第5話

 窓がオレンジに染まる。私はセレンの家のリビングで紫の花をジッと見ていた。ここに降ってきて盛大に倒したものだ。

 いつも以上に静かなリビングにセレンの姿はなかった。


 家に帰ってくるとセレンは何も言わずに二階に上がって自室に引っ込んだ。ハルが突然姿を消したのがそれだけショックだったのだろう。気持ちの整理がつくまでそのままにしておいた方がいいと判断して私もセレンに特に言葉をかけなかった。とはいえ、ずっとこのままというわけにもいかない。陽が落ちても降りてこないようなら夕食を持っていくついでに話しかけてみよう。

 私がそう決めたと同時。階段から物音がした。一段一段、降りてくる気配がする。

 ジッとリビングの入り口を見て待っていると、セレンが姿を現した。微笑みを浮かべてはいたが、いつもより暗い雰囲気を纏っている。

 私と目が合うと、彼女はポツリと言った。


「散歩に行きましょう」


 ◆


 町がオレンジ色から紫に変わっていく。街灯がポツポツと灯りを灯し始めた。細い小道には誰もいなくて、私とセレンだけが静かに歩いている。

 珍しくセレンが押してと頼んできた。私は車椅子の手押しハンドルを握って、ゆっくり目的地もなく彼女を運ぶ。

 涼しげな風が吹き抜けていく。気持ちのいい風に髪を靡かせながらセレンは語り始めた。


「子供の頃ね、ストリートのダンサーを見たの。大きな駅の前にある、広い広場だったわ。両親と一緒に電車に乗って遊園地に向かう直前で、それまで観覧車とかジェットコースターのことしか頭になかったのに、ダンスに釘付けになってた。遊園地のことなんか忘れて、体を自在に回すダンサーを食い入るように見つめてた」


 懐かしむような優しい声色。私からは彼女の頭頂部しか見えなくて顔色は伺えなかったけれど、柔らかい表情をしているのは十分に伝わってくる。


「それから両親に頼んでダンス教室に通わせてもらった。週に二回、土日だけのレッスンだったけど、レッスンがない日もリビングで練習してて、よく母親に怒られてたわ。マットないんだから危ないでしょって。実際色んなところに足とか腕ぶつけて怪我だらけだったわ。でもあの頃の私は怪我なんか気にせず、踊ることに夢中になってた」


 緩やかな上り坂を登っていくと見晴らしのいい、高台に出た。静かな町を見下ろせる、風の気持ちいい場所だ。紫に変わる空の向こうには、追いやられていくオレンジ色が見えて夜の気配を感じた。

 町を見下ろしながらセレンは言葉を続ける。


「ただ夢中になったからって上達するとも限らないのが非情よね」


 嘲笑にも似た言い方で彼女らしくなかった。


「それから何年も続けたんだけど、私にダンスの才能はなかったみたい。大会やコンテストにも何度もチャレンジしたけど全く結果が残せなかったわ。最初のうちはそれでも楽しかったしいいやって思ってたんだけど……高校に入ってからかしら。年下の子とか、私より歴が浅い子に追い抜かされるようになった。……醜いわホント。結局、実力がない自分が悪いだけなのに他人に嫉妬ばっかり。あんなに踊るの好きだったのに負けるが嫌で逃げちゃった」


 項垂れたように自分の尾鰭に目を落とすと、セレンはそのまま口を閉じた。

 よくある話だと思う。

 のめり込んだ物に才能がなくて、他の人に追い抜かされていく。周りに嫉妬して、そんな自分に嫌悪感を抱き、そして閉じこもる。

 私はそこまで何かに本気になれたことがない。だから彼女の痛みを完全に理解できるはずもなかった。ただそれでも何もせずにいられるほど、セレンに情がないわけでもなくて――そっと後ろから抱きしめた。

 ヒュッと一瞬セレンが驚いた吐息を漏らして、私の回した腕に自分の手を重ねた。

 

「……怖いの。また誰かに負けて、なんにも出来ない自分を嫌いになるのが。もう惨めな自分を見たくない」

「優劣からは逃げられません。生きていれば必ず自他を比べる場面に直面します。学業なんてその最たる例です。ナンバーワンよりオンリーワン、なんて聞き心地のいい言葉もあったりしますけど、それで満足して生きていけるほど人間は完成されてない。劣等感に押し潰されるのを覚悟で、歩むしかないんです」

「……」

「外に出なきゃ、慰めてくれる人も出てきません。私にできるのは背中をさすることくらいですが、少しは歩む勇気になりませんか?」


 私の腕に濡れた雫が落ちてくるのを感じた。セレンの呼吸が少しずつ荒くなる。あっという間に彼女は涙を溢れさせて、肩を震えさせながら詰まった言葉を吐き出し始めた。

 

「……なんで? なんで私ってこんなに生きるのが下手なの? 負けず嫌いでプライドが高いくせに誰かに負けたら逃げてばっかで、もうダメだって落ち込んで。もっかい立ち上がる根気も勇気もなくて。……分かってるよ。分かってるわよ、こんなしょうもない悩みで病にかかるなんて馬鹿馬鹿しいってことぐらい! もっと楽に好きなこと続けたかった。好きって感情だけでダンスやりたかった。他の人と比べてばっかで勝手に傷ついて、なんにもできないんだって自分を責めて。もうやだよ、苦しいよ……」


 ボロボロになりながら気持ちを吐露するセレンを強く抱きしめる。お互いの鼓動が伝わるほどくっついて、彼女が落ち着くのをジッと待った。


「よく頑張りました」


 ◆


 散歩から帰ってくるとセレンの涙は止まっていて、表情もどこか晴れやかだった。気持ちを吐き出せてスッキリしたのだろう。

 彼女は家に着くなり、外へ出ると宣言した。

 外への出方は簡単だ。本人が現実に向き合うことを決めて眠ってしまえば、起きた時にはこの夢のような世界から抜け出している。

 最後まで話をしたいと言うので、私はベッドに横たわるセレンをすぐ側で見下ろして寝付くのを待っていた。


「そういえばあなた、何者なの?」

「何者?」


 仰向けになったセレンが私の顔を見つめて聞いた。

 

「しばらく一緒にいたけどホントになんの病も持ってなさそうだし、なんでこの町にいるのかなって。もしかしてその手袋の下に病が隠れていたり?」

「これは仕事道具です。治療中はこれを付けていないと私もあなたたちの病に影響を受けて、心が暗い方に引っ張られたりしますから」

「治療? ……ああ、そういうこと。心の病を治すお医者様だったわけね」

「今はそんな認識でいいでしょう」

「何よそれ。はっきりしない言い方ね。また会うか分からないんだから最後くらい自分の正体明かしてほしいわ」

「ふふっ」

「……なんなのよ」


 明確な答えを言わない私にセレンは釈然としない顔をした。そして諦めたようにため息を吐く。


「もういいわ。寝る」

「ええ。おやすみなさい」

「おやすみ、ヒイラギ。……ありがとね」


 そう言って小さく笑みを浮かべると、彼女は穏やかに目を閉じて眠りに入った。寝ついて数分経つと、セレンの体は徐々に消えかかってついには煙のように消えてしまった。

 これでもう向こうへ行ったのだろう。私の仕事も無事に終えたことになる。

 セレンが寝ていたベッドに横になって、私も元の世界に向かった。

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