退化の海

栞子

退化の海

 昔、確かにわれわれは魚だったのだと思う。





 青い光が茫々と乱反射する四角い枠は、スリープモードのパソコンのようだ。無論、ようだと言っているのだから私が差し向かうのはパソコンではない。真っ青な状態こそ稼働中の証である水槽だ。当然、目の前を横切るのはカーソルではなく魚影になる。

 職員用の裏口から出社してタイムカードを切って、真っ先に水槽へと足を運ぶのが日課だ。

 水槽は縦・横ともに10メートルの大きさだ。奥行きも6メートルあるのだが、壁に埋め込むように設置されているので幅は正確に把握しにくい。

 水槽を有しているが、この施設は水族館ではないため水の中は殺風景だ。岩礁や海草は見当たらず、プールの底に似ている。魚も見栄えの良いものではなく、銀の鱗が照明を絞った室内で無数に煌めく。

 20XX年、何の対策もなされなかった少子化がいよいよどん詰まりになり、15~64歳を指す生産年齢人口がとうとう50%を下回った。著しい働き手不足に、国は思いもよらない方向へ舵を切った。人間の生産に乗り出したのだ。

 今までの問題への後手後手が嘘のように、あれよあれよと言う間に法も施設も資金も整った。あまりにも迅速な対応に、国はこの時を待ち構えていたのだと囁く声も一つ二つではないが、意外と正しいのかもしれない。

 私が勤める「脊椎動物研究所」は、そういうわけで日本の未来のため合法的に、正々堂々白日のもと人間を大量生産している――――魚の形で。

 まさに人類を創造神たらしめるこの計画がスタートした頃、諮問機関の有識者は一から人を作るのは時間も費用もかかると問題点を唱えた。

 体外受精や代理出産を倫理的に許された人工的な人間の生産と捉えた時、有識者の懸念はもっともだった。女の体を借りずとも胎児を育てられる人工子宮は既に普遍的で新しい不妊治療として受け入れられていたが、これを使えば一人作るに十月十日かかる。

 よって科学者は、偉大なる進化の歴史をなぞるよう人間のはじまりを魚に設定することで、効率化・量産化の要求に応えた。かくして、卵から産まれるヒトが誕生した。一応哺乳類には分類されている。


 私の目の前に広がる水槽――――通称「退化の海」――――を泳ぐ魚は、将来の働き手なのだ。


 もともと、人類の祖先は魚類まで遡れ、母親の腹の中では猛スピードでその進化の流れが再現される。おかげで膨大な数の卵に精子をふりかける魚の要領で受精させ、短期間で孵化し成魚へ――――人間でいう受精・出産・成長を、魚類だった時代の微かな記憶を頼りに、短いスパンで仕上げることに我が国の知能の中枢は成功した。

 なめらかだった水中に、突如亀裂が走る。捕獲用の網が突っ込まれたのだ。予約していた企業の人事担当者が来たらしい。

 人材を求める企業には、事前に来社日、会社情報、必要な匹数を申告してもらい予約となる。当日はゴムボートで水槽の上を漂い、こちらが用意した網で任意の魚を確保していただく。


「こりゃあいいのが釣れた、将来有望だ」


 いくつもの小さな泡で隠れてよく見えないが、一匹捕まったようだ。魚の性質に個体差は特に無いのだが、より元気そうなのを欲しがるのが人の性らしい。捕獲された魚は数日必要な養分を与えられたのち晴れて人間へと進化のプロセスを進め会社に勤めるのだが、元魚の人間がずば抜けて秀でた成績を残したという事例は少ないとは当研究所からの公式リリースだ。良くも悪くも平均になるよう調整している……のかもしれない。

 人間へと成長した魚は、名前と住所を与えられる。所謂戸籍だ。本籍はこの研究所になる一方、現住所は下宿先か勤務地が多い。魚はその後転勤も結婚も可能性としては十分あり得るので、人生の転機に合わせ苗字も住処も変更の手続きをする。

 そして一番大事とも言える名前だが、いつ頃からか真魚まおの名が与えられるケースが増えた。命名は採用した側にあり研究所は一切関与しないのだが、昔は惰性で付けるのが多数派だった。太郎、一郎、花子あたりがいい例だろう。しかし、真魚は名が体を表しいかにも相応しいと好まれるようになった。ずっとずっと昔の立派な人が幼少期にこう呼ばれていたらしく、知性や人柄にあやかりたいとの願いをこめてもいるらしい。苗字は手軽に社長のを借りることが多い。

 面接から採用まで、嵐のような勢いで終わった水槽に静けさが戻る。一匹減ったところで目前の風景に劇的な変化はなく、何事もなかったように悠々と魚は右に左にと行き来する。新入社員候補生はまだまだたくさんあるから、補給は後日で問題ないだろう。

 今はまだ、ただ泳ぐだけの魚を目で追う。左右対象のフォルム、双方の胚に見られるえらひだ、足の付け根にある肛門。遺伝子がもたらす造形が、魚と人を退化の糸で結びつける。そう、確かにわれわれは魚だったのだと思う。


「真魚さん、ちょっとよろしいですか?」

「はい、今行きます」




 ――――そうしてこの私も。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

退化の海 栞子 @sizuka0716

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画