9 決戦の日

 小さなカバンを持ち、玄関でソワソワと立っていたシルフィアは、ついに呼び鈴が鳴ってから、一呼吸おいてドアを開けた。


「おはよう、シルフィア。今日は楽しもう」


 現れたのはアルベルトだ。今日は彼と外出である。


「おはようございます、アルベルト様! 今日は『恋人のフリ』の実践だと伺っております!」


「あ、ああ。……まあ、それは気にせずに楽しんでくれ」


 アルベルトは複雑な表情を浮かべたが、シルフィアはそれには気づかなかった。


「おでこ……」


 シルフィアはアルベルトの額に注目していた。今まで前髪で隠されていて見ることのなかったその素顔をまじまじと見ている。絵筆で描いたようにきりりとした形のいい眉と、魅力的な長い睫毛。彼の精悍な顔立ちをより一層引き立てるようだ。


「職場ではこうしてるんだ」


 若干恥ずかしそうに、アルベルトは紅茶色の髪にくしゃりと手を触れた。見慣れたシャツとトラウザーズの上下にウエストコートを重ねただけだが、それだけで彼の引き締まった体型が際立っている。


「素敵です……!」


 アルベルトの方は目を輝かせているシルフィアを観察していた。彼女は金属製の襟飾りのついたブラウスを着て、勿忘草ワスレナグサ色の透けるチュールを何層にも重ねた愛らしい雰囲気のスカートを履いている。


「今日の装いも可愛いな。スカートの色合いがいい」


 不器用な褒め方しかできない自分が歯がゆい。気の利いた言葉が出てきたらいいのにとアルベルトは緊張を自覚していた。


「ありがとうございます」


 ◇


 シルフィアはアルベルトに連れて行かれた先が宝飾店だったことに驚愕していた。ガラスのショーケースの中には、まばゆいばかりのアクセサリーが陳列されている。


「日頃の感謝を込めてプレゼントがしたい。でもおれは選ぶのが苦手だから、シルフィアが決めてくれ」


 恋人代理にプレゼントなど必要だろうかとシルフィアは大いに困惑しつつも、彼の言う通りに選ぶことにした。指輪やネックレス、イヤリングが整然と並べられているのを、どこか自分に起こっている出来事ではないかのように見つめている。


 ふと目に留まった鳥型のブローチ。ハチドリのデザイン。クリスタルガラスで出来ていて、これなら普段使いしやすそうだ。


「これにします!」


「そうか」


 ハチドリは「幸運を運ぶ」という縁起物だそうだ。


 ◇


 アルベルトがレストランの会計を支払ってしまい、いよいよシルフィアはいたたまれない気持ちになった。貴族が御用達にしている高級店で、しかもその中でも値が張るコース料理だったのだ。


「自分の食べた分くらいは払わせてください!」


 その程度の持ち合わせはシルフィアにだってある。アルベルトが案内した彼が行きつけの酒場で彼女はそう言い張った。


「今日はおれが誘ったんだから、全て気にしないでほしい。おれがそうしたいんだ」


 丁度いいタイミングで冷えたエールが運ばれてきた。澄んだ琥珀色の上には白い泡がふんわりと乗っている。


「ほら、もう一回乾杯しよう」


「……はい」


 すでにレストランで一杯だけグラスワインを頼んで乾杯しているが、酒場なら談話をしつつ純粋にお酒を楽しんで飲むことができる。


「二杯目だが、具合は大丈夫か?」


「お気遣いありがとうございます。あの日は飲みすぎただけです」


「それならよかった」


 ここは職場とアパートメントの途中にある大衆酒場だ。二階には酔客が泊まるための宿が併設されている。


「ところで、今日のデートは楽しめた?」


「素敵なプレゼントまでいただいてしまって、どうお礼を申し上げたらいいのか……」


 アルベルトはついに決心して、ずっと訊こうと思っていたことを一息に告げた。


「きみにとっておれは恋愛対象ではないのか」


「え……?」


「おれはセフレか?」


「あの、『せふれ』ってなんですか」


 アルベルトの唇には苦笑が広がっていった。確かに育ちのいい子爵令嬢が「セフレ」という言葉すら知らなくてもなんの不思議もない。


「情事だけを楽しむ仲、ということだ」


「はい! 確かに楽しいです!」


 アルベルトは、シルフィアのこういう素直なところが非常に可愛いと思うのだ。


「おれは恋人のフリをしてほしいと言ってしまったが、あれはとっさに言ってしまったことだ。勘違いさせてすまない」


「そうなんですか」


「おれは、婚約破棄されたばかりで傷ついたきみの弱みにつけ込んだ最低のクズ野郎だ」


 胸が詰まるような中で、なんとか深く息を吸って続ける。


「独り暮らしをして自由を謳歌しようとしているきみをおれは邪魔しているのではないか……と。きみにとって、おれとは情事だけを純粋に楽しむ都合のいい相手なのだと必死に気持ちを抑えてきたが、きみのためにもそんな爛れた仲をいつまでも続けるわけにはいかない。だからその……」


 アルベルトはそこで言い淀んでしまった。次の言葉を口にした瞬間、決定的な破局が訪れるかもしれないと思うと、胃の腑が凍りつくようだった。


「あのう……私、見てしまったのです」


「何をだ?」


「ナニをです。殿方がそういうことをなさる、というのは知識としてはあるのですが」


「へ……」


「私とは遊びで、他に想っていらっしゃる女性が振り向くまでの繋ぎなのだと……。てっきり私はあなた様がその方を想って慰めていらっしゃったのかと」


 アルベルトは何を言われているかをようやく理解して、穴があったら今すぐ入りたくなった。


「違うんだ! きみを大事に思うからこそ、怖がらせてはいけないと思って……!」


「二階、宿があるんですよね。今晩は私が満足するまでお相手していただきます。それで全てを許します」

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