪を踏み分けた足跡を、シルフィアも辿っていく。隊列の歩みはひときわ大きな山に到着するまで続いた。


 今年の雪山訓練の参加者は見習い騎士たち全員と教官役の近衛騎士二名、そして近衛騎士団長アルベルト。


 小休憩を与えられ、シルフィアは倒木に積もった雪を手で払ってから腰かけた。


(すっかり季節も冬になってしまったわね……)


 シルフィアが見習い騎士になってから約四ヶ月。


 基礎体力向上訓練、武器の扱い、馬術、集団戦闘訓練、戦術・戦略における座学と演習、そして、今回の野外生活訓練……。


 この四ヶ月で学ぶことは多かった。そして見習い騎士としての訓練期間は飛ぶように過ぎ去っていった。


 遅れて入団したシルフィアは同期たちに追いつきたくて、必死にもがいた日々だった。


 雪山訓練は当たり前だが降雪した山で行われる。明確な目的があり、それは有事の際に近衛騎士が王家の人間を護衛しつつ逃がすことを想定した避難訓練を意味している。いついかなる季節だろうと山越えをして、隣国に逃げ切らなければならないからだ。


(これほどまでに美しい景色なら、アレクサンドラとも来たかったわ)


 静けさを帯びた針葉樹の森を抜けると、辺り一面の銀世界は、シルフィアの見たこともない光景だった。それは、ただの子爵令嬢として生きていたならば王都ルクシオンから出ることもなく、決して見ることのない景色だった。


 一切の音が……自分の存在が、吸い込まれて消えていくような不思議な感覚を味わっていた。


 山の天候は変わりやすいが、この日は幸いと言うべきか、天候が荒れて吹雪になることもなく、自然の猛威が一行を襲うこともなかった。


「シルフィア様、お疲れではございませんか?」


 同じ格好──耳まで覆う毛皮の帽子を被り、雪靴を履いて、防寒具に身を固めたミシェレが隣に腰かけてきた。


「平気よ。見習い騎士になってから体力だけはついたわ!」


「それはようございました。もしかすると、降りしきる雪の中、身重の王太子妃様をお守りしなければならないかもしれませんからね」


 ミシェレは分厚い手袋をはめた手を握りしめた。


「私達、そういう重要任務を背負った人間だものね!」


 真剣そうなミシェレの表情を目にして、シルフィアは顔を綻ばせた。


 思い思いに水と携行食のナッツや飴玉を口にして、二人はキャンプ地までの残りの道のりを目指して立ち上がった。


 ◇


 無辺の夜空は、まるで深い藍色の布地に銀糸を織り込んだ絨毯のように広がっていた。無数の星々が小さな光の宝石として点々と散りばめられ、宇宙のキャンバスに煌めきを与えている。


 シルフィアは、ランタンの明かりを頼りに、とある一人用の天幕を訪れた。もし間違えた相手のものだったら大事である。


「アルベルト様……私です、シルフィアです」


 シルフィアは天幕の戸布を少しめくって、低声で囁きかけた。


「おいで」


 返事が戻ってきたので、念のため辺りをもう一度見回してから、天幕の中へと這いずり込む。


「夜這いしに来ました……というのは嘘です。一度も面と向かって話せなかったので」


 アルベルトは、あらかじめシルフィアと示し合わせて深夜に天幕に来るよう伝えていた。


「狭くてすまない。無理しなくてもよかったんだよ?」


「いえ、少しだけでもお時間を共有したかったので」


 なんだか良い匂いがしている。湯気が立っている温かい飲み物をシルフィアは手渡された。


「ジンジャーティーだ。夜は冷えるだろう? 皆には内緒だぞ」


「わあ、ありがとうございます」


 手袋を外した手に、ぬくもりが伝わっていく。


「生姜は身体を温める効果があるんだ」


「お気遣い、痛み入ります」


 ランタンを灯していると二人の影が天幕に映ってしまう。シルフィアが明かりを消すと、アルベルトの笑みをたたえた口元が闇に溶けていった。


「きみと出会ってから今日まで色々とあったが、あっという間だったな」


「本当ですね。すっかりたくましくなってしまいました。これで私も立派な職業婦人になれます!」


「ついでだけど、おれと結婚する未来は考えてくれる?」


「もちろんです! どこまでもお供しますよ!」


「そうか……それは頼もしい」


 表情のわからない声だけのひそやかな会話が交わされる。


「今までの時間がとても充実したかけがえのないものだった。全部きみと一緒だったからだ」


 まるでアルベルトが別れを告げるかのような言い方に、シルフィアは眉をひそめた。


「え? 私はもう要らない子ですか?」


「違う違う。引っ越したら、二人で今まで通りの生活ができなくなってしまうから寂しいなあ、と思って。だから素晴らしい時間を過ごせたことに感謝しているんだ」


「ですから、私もついて行きますって! いい加減に教えてください! あなた様の引っ越し先はどこなんです?」


「そうだなあ、どこだと思う?」


 たずね返されて、シルフィアは面食らった。今までずっと、本当は知りたくても、アルベルトは業務上の決まりで黙っているのだと遠慮していたのだ。しかしながら、それももう我慢の限界だった。


(やっぱり、教えられないのね)


「いえ、教えてくださるまで信じてお待ちいたします!」


 かつての自分だったら、胸が苦しくて、絶対にアルベルトに教えてもらうまで駄々をこねて不機嫌になっていただろう。だが、今は違う。


「きみの隣にいることだけは間違いないのだけれどな」


「そうなんですか?」


「いては駄目なのか?」


「いてください」


 ふいに、シルフィアの頬に柔らかい感触が当たった。それがアルベルトの唇だと気づいたとき、真冬だというのに全身がかあっと熱くなっていく。


「おやすみ。良い夢を。……さ、自分の天幕にお戻り」

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