3 お隣さん
シルフィアはひとまず部屋に戻って、一昼夜頭を冷やした。疑問は尽きないし、しでかしたことの重大さにも気づいていたが、いったん全てから逃避したかった。何よりも具合が悪い。これが二日酔いというものだと初めて知った。
そうしてズキズキとした頭の痛みがすっかりと消え去り、食欲が戻った頃には翌日の朝になっていた。
「お腹、空いたな」
まずは朝食を摂りに行こうと決め込んで、近くのカフェに行くと、例の男とばったり出会ってしまった。目が合った。気まずいことこの上ない。
「同席、いいですか」
「ああ」
彼はわずかにうなずいた。
「彼のと同じメニューを」
ウェイターに彼が食べているものと同じパンケーキセットを注文する。
しばらくすると、とろけたバターが染み込んだ熱々のパンケーキが運ばれてきた。新鮮なレタスのサラダカップと、皮の焼き目が完璧なソーセージ二本に目玉焼きが付いている。
「一昨日は、失礼を」
シルフィアは食べ始める前に、一言謝った。
「いや……きみが酔っていたとはいえ、おれが手を出したんだ。騎士として義にもとる行いだった」
食べる手を一瞬止めた彼は、そのように呟いた。
「騎士様なんですか?」
「これから出勤でな」
「私、シルフィアと申します」
「クラウフェルト子爵家のシルフィア嬢か」
彼の両目に完全な納得の閃きが浮かんだ。
「なぜ、おわかりに?」
「酔っ払ったきみは、婚約者に捨てられた令嬢だと自己紹介していた」
「…………」
シルフィアは恥じらって頬を薄桃色に染めた。
「おれはアルベルトだ。ではまたな、シルフィア嬢」
食べ終えて席を立ったアルベルトは、一つシルフィアに微笑みかけると、会計を済ませてカフェを出て行ってしまった。
「……美味しかった」
アルベルトの行きつけの店なのだろうか、と考えながらシルフィアも食べ終えて会計しようとすると、ウェイターは「先ほどのお客様があなた様の分まで、お会計済みですよ?」と言った。
「ご馳走になっちゃった」
近くの菓子店でお詫びの菓子折りを購入した。フィナンシェだったら紅茶によく合うだろう。そして夜、アルベルトが帰宅した気配を感じて、菓子折りを持ち彼の元を訪ねる。
「こんばんは」
「どうした、シルフィア嬢?」
「先日のお詫びと今朝のお礼に菓子折りを持参しました。……それでは失礼いたします」
身をひるがえして自分の部屋に戻ろうとしたシルフィアだったが、アルベルトに引き留められた。
「茶の一杯でも飲んでいってくれ」
「お仕事でお疲れのところをお邪魔するわけには」
「いいからいいから」
アルベルトが紅茶を淹れると、芳醇な香りが湯気と共に立ち昇った。
「夕飯も有り合わせだが、食べていくだろう?」
「いえ、すぐにおいとましますから」
「すでに深い仲なんだから、遠慮はなしだ」
そう言われてしまうと、反論しがたい。しかもシルフィアの方から頼んでおいての話だ。断りようがない。
あっという間に麺が茹でられ、バジルソースを絡めたパスタが皿に盛られた。麺は平たく食感はもちもち、オリーブオイルとガーリックの効いたバジルソースは香り高くて食欲がそそられる。
「ありがとうございます、またご馳走になってしまいました」
「きみが訊きたいのは一昨日の晩のことだろう?」
本心を見抜かれていた。もし仲良くなったら機会を見つけてそれとなく訊いてみるつもりだったのに、いきなり本題に入ってしまった。
アルベルトはあの晩、何が起こったかを語ってくれた。部屋の前でうずくまっているシルフィアを仕事の帰り際に見つけたこと。泥酔状態で、吐瀉物を喉に詰まらせて窒息死する危険性を考え、一人にはできないと判断したこと。おそらく隣室の住人だとはわかったが、女性の荷物を探って鍵を取り出し入室するのも
「お願いがあるのです。私の意識が明瞭な状態で抱いてくださいませんか? 人生でこんなに素敵なことがあるかないかなのに、あの一夜を覚えていないのが悔しいのです!」
一連の話を聞き終えたシルフィアは自然とそのように頼んでいた。
「酔っていた女性に手を出した責任がある。女性からそんなことを言わせるのは騎士としての沽券に関わる。こちらも謹んでお相手したい」
アルベルトは淡々と返事をした。
◇
美丈夫は女性の扱いが上手い法則でもあるのだろうか。彼は……死ぬほど上手い。めくるめく快楽といった感じで、彼に触れられたところ全てが気持ちよく、一番深いところを愛されるのはもっと気持ちよかった。一体何度果てを見させられたことか。女泣かせ、いや、女
「うんしょ……」
だいぶ遅い時間まで寝ていたらしい。もう隣にアルベルトの姿はなかった。とうに出勤してしまったのだろう。まだ甘ったるい倦怠感の残る身体をベッドからモソモソと動かして着替えていると、リビングにあるテーブルの上に書き置きと鍵を見つけた。
──『おはよう。朝の挨拶ができなくてすまない。戸締まりだけよろしく。愛している』
「これってもしかして、合鍵?」
合法的に好きな男性の合鍵を手に入れてしまった戸惑いと、昨晩は何度も耳元に愛を囁いてもらったにもかかわらず、書面で『愛している』と書かれているのを見ると、自分ではどうしようもない胸の高鳴りと。
「それにしても、なんて殺風景な部屋なのかしら」
当初から思っていたことだが、アルベルトの部屋はまるで生活感がなく必要最低限のものしか置かれていない。家具など、彼の体格に見合う大きなベッドとテーブルだけなものだ。
「今日こそ、きちんとしたお礼をしなきゃ」
お礼の内容は何なら喜んでくれるだろうか、とシルフィアは鼻歌まじりにアルベルトの部屋を出た。
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