2 捨てら令嬢
シルフィアのエメラルド・グリーンの瞳には、今となっては
「すまない、シルフィア。僕は本当の愛を見つけてしまった。彼女のお腹の中にはすでに命が宿っている。どうか許してほしい」
この場合の「許してほしい」とはどういう意味だろう、とシルフィアは心の中で小首をかしげた。このまま何事もなかったように結婚を進めて、妊娠した女性の方は愛人にするのか。はたまた、その赤子が生まれた後に我が子と迎えてシルフィアに世話をさせるつもりなのか。はたまた、妊娠した女性を正妻として、シルフィアは愛人に格下げなのか。
──どれもお断りである。
「許しますよ」
シルフィアはそう一言だけ口にした。
「本当か!?」
隠せばいいものを、顔から歓喜の表情をあらわにしながら元婚約者が面を上げた。
「……ええ。ただし、多額の慰謝料、補償金、賠償金が発生いたしますが、それは承知の上での行動ですよね?」
「は……」
希望に満ち溢れていた元婚約者の顔面がみるみる青白くなっていく。
「のちに仔細は書面でお送りいたしますわね。もう二度と会うことはないでしょう。……どうか、その方と、生まれてくるお子様と、お幸せに」
シルフィアは曖昧に微笑んでみせた。
親同士の取り決めでの婚約だったし、最初からこの男に愛されていなかったという自覚はある。貴族の令嬢として生まれた以上、愛のない結婚も受け入れていた。それでも前向きに結婚への準備を楽しみに行ってきたのだ。だが、結婚直前にここまで酷い仕打ちをされると、それも萎える。
すでに結納も済ませ、両家の経済的支援に関する話が固まっていたところだった。この裏切りは文字通りタダでは済まない。シルフィアの精神的苦痛に対する慰謝料、経済的損失に対する補償、結婚準備のために支出した費用の賠償、婚約破棄の理由が広まった場合の名誉毀損に対する賠償が発生する。そして特に、貴族社会においては、婚約破棄によって社会的地位やシルフィアの将来の縁談に悪影響が出るという損失がある。その補償金も発生する。要はシルフィアは「傷もの」扱いになるのだから。
◇
こうして元婚約者から、たっぷりと慰謝料を搾り取ったシルフィアは独り暮らしをすることになった。
王都の高級アパートメントだ。子爵家の両親は十八の一人娘が「訳あり」になってしまったことで、見捨てる判断をしたようだ。まあそれでも、従者の一人でもつけようかと気遣いをしてくれたから、まだ親としてはマシな方なのだろう。丁重にお断りしたが。
持参した荷物も少ない。結婚直前だったから、荷物の整理がついていたのが幸いした。こだわりがあるとすれば、好きな読書と料理の道具やお気に入りの食器くらい。あんな男のために使われる食器が可哀想だったので、それも幸い。
「今日は一人で酒場にでも出かけてみようかしら」
荷ほどきが完了したので、少しばかり羽目を外してみよう。今まで貴族令嬢として、散々淑女だのなんだのと本当の自分を殺して生きてきた。もう、それもやめよう。好きに生きよう。傷ものになって今さら結婚も望めないだろうし。気ままな独り身生活、どんとこいだ。
シルフィアはドアを開けて新しい外の世界へと足を踏み出した──。
◇
──チチチ、と窓の外から小鳥のさえずりが聞こえる爽やかな朝。
腫れぼったい瞼を開け、首だけを動かして辺りを見回す。なんだ、自分の部屋か。どうやら帰宅することはできたらしい。あれだけ飲んだから、記憶がおぼろげだ。
「……え」
その光景を目にした途端、全身が凍りついた。──隣に知らない男が裸で寝ている。いやいや、よく見れば知らない家具やら、シルフィアの部屋とは違う匂いやら。この男の部屋らしい。
「もしかして……酔った勢いで?」
震える手で触れて、着ているものを確認する。ブラウスを羽織っただけ。下には何も履いていない。もう一度、男の姿を見る。やはり彼は何も着ていない。ただ、元婚約者の薄っぺらく頼りないヒョロガリな身体と比べ、なんとたくましいことか。神がその手で創り上げた彫像もかくや、だ。そして当然のごとく美丈夫。目は閉じられているので瞳の色はわからないが、窓から射し込む朝の光を受けて、紅茶色の柔らかそうな髪が淡くきらめいている。
「問題は……私から誘ったのか、それとも、手篭めにされたのか」
飲みすぎてガンガンと痛みを訴える頭には記憶が全くない。完全にぬかった。股間にはその行為をしたという明確な痛みがあるというのに。
「恥ずかしくて今すぐ逃げたいけど、この人が起きるまで逃げちゃダメだわ」
だが、この美丈夫に手篭めにされたなら、それはそれでいいかもしれない。何かあったら慰謝料をふんだくればいい。
「んん……」
すると、男がようやく目を覚ました。口に手を当てて軽くあくびをしてから、見事な半身を起こしてシルフィアを見つめる。サファイアのような蒼い瞳だ。
「昨晩のことを、きみは覚えているか?」
男は開口一番、シルフィアにそうたずねてきた。
「いえ、全く! 一人でなんとか自宅に辿り着いたのは覚えていますが」
すると、男は両目に手をかざして長い溜め息をついた。
「参ったな……」
ふと、シルフィアは最悪の事態が脳裏によぎった。
「もしかして、私から頼みましたか?」
「……ああ」
顔から手を外し、困り顔で眉を下げている男の表情からは、嘘を言っているとは読み取れなかった。
「どこのどなたかは存じ上げませんが、本当に申し訳ございません! すぐに出ていきます!」
急いでベッドから立ち上がろうとしたシルフィアだが、脚に力が入らず体勢を崩しかけてしまった。
「おっと」
そんなシルフィアの身体を男の力強い手が支えてくれた。さすが美丈夫。相当、女の扱いに慣れているらしい……とシルフィアは得心した。
「待て、そんな姿でどこへ行こうというんだ」
そうだった。まだブラウス以外何も身に着けていない。
「そういえば……ここは、どこですか?」
そもそもだ。自宅からどれほど離れた場所にいるのか。
「ここはきみの部屋の隣室だ。──おれはその住人」
裸で抱き合った状態のまま、シルフィアの耳元にとんでもない情報が囁かれたのである。
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